鹿島立ち

https://toshikinkou-powerspot.com/kashimashrine/ 【「鹿島立ち」…事を始めるならここで祈願、鹿島神宮】 より

『鹿島立ち』という言葉をご存知でしょうか。何かを始めるとき、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮に行って祈願するのです。関東最強レベルのパワースポットで勝負運を高めましょう。

その『鹿島立ち』の言葉の源なった理由は、鹿島神宮の位置です。鹿島神宮は、吉野山・伊勢神宮・富士山・明治神宮・皇居と一直線に続くレイラインの東端に位置するのです。鹿島神宮の一の鳥居は太平洋の明石浜にあり、神々の通り道の東門にあたる位置なのです。

レイラインのスタート地点『すべての始まりの地』が『鹿島立ち』という言葉に集約されたのですね。さらに境内はレイラインの基づき、直線的に社殿、参道、鳥居、要石に配置されています。

ここは全国に点在する鹿島神社の総本山で、関東最古の神社です。平安時代から神宮と称されるのは、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮しかなかったのです。創建は初代神武天皇が即位と同じ紀元前660年。日本の皇室の紀元と同じなのです。まるで日本の歴史そのものです。

ご祭神は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)です。日本神話最強の武神であり勝利の神です。さらに、海や雷を司る神であり、魔を退ける神でもあるのです。まさに最強の神様といえます。

鹿島神宮のご利益は、人生の開運の力、人の上に立つリーダー、起業家、また人生における転換期に参拝することで、勝負運、決断力、行動力、統率力を高めることができます。

当然のように本殿周辺は強いパワーがみなぎっています。実はその奥に進む奥宮の方が強いパワースポットになっています。なお、本殿参拝の前に風習として摂社の高房神社を参拝する習わしとなっています。ご注意ください。

参道は大鳥居から一直線に作られています。もとは奥宮が本殿だったので、拝殿を過ぎてからのさらに奥参道が続きますが、やはり一直線です。これもレイラインに基づいているのですね。この奥参道の突き当りが奥宮です。まるで影のボスのような存在です。また、この奥参道の途中に鹿園があるのに驚きます。

奥宮には要石が守られています。この石は地震を起こすナマズを押さえつけるための地震封じの霊石で、鹿島神宮の中でも最も強いパワースポットになっています。なお、地上に出ている部分はほんのわずかですが、大部分が地中に埋まっているそうです。

東日本大震災の際にも、巨大なエネルギーが放出され関東地方の被害を抑えたといわれています。このことから、要石の効力は、自分以外のものを守り続けることで、リーダーとして大事なものを守る力や協調性をもたらすパワースポットなのです。

奥宮から下りたところにある、清く澄んだ霊水が溢れる御手洗池も強いエネルギーが発生しているポイントです。現在でも大勢の人々が大寒の禊行の際に、この池に入り祝詞を唱えます。

ここはエネルギーが強すぎるため、これから起業しようとする方などは、強い決意と計画を持ってご参拝ください。計画が漠然としていて迷っている方は、別の神社で祈願した方がおススメです。


https://traditionalarts.jp/?p=504 【鹿島立ち(前編)】 より

思い立ったのは節分を過ぎて、春めいた陽光が都心の街をやわらかく包んでいた、そんな日であった。晩からは再び寒波が到来すると予報が出ていた。

■日出ずる処、香嶋

目指す鹿島神宮の鎮座する地は、〝香嶋〟(常陸国風土記)と呼ばれ、海山の幸に恵まれた豊穣の地であったと言われている。

筑波山を望み、西に霞ケ浦、東に鹿島灘…すなわち交通の要衝であり、縄文の頃より政治の中心地であった。

鹿島神宮の祭神はタケミカヅチ、古事記に拠れば高天原から大国主神の統べる出雲に派遣され、タケミナカタと力くらべの後に諏訪まで追い詰め、ついには国譲りを承諾させる。日本書紀では隣の香取市にある香取神宮の祭神である経津主神と二人で国譲りの交渉にあたった、とある。

出雲を高天原が統べたことにより、今に至る日本国家が成立し、神武天皇は即位なされるとタケミカヅチを武甕槌大神として鹿島の地に鎮座した、これが鹿島神宮の創建が日本建国と同年である、紀元前660年とされる由縁である。

鹿島は日本の東の果て、つまり太陽が昇り、一日の始まる処として大切にされていた、そこから「鹿島立ち」という言葉が生まれたと、本稿の参考にさせていただいた神宮の冊子において指摘なされている。

さて、箏のルーツは日本人のルーツ、と筆者は確信している。弦楽器は中東アジア地域で発生したと言われているが、弦楽器を携えたデイアスポラ(離散民族)が日出ずる処の国へ渡来しその国に融合し、そして日本人の祖先となる、そうした歴史的事実の発生したこの日本とは、いかなる地であったのか。

まずは日本人たる民族、日本という国のルーツを明らかにせねばなるまい。故のこの度の「鹿島立ち」である。

鹿島行きを決めたとたんに、筆者は何ものかの、強い力で引きつけられる心地を感じるままに車を飛ばしたのである。

■一之鳥居と鎌足神社

(西の一之鳥居)

都心を出たのは、所用を終えた昼過ぎであった。

少しずつ日が傾いていく中の行程であったが、天候に恵まれていて、柏あたりから利根川の北岸に沿って進む道は特に素晴らしかった。

降り注ぐ陽光を浴びながら、車窓から入る風は適度に冷えていて、高まっていた高揚感を過度になさせしめない程度に冷却する様が心地良い。

大利根の飛行場で離発着をするモーターグライダーを眺めながら進み、やがて利根川から離れると潮来を通過して北浦に架かる神宮橋に差し掛かった。

と、突然視野に朱塗りの大鳥居が右手前方の水面に飛び込んできたのである。午後の日射しに照らされ鮮やかに浮かび上がって見える。

知ったかぶりで前置きを述べてきたものの実は、あまりにも下調べや予備知識の不足するままやってきたので、鳥居の出現には心底驚き、橋を渡りきってからすぐの信号で街道を右手へ外れて路地へ入り、住宅街を湖岸と思われる方向へ右折した。

と、この道で正解、とばかりにあの大鳥居が現れたのだった。

案内看板に「西の一之鳥居」とある。

太陽を背に受けた鳥居のシルエットを岸壁で見上げながら、ああ、本当に正しい入り口にたどり着いたんだな、そう心の中で反芻していた。

ならば、と振り返って、先の方に見える道は神宮に続くかつての参道に思えた。

古ぼけた家々の立ち並ぶ街並みの中を、参道と思しき道は広くもなく狭くもなく神宮の方向へ延びている。

神宮橋からの街道を横切り、また四車線道路との交差点を渡ったが信号機もなく、参道としては既に機能を失っていることは明らかだった。

もう少しで神宮である。早く着きたい、と思った。

急ぎ旧街道を感じさせる鄙びた道を進み、なだらかな坂道となるその手前で、ふっと、小さな鳥居に惹かれた。

おや、と思って車を止めて降りる。

奥に小さなお社。

大鳥居にあったのと同じ意匠の案内看板があり、鎌足神社、とあった。

鎌足…?

鹿島と鎌足が、筆者の頭の中では結びつかなかった。

看板を読み込むと、鎌足神社の境内は古来より藤原鎌足の誕生地と伝えられています、とあった。

藤原鎌足すなわち中臣鎌足は、大化の改新で我々覚えているのだけれども、前出の神宮の冊子に拠れば鹿島の大神に仕える祭官の家の出とも言われている、とあった。

鎌足を祖とする藤原一門は氏神としてこの鹿島神宮および香取神宮を大切にしたのだそうである。

(下生鎌足神社)

まこと不勉強のなせる技であるけれども、筆者としては思いがけず神宮へ参ずる前、鎌足にお会いすることが出来た、というわけだ。

神宮への道は、確かなものだった。

なんだか長旅をしてきたような感慨深さに見舞われたが、もう神宮は近かった。

狭小な峠道を登り、天辺の学校を回り込み降っていくと、ぱっと景色が明るくひらけて、真新しくなった街並みの中を進んでいくと、あっけなく「ニ之鳥居」が現れた。

白木の大鳥居が午後の光を浴びて輝いていた。


https://traditionalarts.jp/?p=521 【鹿島立ち(中編)】 より

東日本大震災では鹿島神宮も大きな揺れに見舞われた。

平成23年3月23日、午後2時46分鹿嶋地方震度6弱、本殿が鳴動し、本殿の千木(神殿の大棟の両端に載せるX上の材)落御、石の大鳥居(二之鳥居)にひびが入り、石灯篭62基が崩壊する。30分後の震度6弱の余震において大鳥居は倒壊した。

翌月から建物や石灯篭の修復がなされる。千木の復旧工事をクレーン車を使用して実施、工事終了と同時に「一天俄にかき曇り、雷鳴が轟渡」った、と記録されている。

倒壊した石の大鳥居は鹿島神宮本来の木によって再建されることとなる。境内の杉の巨木から、二本の柱は樹齢5百年、笠木は樹齢6百年、貫は樹齢3百年の4本を使用して、平成26年の初夏には再建された。

ちなみに、西の一之鳥居はこの二之鳥居再建の前年に建て替えられたものである。陸上にあったものを、昔のように水中に建てることとして、鹿島の製鉄所で生産された対候性鋼板を使用した高さ28メートルの大鳥居が竣工する運びとなった。

その一之鳥居に迎えられ氏子の住まう街を通り抜けて参じた二之鳥居は、まさに目の前だった。

鹿島神宮の要石はその大部分が地中に埋まっているとされ、地震を鎮めているとされる。被災しながらも神宮の周囲の街は守られ、神域の損害も僅かにとどまり、その一身で災いを引き受けた大鳥居は、神木によって蘇った。

(要石)

白木の大鳥居をくぐると、神宮の森に包み込まれるが寒くなく、心地よい冷たさの清逸な空気に満ちていた。鳥居を振り返ると、午後の日差しがまるで光輪のように見受けられた。

鹿島神宮の大鳥居は西を向いている。つまり、参拝者は日の上る方向へ向かうように神域へ足を踏み入れることになるのである。東へ向かって進んでいくと、右手に拝殿があらわれてくる。東へ向かっていた参拝者は東から西へと日が動くさまを捉える南へ向きを変えて大神と相対するわけだ。

祭神はタケミカズチ…であるが、お日様そのものを拝する神殿のあり様は大変興味深い。が、実は筆者は拝殿を通り過ぎ、さらに奥まった参道を奥宮へと歩いていた。鳥居をまっすぐ進むと拝殿、という多くの神社にみられる配置による思い込みにとらわれていたのだった。

奥宮とは、拝殿が現在の位置に移動する前の場所に設置されている。その幽玄なる佇まいもさることながら、周りのあまりにも深い静寂は、拝殿を介さずとも神々のおられる領域に踏み込んでいることを存分に感じさせた。

(奥宮)

奥宮の脇をすり抜けていくと、要石がある。わずかな部分だけが地表に現れているが、その霊力が神宮全体、もしかすると日本という国全体を安定させるための重しとして機能しているようにも思われた。

そして拝殿方向へもどり始めたのであるが、その帰路はさらに精妙な感覚が研ぎ澄まされてきて、木々を通り抜けて注ぎ込んでくる陽光が下草や地面を照らす中に、神々の存在を感じてしかたがない、そんな心地である。

やがて向こう側からの陽光に浮かび上がる、楼門のシルエットが見えると拝殿前に到着した。そしてようやく、神宮の霊気が全身に行き渡った状態で大神を参拝することができたのである。

筆者が若い頃に触れた、旧約聖書に著された神々には大変に活動的な印象を受けたものだったが、日の通り道である黄道そのものを拝するダイナミズムを湛えながらも我々の神々は、実に静寂のうちにあった。


https://traditionalarts.jp/?p=525 【鹿島立ち(後編)】 より

日本列島における人類の存在は百万年前にも遡る可能性があると、国立民族学博物館教授の小山修三氏は指摘している。一方、文明の痕跡が確実に証明なされているのは三万年前である。

群馬県の岩宿にて、現時点における最古の磨製石器が発見された。少なくともその年代から人々が日本列島において道具を製造する営みを行っていたわけである。

石器(打製石器)そのものは11万年前には使用されていた。三万年前の磨製石器の出現の後、16500年前には最古の土器が、13000年前に土偶、そして12500年前まで時代を下ると漆が栽培され用いられていた。

土器が作られるようになった縄文時代については、青森県の三内丸山遺跡がよく物語っているが、比較的大規模の集団で集住し、狩猟採集の他、栗などを栽培し、海を隔てた遠隔地とも交易を行っていたことが判明している。縄文人の痕跡はユーラシア大陸ばかりでなく、南北アメリカ大陸にも土器などの遺跡として発見されている。

小山修三氏によると、縄文時代の日本列島の人口は東日本に集中していて、西日本の人口は少なく推移していたのだという。気候の変動により人口分布の変移や数の増減は見られるが、縄文の文化は主として東日本で発展し、それが日本国建国以前の古代国家を成立させ、日本文明の礎となっていく。

弥生を象徴する稲作は、縄文中期には既に日本列島では行われていたのだという。縄文人が稲作の技法を大陸から持ち帰った可能性についても、京都府立大学和食文化研究センター特任教授の佐藤洋一郎氏は指摘している。氏はDNA鑑定によるデータを基に、朝鮮半島における稲が日本列島で栽培された稲とは種類が異なることから、稲作文化は今の中国大陸から直接もたらされたのではないかと推察している。

ところで、国際日本文化研究センター名誉教授・埴原和郎氏は、遺跡から計算される縄文時代末期から奈良時代にかけての人口増加率があまりにも高いことに着目し、人口増加が外在的要因、つまり日本列島の外部からの移住によって起こった、としている。

このような状況において、縄文文化を背景としていた東日本を中心とした日本と縄文中期に渡来した稲作文化及び移住してきた渡来人を祖とした西の日本とが、併存しながらお互いに浸透し、ついには東西が統合された国家が生まれるのである。

平安時代中期に施行された延喜式の大祓詞には「如此依さし奉し四方の国中と 大倭日高見之国を安国と定奉て」とある。大祓詞は大祓式に用いられる祝詞の一種であるが、中臣氏が専らその奏上を担当したという。

さて、この「大倭日高見国」とは「大倭(ヤマト)」と「日高見国」とを合わせた国名に思われる。日高とは、日が高く上る所を示している。鹿島神宮の座す常陸国は、日が立つ=日が上ることからもたらされた名称であるとも言われていて、かつての縄文文化を背景とした古代国家である日高見国の中心がまさに鹿嶋にあったのではないかと指摘される所以となっている。

日本書紀において、鹿島神宮の大神であるタケミカズチ、そして香取神宮の祭神であるフツヌシが出雲のオオクニヌシと国譲りの交渉に臨む。これの示すところは、日高見国と大陸から稲作をもたらして国造りの楚としてきた弥生の日本人勢のヤマトとを合邦させ今の日本国である「大倭日高見国」とする営みではなかったのか。

平安時代中期に施行された「延喜式神名帳」における神宮とは三社のみであり、鹿島神宮と香取神宮、そして伊勢神宮である。鹿島神宮の創建が紀元前660年、香取神宮は紀元前643年、そして伊勢神宮は紀元前4年とされている。

埴原和郎氏は、もともと少なかった西日本の人口は、稲作の浸透により東日本と人口比率が反転することを指摘している。現在に至る勅祭社(祭礼において天皇の勅使が遣わされる)であり、国体と密接に関係する鹿島・香取・伊勢の三大神宮。その創建における時の隔たり、すなわち日本建国時に創建された鹿島・香取と伊勢との間の六百年とは、東日本から西へと執政の中心地が変遷した事実を物語っているように思われるのである。

筆者は、日の大きく傾いた鹿島神宮を辞して、香取神宮へと急いだ。

日本の国、日本人のルーツを辿る時、タケミカズチとフツヌシの両大神に出会うことを外してはならない。

(香取神宮大鳥居)

果たして、香取神宮に到達した時には午後4時半を回っていた。気温は下がってきていたが、まだコートを着込むほどではなかった。

鹿島神宮と同様に日の上る方向を目指して鳥居をくぐり、両脇に石灯籠の立ち並ぶ螺旋状の参道を登り切ると石段の上に楼門があった。楼門を入ると人気のない境内に黒色の引き締まった印象の拝殿が待っていた。

参拝の後、片付けの始まった社務所を横目に楼門まで戻り、今一度拝殿を見上げると、お社の奥の方からの、ひんやりした心地よい風が頬を撫で始めた。

〝また、いつでも来なさい〟

筆者は、武の神様と聞いていたが、むしろ優しく包み込むような大気に満ちた香取の神域に魅せられていた。

箏のルーツを知るための旅は、それは日の出ずる処、物事の始まり、鹿島立ち、を知る旅から始まったのである。