https://sengohaiku.blogspot.com/2015/02/hh4.html 【「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」 その4/筑紫磐井・堀下翔】 より
16.堀下翔から筑紫磐井・中西夕紀へ(筑紫磐井・中西夕紀←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi , Yuki Nakanishi.
断定の評論と疑問の評論。その二つを挙げて磐井さんは断定の評論の方がより評論としてはよい、と思っていらっしゃるわけですね。その理由は論争が不毛になるかどうかだ、と。
「評論はあっても論争が進まない」とのことで、もしかしたら僕がまさに論争なき時代の人間だからかもしれませんが、現在において、論争が繰り広げられることによってすぐれた評論が生まれるシーンというのはあまり鮮明にイメージできません。このブログや「週刊俳句」といったウェブ媒体、あるいはTwitter上で多少のやり取りがあるのを見たことはありますが、論争とはそんなものではなく、俳壇全体に熱気を送り込み、後々まで思い出されるようなもの、という語感がありますがいかがでしょう。草城、草田男、犀星といった作家が評論を書きまくった「ミヤコホテル論争」などがその代表格だと思いますが、まさに「論陣を張る」という大がかりな表現がぴったりとくる思想を、雑誌の上でぶつけ、ぶつけられた方は反論を書き、雑誌はそれを載せる、そういったものを論争という言葉からイメージします。磐井さんは、そのような応酬あってこその評論だとお考えなのでしょうか。
17.筑紫磐井から堀下翔・中西夕紀へ(堀下翔・中西夕紀←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki Nakanishi
論争があるかないかが価値があるというより、論争のあるなしで価値が浮き彫りになるということだろうと思います。
BLOG俳句新空間で「―俳句空間―豈weeklyを再読する」を始めています。初回では、「豈weekly」の第0号(創刊準備号)に載った創刊のことば、「俳句など誰も読んではいない」(高山れおな)を掲げておきました。評論・批評中心とした「豈weekly」がどのように立ち上がったか、当時の若い人たち(堀下さんからすれば全然若いとは見えない筈ですが)が、どのように考えていたかは参考になると思いますが、実はこれと裏腹に、当時私は、「評論など誰も読んではいない」のではないかという思いが消えませんでした。正確にいえば、①評論など誰も読んではいない、②読んだとしてもしばらくすれば、溢れる日常の多忙さの中で忘れ去られそんな評論があったことさえ忘れてしまうのではないか、という不信です。
たった今出ている冊子版「俳句新空間」第3号ではこの点について少し触れた批評を書いています。この対談が更新されているころにはお手元に「俳句新空間」第3号が届いているのではないかと思いますので併せてご覧ください。BLOGと冊子の存在意義にかかわる問題にまで話を拡大していますので焦点がぼけているかもしれませんが。
それはそれとして論争があるということは、「評論を誰かが読んでいる」ことのネガティブな証拠であり、また論争を通じて「評論が記憶に残ってゆく」ことの可能性に期待するものです。
2007年から開始された「週刊俳句」(これはもっぱら作品評が多かったと思います)、2008年から開始された「豈weekly」(その後の、「俳句樹」「詩客」「BLOG俳句空間」「BLOG俳句新空間」を含めます)が長い時間を持ち始めたことは否めません。しかし「歴史」というのはやや憚ります。
多少とも歴史に値するのは、『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』ぐらいでしょうか。これもBLOGの本来の批評力からいえば、バイプロダクトです。手前味噌になりますが中西さんらと編んだ『相馬遷子 佐久の星』は一応評論・鑑賞のていをなしていると思いますが、これも本となって初めて批評されるものとなりました。
いつの間にか、雑誌の批評とBLOGの批評に話題が転じてしまいましたが、しかしこれに評論集となった評論を加えると、雑誌もBLOGも批評としての危うさが判ってくると思います。あるいは、BLOGや雑誌に掲載された批評を、単行本の評論集とすることの難しさも分かります。雑誌に掲載した時評を評論集にまとめた経験は一度ありますが、その際にはすべてを再構成する意志力が必要であるように思います。BLOGや雑誌の時評は評論集の評論たり得ないかもしれない、と時折反省してみることが必要であるように思います。もちろん、時評に現れた批評家の個性以外のものが、評論集の評論に突如現れることもないのは確かですが。
話を戻せば、BLOGの批評から論争が生まれていないのは確かだと思います。もはやそんなものは必要ないのだという答えもありますが、論争さえない所に、如何なる記憶・歴史があったのか、と考え直してみたいと思います。論争に価値があるとは思いません(社会性俳句論争、前衛俳句論争)。しかし、論争さえない社会が住みよいとも思えません。論争に変わる何かが欲しいところです。
* *
長くなったのでここらでいったん打ち切りますが、断定の評論と疑問の評論のどちらがいい悪いではなくて、読者がどのように向かい合うかで、断定と疑問になってしまう、ということです。これは入口の議論です。入口さえ通過すれば、断定も疑問も両方の評論家の文体の差に落ち着くでしょう。それはそれで自由にやった方がいいと思います。ただ入り口で、疑問しか出ていない反論はたぶん次に続くことは少ないと思います。今回の堀下さんのように直截的に「磐井さんは、そのような応酬あってこその評論だとお考えなのでしょうか」(これは明らかに疑問形ですが、その背後にムラムラとした堀下さんの反骨・反発が見えてくるようです)と聞かれた方が、話の継ぎようもあるというものです。
https://sengohaiku.blogspot.com/2015/04/hh7.html 【「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その7 / 筑紫磐井・堀下翔】 より
21.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki
筑紫:何も文学論に無理に当てはめる必要はないでしょう。なぜなら我々が扱っている575という作品は文学【注】であるかどうかは解らないからです。
大学で体系的に文学を学ぶ堀下さんなどと違って、私の詩学入門は『歌経標式』や『文心彫龍』等の極めていい加減な本ですが、それだけに自分なりの考え方をまとめるにはいい教科書でした。いい加減はいい加減なりに核心を突きます。その根底思想は、文学などはなく、ジャンルが先にあるというものです。
明治初年に西欧から導入した「文学」という概念を、それを遡ること三~四百年の俳句ないし俳諧に適用するのはどことなくおかしいようです。明治二十年代に帝国大学に入学した夏目漱石に、父が大学に入って何をするのか、と聞いたので、漱石が「文学(ご承知の通り漱石は英文学専攻です)だ」と得意げに答えると、父親が「何、軍学?」と答えたという有名な話があります。これは父親が迂闊なのではなくて、父親のような人間ばかりがいる、ちょっと前まで江戸と呼ばれていた東京で、「文学」と言って通じると思っていた漱石の方が迂闊なのでした。
このような時代混乱・時代錯誤は、最近俳文学者の堀切実氏と論争して浮き彫りになっているところです。私が、俳句で「伝統」ということばが生まれたのは(子規以前にはなく)せいぜい虚子からであり、それを遡って芭蕉にまで「伝統」を使うのはおかしい、それなら「正風」「道統」というのがいいところではないか、といったのに対し、堀切氏が岩波の「文学」で堂々と反論されたことがあります。もちろん、堀切氏が間違っているとする論拠は、私の『戦後俳句の探求』をご覧になればよくお分かりの通りです。こと程左様に「文学」「伝統」などの言葉が怪しげであることは知らねばならないでしょう。
『定型詩学の原理』で指摘しておいたのですが、「文学」が今日の意味で用いられたのはそう古いことではなく、フランスの『百科全書』、カントの批判哲学、ヘーゲルの芸術論においても「文学」はまだ登場しません(これらにおいても偶然かも知れませんが、『文心彫龍』同様言葉の芸術の前にジャンルがあると述べているように解釈しました)。この時代以前は、文学はまだ「文字」の意味に近いものであったようです。「文学」に代わって芸術論でいわゆる文学作品の考察の際盛んに論じられたのは、実は「詩」でした。アリストテレスの『詩学』以来の伝統のあるこの概念に立って、俳句は詩であるか、と問うことは意味があると思いますが、俳句は文学であるかはあまり適切な質問とは言えないと思います(その割には最近、詩は滅亡したと詩人自身が言っているようですが。これは皮肉)。
だから我々は「文学」から解放されて、「定型詩」を考えるべきでしょう。ご質問の、<日本の俳句の世界ではまったく浸透していない>というのは事実でしょうが、そもそも浸透すべき環境にあるのかどうかは、上の理由からよく考えてみるべきでしょう。「俳句は文学ではない」(波郷)、「俳句は無名がいい」(龍太)「滑稽・挨拶・即興」(健吉)は俳人の血肉になっている思想だからです。
*
その時見えてくるのは「テクスト」です。これはバルトの指摘する前から自明の理なのです。万葉集が文学であるか、詩であるかを論ずる以前に「万葉集」というテクストは存在しているからです。こうしたテクスト論は、バルトのテクスト論と同じと言うべきか、全然別と言うべきか、むしろお伺いしたいと思います。
◆ ◆
次に作者がいるかどうかと言えば、定型詩学では、「作者」は存在せず、「編集者」が存在するというのが鉄則です。「テクスト」には作者は不要であり、編集者こそが不可欠だからです。だから、バルトが言う「作者の死」は余り意味がなく(存在しないものは死にようがないからです)、「作者の不在」こそが普遍的真理ということになります。こうした作者論も、バルトの作者論と同じと言うべきか、全然別と言うべきか、お伺いしたいと思います。
*
『万葉集』で多分間違いないのは、大伴家持という編集者がいたことであり、しかし額田王という作者は存在しなかったかも知れません。額田王はまだしも、有間皇子や大津皇子は間違いなく(歌人としては)存在しなかった、古代人の感傷の対象にすぎないといえます。こういう人が、こういう状況にあれば、こういう歌を詠むであろうという願望にすぎません。編集者の意図した作品の焦点が作者なのです。時には、編集者と作者は一致するかも知れませんが(大伴家持。それでも作者の全貌を見せてはいない)、あるいはしないかも知れません、また編集者が観念で創り出した作者(有間皇子や大津皇子)もいるわけです。
もちろん、堀下さんが話題とされた相馬遷子ともなると、近現代の作家ですから余程「文学」の「作者」に近くなりますが、それでも定型詩である以上、句集や馬酔木投稿欄というテクストを通してみているわけで、編集者の一面をやはり残していると思います。遷子は自己演出しているのです。
これに対して批評家が出来ることは、作者の生身を探求することではなく、テクストを通して合理的解釈を作ることです。それが批評であると思います。ただ、相馬遷子のように埋もれた作家になると、世間は遷子のテクストを作ることにすら怠慢であり、個々の批評家自身が埋もれたテクストを探索するという余計な作業をする必要があります。なぜなら、相馬遷子全集ですら不完全きわまりなく、相馬遷子の全貌を浮かび上がらせるものではないからです。これは、我々の研究書『相馬遷子 佐久の星』を読めばよく分かる通りです。だから「調べる」とは、テクスト周辺作業に過ぎません。しかし貴重な作業ではあります。相馬遷子がどのようにして生まれたか、どの様に成長したか、どのように絶望したかを知りたくて調べたといいましたが、何も遷子その人、そのものを科学的に知ろうとするわけではなく、そうした論拠となる作品(テクスト)を追求したというべきであったかもしれません。なにせ、遷子が馬酔木で初めて詠んだ俳句は、我々の『相馬遷子 佐久の星』が出るまで誰も知らなかったのですから。俳句の場合テクストとは、1句である場合もあるでしょうが、テクスト群である可能性もあります。人によって読むべきテクストが確定していない、その状況で批評するのです。不確定なテクストの解釈は、文学論とも、バルト流のテクスト論とも違うかもしれません。
その意味で、我々の行う俳句の批評とは想像であり、壮大な創造でもあります。無から有を作る作業であるといえます。
【注】「文学」とこともなく言いましたが、そもそも「文学」はどこに存在しているのでしょうか。日本文学、アメリカ文学、フランス文学、中国文学に共通する「文学」は果たして存在しているのでしょうか。「世界文学」という概念が、唱えられたようですが、これも新しいものです。
少なくともこのコラムにもっともみじかな定型詩で見れば、日本の定型詩、アメリカの定型詩、フランスの定型詩、中国の定型詩と並べた時の、共通項である「定型詩」は存在しません。個々の定型詩が存在するばかりなのです。
更に言ってしまえば、日本の定型詩は、日本語の文法[辞]と日本語の辞書(単語体系)[詞]からできており、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。
拙著『戦後俳句の探求』で日本の定型詩から「辞の詩学」を摘出しましたが、これは助詞・助動詞の詩学であり、これが日本の詩歌の大きな特色をなしているという主張です。これが他の定型詩との関係でも、特に日本の詩歌と中国の詩歌の根本的な違いを生みます。なぜなら中国語に助詞・助動詞は存在せず(極めて乱暴な言い方で正確ではありませんが、輪郭を理解するために一応こう言っておきましょう)、中国の定型詩に「辞の詩学」はないからです(もちろん別の詩学が存在するとは想像されます)。
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
このような言語原理の詩歌は中国では生まれません。典型的な「辞の詩学」の定型詩だからです。
https://sengohaiku.blogspot.com/2015/05/hh8.html 【「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その8 / 筑紫磐井・堀下翔】 より
22.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi
俳句は文学か、という話になりましたね。僕の短い人生でもガキから大人までが折に触れて議論を戦わせていたりあるいは持論を展開していたりしている印象があります。俳句は遊びだ、とか、俳句は庶民のものであって「学」ではない、とか、そういったあたりの話はよく聞くところで、それは少し精神論めいているような気もしないではないのですが、とにかく俳句は文学ではないという言説は根強い。第二芸術論を俟つまでもなく、です。
たしかに〈文学〉の概念は文明開化で流入したものですから、俳句に限らずおよそ全ての古典は文学としては書かれていません。その点、自らに文学意識を課した明治以後の作家とは区別する必要があります。〈文学〉の誕生とともに国民的歌謡「としての」万葉集、国民的長編小説「としての」源氏物語、国民的英雄譚「としての」平家物語がここに改めて成立していっただけであり、それらは〈文学〉として書かれていったものではない。そういう意味で俳句を文学ではないと言ってしまうことはできるでしょう。がしかし万葉集は、源氏は、平家は、文学ではないのでしょうか。明治以後百年以上を費やしてそれらを文学として捉えていった行為はすべて無駄だったのでしょうか。そうではないのは明白 だと僕は思います。言い換えればそれは文学という方法で個々の作品を読む行為のことであって、源氏にせよ俳句にせよ、それは文学として書かれていない、と言って切り捨てるのはお門違いの感があります。その枠組みの中にあって、バルトの発想をこれに用いるのが適切かどうか、という話があるのみではないかな、と。尤も以上は全て直感的な発言ですが。
いくつかテクストに関して質問がありましたが、回答は少し先延ばしにします。〈「テクスト」には作者は不要であり、編集者こそが不可欠だからです〉が特にそうなのですが、いまひとつ呑み込めないところがあって、ちょっとそれは違うんじゃないの、とは思っているのですが、いましばらく整理してからお返事したいと思います。
それにしても(と時間稼ぎをしますが)、やや意外なのは俳句は文学ではないと言った同じ人が俳句は詩であると考えておられるところです。俳句は文学か、という設問とごく似た場所にあるのが俳句は詩か、の問いだと思います。俳句は詩ではない、という人ともよく会います。僕は上と同じ理屈で、俳句の言葉を詩として捉えることにはそれなりの意味があると思っていますが、日常お世話になっている島田牙城などはことあるごとに俳句は詩ではないと書くので、そこだけは相いれません。この一派には詩という言葉を現代詩と同一視しているようなところが往々にしてあったりもして(前衛俳句に対して「現代詩の一行のような」といった評をするのは常套手段でしょう)、そういった意味ではたしか に別物ではあるのですが、音楽的な、喚起的な言葉を詩と呼ぶとき、そこには俳句もあるように思うのです。これもまた僕のカンです。お伺いしたいのは、磐井さんはどうして俳句を詩だと思われるのか、という点です。
23.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita
1.俳句は文学ではない
(1)「俳句は文学でない」派は、全く俳句は文学でないとは言っていません。我々は、現代に息する以上、俳句も文学であるという見解の影響を受けてしまっています。「俳句は文学でない」派は、乱暴にいえば、俳句は50%ぐらいは文学であるが、文学となっていない50%ぐらいがあると考える人々です。「俳句は文学である」派が余りに横暴であるから、少しそれをオーバーに言っているのです。これくらい言わないと、「俳句は文学である」派は反省しないからです。石田波郷も、高濱虚子も、山本健吉もここでいう趣旨とそうは違っていないと思います。
一方、「俳句は文学である」派は、俳句は100%文学であると信じている人々です。逆にいえば、俳句に文学でない要素は全くないと考えているような人々です。その意味では教条主義的な発想が強いといえます。例えば、花鳥諷詠俳句をこれらの人々は、文学ではない、近代以前の抹殺すべき俳句だと考えます。これは間違っているということを主張するために、「俳句は文学でない」派に与しているにすぎません。
こんな心をこめて私は次のような句を詠んだことがあります。なかなか好評でした。
俳諧はほとんど言葉すこし虚子 磐井
(2)議論を進めて、御質問の「万葉集は、源氏は、平家は、文学ではないのでしょうか。明治以後百年以上を費やしてそれらを文学として捉えていった行為はすべて無駄だったのでしょうか。」は全く異議がありません。当然のことです。ただこれは裏返して「「(万葉集、源氏、平家について)明治以前1100年以上を費やしてそれらを文学でないものとして捉えていった行為」も尊重すべきでしょう。近代100年の歴史を尊重して、近代以前1100年の歴史を無視するのは筋違いです。
「俳句は文学でない」派は上にのべたように折衷派――日和見派なので両方の見解を受け入れることが可能ですが、「俳句は文学である」派は寛容性が無いために上のようなダブルスタンダードの受け入れは不可能ではないかと思います。
ついでながら、文学として受容されていない万葉集、源氏、平家、あるいは俳句、短歌などが、文学としてすべて受け入れられたわけではありません。それはジャンルによる厳しい選別が行われているのです。近代による、「近代以前」の圧殺です。あまり適切な例とは言えませんがその破壊力がすさまじかった例として、また身内破壊の例として、明治の国家神道(神の道を近代に昇華させたもの)をあげましょう。国家神道は、日本全国の村々の神社を多く破壊していきました(県によっては90%の神社が破壊され、二度と復元できなかったといいます。(驚くことに異教徒やGHQでなく)明治政府そのものがある意味で最大の神社の破壊者であったのです。これまた余談になりますが破壊したその理由は、国家が奉納しないといけない幣料を節約するための行政改革であったといいます。誠に合理的な判断で即座に納得してしまいました)のと通う恐ろしさがあります。例えば「俳句」は確かに文学として受け入れられていただいたようです(ここではわざわざ敬語を使ってみます)。「川柳」はやや微妙なところがあります(私ではなく「俳句は文学である」派の受容態度です)。「雑俳」は、たぶん世間一般、また「俳句は文学である」派では文学として受容されていないと思われます。そう、文学として垣根を立てる以上このようになることは避けられないでしょう。私は、「俳句は文学でない」派なので、何ら垣根を立てず、現在残る「文芸塔」冠句、岐阜狂俳、「自由塔」狂俳、土佐テニハ、肥後狂句、薩摩狂句など、地方地方の芳醇なる雑俳文化を文学でないと言って否定する態度はとりたくないと思っています。
最後に言えば、「俳句は文学でない」派は謙虚ですから、以上のように文学か文学でないかを裁断することに関心を持ちません(「俳句は文学である」派は厳しく裁断するから、その意味で桑原武夫と何ら変わらないでしょう)。私に関心があるのは、なぜ文学でない要素が俳句に入っているのか、文学でない言語芸術(これもまたややこしい用語ですが)が他にないのか、文学でない要素はどのような豊かさを持っているのかであり、それを確認したいと思うだけなのです。
2.俳句は詩である
(1)俳句は文学でないといいながらなぜ、俳句が詩であると言うのか。
上述の「俳句は文学である」派批判で私が取ったのは、論争の簡略化です。長くくどい文章を費やさないでも一言で納得できる理窟を採用したのです。「俳句」―――少なくとも芭蕉の俳句(これも俳諧と言わなければなりませんが)が文学であるかどうについて消耗な論争するよりも前に、(近代以前の俳人の代表である)芭蕉は「文学」という言葉を使ったことはなく、芭蕉の頭の中に俳句は「文学」であるという思想は存在していなかったと、形式的に整理する方が手っ取り早いからです。
もちろん、文学の内実が実は芭蕉の中に存在していたことはあり得るのですが、それは「芭蕉の文学」と簡単に言ってしまうのではなく、様々なジャンルとの関係で緻密な議論をしなければなりません、もちろんこれは有益ですが、そう簡単に結論は出ないように思われます。また、そうして明らかになる文学は、あなたの今考える文学、私の文学、未来の読者の文学とも少しずれているかもしれません、それはまだ学問的に究明されていない領域であるような気がします。間違いなく、夏目漱石の父親の「文学」とは違います。
*
同じ論法を、「伝統」という概念を使って、芭蕉は伝統という言葉を使ったことはなく、芭蕉の頭の中に俳句は伝統であるという思想は存在していなかったと、言ったのが、堀切―筑紫の論争における私の主張です。文学よりは領域が限定されているだけに、芭蕉の伝統、子規の伝統、虚子の伝統と比較する議論が多少進んでいるように思います。
このような、前処理論争として考えてみると、「芭蕉は「詩」という言葉を使ったことはなく、芭蕉の頭の中に俳句は「詩」であるという思想は存在していなかった」と、直ちには、――つまり形式的にいえないことは明らかです。芭蕉の時代に明らかに「詩」はあったからです。いや、芭蕉は盛んに「詩」を論じているからです。だから「俳句は詩である」という命題は(「俳句は文学である」という命題ほどアナクロニズムではなく)ただちに間違っているわけではないと思います。
(2)ただ賢明な堀下さんには言わずもがなですが、「俳句は詩である」とは、「俳句は現代詩である」と言ってはいないことです。これからいろいろな、議論をすることになるので滑稽な論法も多少使わなければならず、ナンセンスを承知でいえば(実はナンセンスの中にも本質は存在する可能性があるのですが)「俳句は詩である」とは、「俳句は漢詩である」に近似しています。あきれる前に少し聞いてください。
「詩」とは明治初年は明らかに「漢詩」を指していました。我々が思う詩は、「新体詩」と呼ばれていたようですがそれさえ確定的ではありません、まだ呼称は揺れていたようです。明治中期に、漢詩を「漢詩」というようになり、新体詩を「詩」と呼ぶようになりました。帝国大学図書館の関係者たちが、広義の「詩の本」を分類するとき、図書分類を「新体詩」・「詩(漢詩)」→「詩(新体詩)」・「漢詩」に切り替えていったようなのです。文部省の帝国図書館(現国会図書館)より、帝国大学図書館の方が先んじているようですが、これは帝国大学教授たちが編んだ『新体詩抄』の影響があったかもしれません。なお言っておきますが、これらは私が途中までしか研究していないので確定的な答えではありません。ややいい加減な話であるが、まあ少なくともこんな経路で詩の由来を調べる必要があるということだけを納得して頂ければ結構です。
従って芭蕉の頭の中にある詩は、明治初年の「詩(漢詩)」「新体詩」との対立構図の中で理解できるということです。もちろん芭蕉の時代には「新体詩」が存在していないのはいうまでもありませんから、「漢詩」のようなものです。
(3)更に「詩」の場合は複雑な要因が存在しています。歴史の長い詩だけに、「文学」という用語にはない困難が存在しているのです。
①前回、私の初学の教科書が『文心彫龍』だといいましたが、『文心彫龍』やそれと兄弟関係にある『文選』をみれば詩の周辺には、騒、楽府、賦、頌、讃、銘、箴、誄、哀、碑、墓誌、行状、弔問、祭文から経、緯まであることが分かります。「詩」(「詩経」作品と考えてよいでしょう)といったからと言って「騒」「楽府」を除外することは絶対におかしいはずです。ということは、詩の周辺がどこまでであるのか、古代も現在も、わからないのです。とりあえず「詩」といいましたが、その意味することろは『文心彫龍』レベルの「詩の周辺」、分かりやすく言えば「詩のようなもの」ということなのです。
②さらに日本の例で照らしても、明治の新体詩を考えれば、古い詩とどれだけ隔絶があるのかは判然としません。『新体詩抄』(明治15年)は明らかに定型詩です。様々な韻律を用いながらも口語自由詩ではありません。「グレー氏墳上感懐の詩」を見てみます。
山々かすみいりあひの
鐘はなりつつ野の牛は
徐々に歩み帰り行く
耕す人もうちつかれ
やうやく去りて余ほとり
たそがれ時に残りけり
(下略)
これらが俳句と兄弟関係にあるということは、和歌、和讃(今様)等との関係を踏まえて実感としておかしくはないでしょう。定型詩の形式から言えば、少なくともここに掲げた詩は「和讃」と全く変わるところはないからです。
だから日本語の実態に即していえば、私の言った「俳句は詩である」は「俳句は詩のようなものである」なのですが、さらにいえば「俳句は詩(うた)のようなものである」といった方が正確かもしれません。
これは新体詩と歌・歌謡の関係ですが、更に言えば、前述のように明らかに対立関係にあるはずの漢詩と新体詩の関係を見ても、両者の関係が途切れてしまうものでもありません。新体詩の最も初期の傑作落合直文「孝女白菊の歌」(明治21~22年)が『新体詩抄』の編者のひとりである井上哲治郎の漢詩作品(これらの関係は頭がおかしくなりそうです!)「孝女白菊詩」(明治17年)の完全なる翻案であることはよく知られています。ある段階においては、漢詩を読み下し文にさえすれば新体詩が生まれることもあり得たのです。
*
ここでは余計なことですが、ある時期に、新体詩と現代自由詩との一種の革命的な断絶関係が生まれたのです。(新体詩から現代詩への過渡については、「現代詩手帖」2004年8月号<伊良子清白とその時代>の筑紫磐井「伊良子清白と口語」で私の仮説を論じておきました)。こういうものこそ文学研究ではやるべき課題だと思います。
③従って私が、「俳句は詩である」といってもよいのではないかという漠然とした感じは、正確にいえば「俳句は詩のようなもの(「騒」「楽府」「新体詩」を含む)である」ということになるかもしれません。少なくとも、「俳句は現代詩である」は誤りです。舌足らずであったのでそのような誤解を受けたかも知れないので訂正しておく、少なくとも、「現時点において」俳句は現代詩であるとは、私は言っていないのです。
(4)というようなことをいくら延々と言ってもしょうがないので、結論としては「俳句は50%ぐらいは文学であるが、文学となっていない50%ぐらいがある」といっておけば貴兄と議論する場ができるのではないかと思います。花鳥諷詠は文学となっていない50%かもしれません。しかし立派な、「文学ではないかもしれない」(もはや、あまり議論する意味がないのであるが)俳句です。
「俳句は文学である」から派生する問題やその解答は、常識で想定できる範囲にありそうです。従って、俳句研究者には余り知的好奇心を呼び起こしてくれません。少なくとも、私の場合がそうです。しかし、「俳句は文学ではない」から生まれる諸課題・現象は「俳句は文学である」に馴染んだ頭からは想像もできない驚きを沢山生み出してくれます。私が、「俳句は文学ではない」から導き出したディテールを細々と説明すると、多くの人は、あまりの非常識に絶句します、しかしだからといってそれを正面から否定する論理を持てないようです。それは部分的な真理だからです。もちろん人を驚かせることが楽しいというだけではない、一番大事なのは、そこから、どうやら俳句の固有性が見えてくるようなのです。俳句は詩ではない、俳句は短歌ではない、なぜなのか。これが「俳句は文学ではない」発想を私が勧める所以なのです。共感していただければありがたいです。
https://sengohaiku.blogspot.com/2015/08/hh9.html 【【再開】「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その9 / 堀下翔】 より
24.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi
ご無沙汰しております。堀下です。
唐突に福田さんにバトンタッチした形になりましたが、今回から復帰ということでよろしくお願いします。千本ノック式に話題を変えているうちに出たのがバルトの話題でしたが、その後福田さんが私信で前々回の内容をご教示くださり、無責任を知りつつ転載をお願いしたのがご登場の経緯です。
その後私信の転載にとどまらず、磐井さんとの数回のやり取りがあったわけですが、実はそんなことになっているとは知りませんでしたので驚きました。
と、以上は読んでくださっている方向けの挨拶ですが――。
本編の内容を番外編で分析する形でお二人が話し尽くされたところですから加えるべきところは思いつきません。「むしろ創作に当たっての理論は一種の「気合い」であると思っています」と磐井さんがお書きになっていたのはなるほどその通りかもしれないなと思います。
前回の最後を引き受けると『新撰21』周辺の世代論になりますか。『新撰』入集メンバーでは北大路翼、村上鞆彦、矢野玲奈が第1句集、鴇田智哉、佐藤文香が第2句集を出したところでたしかに『新撰』以後の展開をまとめて論ずることが可能な時期かもしれません。「第1世代の神野紗希・佐藤文香世代から第2世代の西村麒麟・堀下翔世代」とのことで、神野紗希と西村麒麟は同い年ですから年代の区切りではなく入集したかどうかですね。入らなかった同世代の落胆は想像に難くありません。いっぽうで僕はといえば、俳句を始めたのは2012年の春ですから、『新撰21』(2009)はおろか『俳コレ』(2011)にも間に合っていません。そう、『超俳コレ』でもあれば絶対に入ってやるぞ、といったところです。
せっかくなので間に合わなかった世代を挙げておきましょう。自分の名前しか出ていないのはちょっとこっぱずかしいですから。『新撰21』の最年少が越智友亮(1991年生)、『俳コレ』の最年少は小野あらた(1993年生)です。小野さんは今年から社会人なので、その下、ちょうどいま大学にいる世代がそれに当たります。活動時期としては入集可能だった世代とは違って、こちらは時期的に入りようがなかった世代ですから、リストアップは簡単です。
安里琉太(1994生)
今泉礼奈(1994生)
あたりはすでに念願の総合誌デビューを果たしています。安里は「銀化」「群青」、今泉は長らく無所属でしたがついに今年度になって「南風」に入りました。
関西の大学生はだいたい「ふらここ」に入っています。学生を中心に若いのが集まっている俳句集団です。かなりの人間がいるようですが、作品集がないのでいったい誰がいるのかよく分かりません。僕はことあるごとにふらここ関係者に「どんな人がどんなものを書いているのか知りたいから作品集を出してくれ」と言っていますが出る気配はありません。もちろんこれはふらここに限らずどのサークルにも言えるのですが、ふらここの場合は作品集を出せば関西の学生をかなり見渡せるので、みんな喜ぶと思います。現状、メンツを把握できるのは1年前に「週刊俳句」がふらここプロデュース号をやったときの執筆者一覧(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/04/366.html)ですが、参加していない人間もいるらしく、不完全です。
間に合わなかった世代の名前を挙げます。結社・同人誌に所属している学生も何人かいます。
二人して打ち上げ花火見てた写真 川嶋ぱんだ(1993年生・「船団」)「俳句新空間」(平成二十六年夏興帖・第五)2014.9.26
山笑ふせーのであける恋みくじ 山下舞子(1994年生)「週刊俳句」2014.4.27
小憩に外す軍手や鳥帰る 森直樹(1994年生・「鷹」)「鷹」2014.5
恋という仮説どんぐり転がりぬ 安岡麻佑(1995年生)「週刊俳句」2014.4.27
手繋げば手の甲寒し藍の花 小鳥遊栄樹(1995年生・「若太陽」「里」「群青」)『海を捨つる』(私家版句集)2015
思うほど眼球軟らかく春雷 沙汰柳蛮辞郎(1995年生)「俳句新空間」(平成二十六年花鳥篇・第七)2014.7.11
ふらここや後ろが冬で前が春 大池莉奈(1995年生)「石田波郷俳句大会第6回作品集」2014
みづうみの底に日当たる涼しさよ 浅津大雅(1996年生)「俳句新空間」(平成二十六年夏興帖・第七)2014.10.10
かたづけて舞台小さし花のなか 辻本鷹之(1996年生・「銀化」)「銀化」2015.5
釣り上げし鱸は銃の重さかな 下楠絵里(1997年生)「WHAT Vol.3」2015
ふらここの面々はこのブログによく出ていますね。ブログで読めてありがたいです。ちなみに大学卒業組では中山奈々、ローストビーフ、山本たくや、木田智美、野住朋可、黒岩徳将、仮屋賢一などがいます。立ち上げたのは黒岩徳将で、いまは仮屋賢一が代表をしています。
関東の方に目を移します。関東はあちこちの大学に学生俳句会があります。だいたいインカレサークルになっていますから、どこへ行っても似たような顔ぶれの観はあります。実動しているか微妙な大学も含んでいますが、東大、早稲田、慶応、立教、ICU、明治、筑波あたりが学生句会を開いています。早稲田の俳句研究会はここ何年か定期的に作品集を出していますが、他のところは特に出していないようです。もちろん、大学俳句会ではないところに通っている人、句会に出ていない人もいます。またパラパラと名前を挙げてみたいと思います。
綿虫や何人もゐて寝しづまる 今泉礼奈(1994年生・「南風」)「俳句」2015.1
最果てに風売る店や昼寝の国 平井湊(1994年生・「群青」)「群青」2014.9
花ぐもり鯉やはらかく衝突す 高瀬早紀(1994年生)「週刊俳句」2014.12.7
冬厨明かりが灯るまでの二秒 副島亜樹(1994年生・「群青」)「群青」2014.3
復活祭家族写真は残すべし 大藤聖菜(1994生)「星果てる光Ⅱ」2014
冬うららどこにでもある諏訪神社 青木ともじ(1994年生・「群青」)「群青」2015.3
紫陽花や指紋を遺す触りかた 島津雅子(1994年生)twitter
泣き声が白梅よりもずっと先 葛城蓮士(1994年生)「俳句ポスト365」2015.1.22
名月や銀の波立つ山の湖 赤石昇太郎(1994年生)「早大俳研第十集」2014
夕映となるぎりぎりをスキー跳ぶ 東影喜子(1995年生・「群青」)「早大俳研第十集」2014
柚子風呂の君には柚子の集まりぬ 玉城涼(1995年生・「群青」)「群青」2015.3
大陸へ向かふ飛行機夏兆す 兼信沙也加(1995年生)「週刊俳句」2014.12.7
紙風船しわを増やさぬやう受くる 林楓(1995年生)「早大俳研第十集」2014
柄のみで決むるパンツや春隣 魔王(1995年生・「いつき組」)ブログ「烏と魔王の夏休み」2015.8.2
エンドロールのはやさで降つてゐる雪よ 大塚凱(1995年生「群青」)「群青」2015.3
誰もゐない楽しき家や冬の鵙 杉山葵(1995年生)「俳句ポスト365」2014.11.6
名を知らぬ名曲にふれ風薫る 谷村康太(1995年生)「早大俳研第十集」2014
五円では叶わぬ願い秋の暮 町田佳奈子(1996年生)「早大俳研第十集」2014
声透明桜吹雪の向かうから 永山智郎(1997年生・「群青」)「俳句」2015.1
風船に父の息ありもてあそび 坂入菜月(1996年生)twitter
量子力学袋の中に玉虫ゐ 青本瑞季(1996年生・「里」「群青」)「里」2015.6
雨の学祭花をつけない木ばかり太い 青本柚紀(1996年生・「里」「群青」)「週刊俳句」2015.7.26
うららかやかがみこむ足の折れているところなど 宮崎玲奈(1996年生・「円錐」「群青」「蝶」)「群青」2015.6
それ以外の地方で書いている人を挙げたいと思います。
芹の根を離れぬみづの昏さかな 安里琉太(1994年生・「銀化」「群青」・沖縄)「銀化」2015.1
天才の生まれる朝へ田水張る 工藤玲音(1994年生・「樹氷」・宮城)「学生俳句チャンピオン決定戦2015」NHK(しこく8)2015.6.5放送
つばくらの影落ちにけり母子手帳 樫本由貴(1994年生・広島)広島大学俳句サークル・H2Oブログ2015.7.6
夏シャツや天守見上げて風の吹く 崇徳(1994年生・広島)広島大学俳句サークルH2Oブログ2015.5.19
滝に触るるやうにフライパン洗ふ 宗政みつき(1994年生・愛媛)「星果てる光Ⅱ」2014
黄昏や菜の花の波堆し 田中枢(1995年生・「itak」・北海道)「現代俳句」2014.10
空へ宇宙へ「ひまわり」は飛ぶ雲の峰 羽倉紫羽(1995年生・愛媛)「俳句王国がゆく」NHKEテレ2015.6.21放送
はつ夏のみづを怖るる子猿かな 小川朱棕(1996年生・愛媛)愛大俳句研究会twitter
少年の声の実れる踊りかな 福岡日向子(1996年生・愛媛)「俳句王国がゆく」NHKEテレ2015.6.21放送
鳥はみづになる春の月のめざめ 脇々(1996年生・愛媛)「WHAT Vol.3」2015
風薫る写生の画用紙のましろ 初号機(1996年生・愛媛)愛大俳句研究会twitter
以上40人強をざーっと並べてみました。だいたいが俳句甲子園出身者です。高校を卒業したあとも句会に出ている人は他にもいますが、引用できる句が見つからない場合は外しています。それに僕の知らないところで書いている人は大勢いるでしょう。漏れた人はごめんなさい。
それにしても大学1~4年でこれだけ書き手がいるのは自分の世代ながら安心します。全員が全員作家意識を持っているわけではないのは百も承知です。僕は「学生俳人」という言い方が好きなのでよく使いますが、自分は俳人ではないからその呼び方はイヤ、という人もいます(たんに俳句を書く人をそう表現しただけですが……)。それでも身近にこんなに同じことをしている人がいるのは心強いです。とくにいまはSNSが発達していて遠方の書き手ともすぐ連絡が取れますから。
そういうわけで、こんな人たちが新撰以後世代の最年少に当る、という話です。僕は同世代の俳句がとても好きですから、思わずこういうリストを作ってしまいました。面白い句がたくさんあるので、機会があればもっと紹介したいくらいです。オッ、スゴイゾッと思わされる同世代の新作が、いつか決定的な俳句史の一句になることすら夢想しないでもないのです(もっともこの場合の「同世代」にはもう少し年齢の幅もあるのですが)。〈ひるがほのほとりによべの渚あり〉を波郷が詠んだのもまた十代であったことを思うとき、それはあながち大げさすぎる思いではないでしょう。
さて、間に合わなかった世代を見てみたところで、今度は入れなかった世代を見ていきたいところです。どういう形にすればいいのか迷っていますが、すこし作家論のように話していければ面白いのかなと考えています。磐井さんは西村麒麟の名前を出していましたね。僕は他に、生駒大祐あたりの名前も気になります。
あ、それから、本稿は「新撰」以後の話でありながら、勝手にそれを「俳コレ」以後と同一視して書いてしまいました。前回、〈残念ながら同じ趣旨の『新撰21 パート3』は出ませんでしたが(世代を限定し、自選する、ギラギラとした選集というコンセプトのシリーズは後続しなかったということです)〉(磐井)という発言が出ていたので、それを無視する形になってしまってすみません。もちろん、自選・他選の違いは作家にとって切実なものでしょうが、今回は「アンソロジーに入れなかった」の視点で考えてみました。他薦なら入るもんか、という作家もいるでしょうが、それでもいい、入りたいという作家(そして入れなかった作家)も多いでしょう。特に最年少層にはどうしても俳句甲子園出身という共通点がありますから。その熱意は上記引用の「ギラギラ」と同質だと思います。この「新撰」「俳コレ」の区別についても、お話ししたいです。
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