https://toyoanneru123.ti-da.net/e3114691.html 【「―俳句空間―豈weekly」が100号(2010年7月18日発行)で最終号を迎えた。】 より
「―俳句空間―豈weekly」創刊のことばで高山れおなさんが「俳句など誰も読んではいない」と反語で述べている(はず?)。
( http://haiku-space-ani.blogspot.com/2008/08/blog-post.html )
私も実感として俳句など誰も深く読んではいないのではないかと疑問を抱くことがしばしばある。
俳句論や俳句鑑賞を主にした「―俳句空間―豈weekly」で私の処女句集『バーコードの森』豊里友行俳句集を高山れおな、関悦史、冨田拓也さんの書き手によって詠み説かれた。
大変感謝している。
だが正直に言うと自分の作品鑑賞以外は、私のように俳句など誰も読んではいない人にとっては難しい言葉で専門的過ぎて読んでもチンプンカンプンであった。
では高山れおな氏の言う「俳句など誰も読んではいない」は100号まで延々と続けられてきた結論はどうであろうか聞きたいところだ。
「―俳句空間―豈weekly」の終刊にあたってなすべきこと=通時化・・・豈発行人 筑紫磐井をよんでも何かはっきりとした言葉を聞き取ることができない。
( http://haiku-space-ani.blogspot.com/2010/07/blog-post_2177.html )
私の拙い感想というか自分自身の俳句など誰も読んでないことについて考えてみる。
正直「―俳句空間―豈weekly」に出会うまでは豊里友行という私の名前ばかりを追うように俳句を読んで来た。
つまり私は俳句実作に重きを置き、私自身の俳句がどのようにこの世界で化学反応を起こす線香花火のようになるかを眺めていた。
高山れおな さんの投げかけた問いは確かにリアルタイムではないが私の俳句にも突き刺さる。
この俳句空間においては確かに鑑賞者の視点が育まれている。
その専門的な俳句論に辟易してまうのは私の期待していた俳句鑑賞ではないサイトだったからだ。
俳句はやはり作句と俳句鑑賞で成り立つ世界だと私は考えている。
正直きわめてごく僅かの俳句評論者のための俳句世界であってはならないと私は考えている。
多くの俳句人口を担うという俳句界は、作句に夢中になる俳句文化と一部の俳人たちの鑑賞によるものか。
餌をやると一斉に集まってくる鯉の口のような俳句界。
現代俳句協会のインターネット俳句会にも参加していたが、ある一部の俳句会が上位を占める現状を見過ごせずに私は噛み付いたら逆に名誉毀損で訴えると噛み付かれる始末・・・・。
話が脱線しそうなので元に戻ると現代俳句協会のインターネット俳句会の掲示板で一生懸命に俳句鑑賞をしようとする人も多くいる。
つまり俳句を読まない人たちではなかった。
それが面白く深い俳句鑑賞かは別においても私のような自分の俳句しか読まなかった俳人にとっては目から鱗であった。
自他ともに俳句鑑賞をしていかないと本当の意味でも俳句を楽しみ方としては損をしてしまう。
「ににん」の岩淵喜代子先生の誘いで原石鼎の俳句鑑賞を一年間勉強させて頂く。
( http://toyoanneru123.ti-da.net/e3092592.html )
そのように俳句の視野を広げてくれる事件が今年は多くある。
その事件のひとつとして確かに「―俳句空間―豈weekly」終刊があったと想う。
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