黒羽で歌仙を巻く

https://www.1101.com/gakkou_ml/2019-04-25.html  【「歌仙」を巻く】 より

社会人になって間もない頃、東明雅(ひがしあきまさ)さんの『連句入門』(中公新書、1978年)という本が評判になりました。「おもしろかった」という感想を洩らす人が意外なところに現われます。「へー、そうなの?」――いまいちピンと来ていない、ノリの悪い自分に気づきます。

「文学はもっと孤独な自己表現ではないか」と生まじめに考えていたわけではありません。ただ、みんなでワイワイ、ガヤガヤやりながら詩を作るんでしょ、というのに、なんとなく照れくさく、ご遠慮しておきたい気遅れを感じたのです

やがて、大岡信、岡野弘彦、丸谷才一さんらの『歌仙の愉しみ』(岩波新書、2008年)を読みます。それ以前にも、『浅酌歌仙』(石川淳/丸谷才一/杉本秀太郎/大岡信、集英社)などを手にした記憶があります。いずれもおもしろく、たのしい本でした。

ただ、読めば読むほど歌仙というのは、並外れた素養の持ち主が、風流と雅(みやび)の至芸をもって「一夕の歓」をつくす遊興で、あだやおろそかに手は出せないと思えました。

ですから、「万葉集講座」で「歌仙」を巻いてみませんか、と最初に永田和宏さんから提案された時も、「できる」という確信にはほど遠い心境で聞いていました。

歌仙とは、5・7・5の長句と7・7の短句を互い違いに組み合わせて詠む1巻36句の連句です。名は和歌の36歌仙に由来し、原則として、連衆(れんじゅ)が一堂に会して合作するものです。

<連句とはもともと、鎌倉=室町のころにはやつた連歌を俗に崩したもので、芭蕉以後、盛んになつた文学形式。藝術であり、社交の具であり、娯楽を兼ねる点で茶事に似てゐます。いはゆる俳諧とは本来この連句のことを指す。一句立ての句は連句の発句(ほっく)から独立したもので、もともとは格が低かつた。/芭蕉が、「発句は門人のうち予に劣らぬ句する人多し。俳諧においては老翁が骨髄」と述べたことは、彼およびその時代が連句をどんなに重んじてゐたかをよく示すでせう。>(丸谷才一「わたしたちの歌仙」、『歌仙の愉しみ』所収)

芭蕉の「老翁が骨髄」とは、「発句(=俳句)」ではなく、「連句」にこそ自分の本分がある、という意味です。連句は何人もの連衆が集団制作する「座」の文学です。集まった人たちの作を巧みに捌(さば)き、場を盛り上げながら、より良い作品を作り上げていく技量において、自分ほど縦横無尽な手練手管をもった俳諧の宗匠はいませんよ、という芭蕉の自負が感じられます。

いずれにせよ、和気藹々(わきあいあい)とした場の雰囲気を活かしながら、各人の最良の部分を引き出し、より高次な作品へと導いていく技量、度量、センス、社交性を求められるのが宗匠です。識れば識るほど、敷居が高く感じられます。

ところが、不思議なもので、この「万葉集講座」を始めてみると、なんとなく妙な自信がめばえてきました。教室で歌仙をやれなくもないんじゃない? “開き直り”にも似た冒険心が兆してきました。

そんな折も折、『歌仙はすごい』(中公新書)という快著が今年の1月に刊行されました。作家・辻原登、歌人・永田和宏、俳人・長谷川櫂の3人によるもので、これが抜群におもしろい! 強力な追い風になりました。

そして、この風を思いっきり背に受けて、空に飛び立とうとしたのが、4月17日の授業です。永田和宏さんが捌き手(宗匠)になって、99名クラス+ゲスト参加者で大規模な「歌仙」を巻いたのです。

やり方はこうです。ほぼ7人ずつのグループをつくって、これをA、Bの2チームに分けます。

5・7・5の発句は、永田さんが作ります。7・7の下の句から、受講生たちが作ります。初めの6句までは団体戦です。A、B両チーム内の各グループが、それぞれ相談しながら1つの句を作ります。それをチームごとに持ち寄り、永田さんが寸評を加えていきます。「どうしてこの句になったのか」という創意を確かめながら、「歌仙」の基本的なルールを解説し、最終的にその中から1つの句を永田さんが選びます。Aチームから1句。Bチームから1句。こうしてA、B、2つの違った流れが生まれます。

以降は同じやり方で、次の5・7・5をグループごとに作り、永田さんがどれか1つに絞り込みます。A、Bが異なる歌の物語を詠み継いでいきます。それを6句――「初折(しょおり)」の表(おもて)――まで続け、7句目(初折の裏)からは団体戦でなく個人戦に切り替えます。

この間のプロセスは、前に置かれた2台のモニター画面に表示され、歌が生成発展していくさまを目で追いながら、先へ先へと歩を進めます。

 やってみると、これがおもしろいの、なんの。ウマイだのヘタだの関係なし! 歌仙のルールに反しているから「ダメ!」もあれば、「まぁいいでしょう」もあり。宗匠・永田さんの判断で、歌の流れを受けながら、ある時は大胆な転回をはかり、ある時はシブくひねってみたり、局面を自在に切り拓いていく即興のドラマそのものです。

 意識を集中して、句をひねり出そうとする受講生の表情もステキです。みずから参加した糸井重里さんが、翌日(4月18日)の「今日のダーリン」に書きました。

<とにかく速やかに歌をつくって発表しあうわけですから、みんな恥ずかしがって遠慮しちゃうだろうなと(略)思っていたのですけれどね。それが、恥ずかしさを乗り越えて、みんなつくるつくる。そして、自信なんか関係なく、発表もしちゃう。こんなじぶんだとは思わなかったと、口々に言ってた。>

まさに「場」の力に巻き込まれ、予想もつかないおもしろい物語が展開したのです。

 スタートからしてハプニングでした。「発句だけは自分が作ります。あとは皆さんに作ってもらいます」と言って、永田さんが板書しました。

 梅見酒 旅人(たびと)と酌まむ 令和かな

前回の永田さんの授業や、新元号「令和」の命名などをふまえた発句です。ぼんやり聞いていると、恐るべきことばが降ってきました。「歌仙では客人が発句を詠みます。次に脇(わき)と呼ばれる第2句は、たいてい客を迎える主人が詠むのですね。この場合は、河野さん、糸井さんということになります」。

えッ! いきなり打合せにない、無茶振りを講師が仕掛けてきました。糸井さんが遅刻したために、ワリを食ったのはゲスト参加の俳優・寺田農さん。「きょうは何のお役目もありませんから、ごく気軽にお越しください」と私から言われていたにもかかわらず、いきなり糸井さんの代役で、下の句を作るハメになりました。

やむなく、私も慌てて取りかかります。持ち時間は5分。さて‥‥こんなもの、一度も作ったことないぞ!

ひねり出したのは、字余りでロクなものではありません。とはいえ、いずれオンライン・クラスでバレてしまいます。恥を忍んで書いてしまいます。

 玄海の風に襟立て朝帰り

 私の気持ちを説明しておきます。とっさに浮かんできたのは、「太宰府」という固有名詞でした。発句は新元号「令和」の出典になった『万葉集』巻5、太宰府帥(そち)・大伴旅人の「梅花の宴」をふまえています。時節は正月13日ですから、太陽暦だと2月8日頃です。「風和(やわ)らぐ」といっても、まだ風は肌を刺すように冷たかったはず。「学校長だより」No.76に書いた通りです。

 太宰府なら、玄界灘から吹いてくる冷たい北風でしょう。海の向こうは朝鮮半島。白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で、日本は唐・新羅(しらぎ)連合軍に手痛い敗戦をこうむります。日本列島が外国支配の危険にさらされたその時から、まだ半世紀ほどしか経っていません。律令国家の体制を整え、新たな国づくりへの転機となった敗戦ですが、そもそも九州北部沿岸に防人(さきもり)が配属されたのも、唐・新羅による日本侵攻を怖れたからです。

 そういう緊張感をはらんだ風が朝鮮海峡からは吹いていたはず。梅花の宴に集った万葉びとたちも、お気楽モードだけではなかったでしょう。さまざまな憂いや不安を胸に秘め、臨席した人も多かったでしょう。2年前に妻を喪った大伴旅人自身がそうでした。

 となれば、宴が果てた後に、いまであればどこかにもう一軒、二軒と、立ち寄らないでは帰れない。ついつい飲み過ごして、朝帰りしたのではないか。

 新しい「令和」の時代にも、困難な課題が引き継がれます。いまの日韓関係も楽観できるわけではありません。そんなこんなで、「玄海の風に襟立て朝帰り」だったわけですが、なんと、季語が入っていない! これは、字余り以上のチョンボでした。

 寺田さんは「あっと云う間に霞もおぼろ」。歌仙の場にしばしば立ち会っているだけに、くやしいけれど、手慣れたものです。

ともあれ、これで最初の緊張が解けました。あとは、糸井さんが書いたように、「みんなつくるつくる」。

具体的な展開の様子は、オンライン・クラスでまたご確認いただければと思います。もとより全員が初体験ですから、未熟なのは当然です。が、ヘタはヘタなりに大いにたのしめるところが、この歌仙という遊びの包容力です。永田さんが「歌仙という至福の時間」(『歌仙はすごい』所収)で、その魅力について語っています。

<歌仙のおもしろさは、一つには共同で一つの物語を作っていくところにあるだろう。そして、もう一つは、自分の前の連衆(れんじゅ)が生み出した言葉に、どのように反応するかという、その反応の瞬発力にかかっているのかもしれない。

 歌仙は、後戻りすることを禁じているが、一方である場にとどまることも嫌われる。情景と物語はどんどん進んでいかなければならない。(略)歌仙では、次の人にそっと手渡すという感覚が大切。言葉を自分の内側に囲い込んでしまったり、逆に投げ出してしまっては連衆に迷惑をかけることになる。次の人が自分の言葉に反応して、ある意味、付けやすいように、その<余地>を残すことが大切なようである。>

 自分の内面に向き合い、ひとりで世界を構築していくのが近代文学以降の主流だとすれば、「座」の文芸である歌仙は、いかにも外に開かれた文学の形式です。長谷川櫂さんも「歌仙という祝祭」(同)で述べています。

<俳句や歌仙を「座の文芸」と呼ぶことがある。この「座の文芸」の正しい意味は、複数の人が一堂に会して共同作業で俳句や歌仙を作るということではない。歌仙の場合、参加する連衆が「私」を捨て去って、次々に別の人物を演じる。そこに仮面をかぶったさまざまな人物、動植物、物体による祝祭の空間「宴」が出現することをいうのだ。

 日本人がヨーロッパから学んだ近代文学が「私」に固執する文学であるなら、連衆が「私」を捨てて別の人になりきる歌仙は(そして歌仙から生まれた俳句も)その対極にある文学ということになるだろう。>

 永田さんによれば、「こんなにおもしろくて、安くつく遊びは他にはないのではあるまいか」だそうです。かくて、われわれの歌仙初挑戦「旅人(たびと)と酌まむ」の巻は、2時間ほどの駆け足ながら、なごやかにお開きとなったのです。


http://poo-takada.blogspot.com/2015/06/blog-post_2.html 【歌仙とは】より

「おくのほそ道」を旅する芭蕉と曽良は、黒羽(栃木県)の館代浄法寺何がしの方に訪れて、10日以上が過ぎました。

毎日、何をやっていたのでしょうか、曽良の随行日記によると、あちこちと出あるいていたようです。

「おくのほそ道」に書かれている以外の日の外出は、営業と思われます。お金を集めるためには人を集めるのが一番です。 黒羽、那須界隈には、館代浄法寺何がしの図書高勝、俳号は秋鴉、弟の桃翠をはじめとして俳諧に理解のあるお大尽がたくさんいたようなので、俳諧の個人指導をしたりや歌仙を巻いて、旅の資金調達をしていたようです。

歌仙とは

和歌の古今和歌集巻十九雑體に滑稽な歌を集めた「俳諧歌」というジャンルあります。

俳諧歌を、上の句五七五と下の句七七を別々の人が作ってひとつの和歌としたのが俳諧連歌です。

俳諧連歌を複数の人と、五七五の長句と七七の短句を繰り返し詠み、句を連ねたものが連句です。

連句では、和歌にして五十首分を百韻といいます。芭蕉とその弟子たちに詠まれた三十六韻を三十六歌仙の語呂合わせから歌仙といいました。

歌仙の見本

曽良の随行日記と一緒に書かれていた「俳諧書留」より、那須余瀬の翠桃宅で巻かれた歌仙です。

  奈須余瀬  翠桃を尋て

秣おふ人を枝折の夏野哉 (芭蕉)        青き覆盆子をこぼす椎の葉 (翠桃)

村雨に市のかりやを吹とりて (曽良)      町中を行川音の月 (はせを)

箸鷹を手に居ながら夕涼 (翠桃)        秋草ゑがく帷子はたそ (ソラ)

ものいへば扇子に顔をかくされて (はせを)   寝みだす髪のつらき乗合 (翅輪)

尋ルに火を焼付る家もなし (曽良)       盗人こはき廿六の里 (翠桃)

松の根に笈をならべて年とらん (はせを)    雪かきわけて連歌始る (翠桃)

名所のおかしき小野の炭俵            碪うたるゝ尼達の家 (曽良)

あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ (翠桃) 露とも消ぬ胸のいたきに (翁:芭蕉のこと)

錦繍に時めく花の憎かりし (曽良)      をのが羽に乗る蝶の小車 (翠桃)

日がささす子ども誘て春の庭 (翅輪)    ころもを捨てかろき世の中 (桃里:)

酒呑ば谷の朽木も佛也 (翁)        狩人かへる岨の松明 (曽良)

落武者の明日の道問草枕 (翠桃)      森の透間に千木の片そぎ (翅輪)

日中の鐘つく比に成にけり (桃里)     一釜の茶もかすり終ぬ (曽良)

乞食ともしらで憂世の物語 (翅輪)     洞の地蔵にこもる有明 (翠桃)

蔦の葉は猿の泪や染つらん (翁)      流人柴刈秋風の音 (桃里)

今日も又朝日を拝む石の上 (翁)      米とぎ散す瀧の白浪 (二寸)

籏の手の雲かと見えて翻り (曽良)     奥の風雅をものに書つく (翅輪)

珍らしき行脚を花に留置て (秋鴉)     弥生暮ける春の晦日 (桃里)


https://kobun.weblio.jp/content/%E7%99%BE%E9%9F%BB  【百韻】より

連歌(れんが)や連句の形式の一つ。発句(ほつく)から挙句(あげく)までの一巻(ひとまき)が百句からなるもの。懐紙四枚を二つ折りにして書き記した。連歌の基本の形式で、俳諧(はいかい)でも貞門(ていもん)や談林では行われていたが、蕉風(しようふう)以後は、三十六句からなる「歌仙(かせん)」の形式が普通になった。