https://sites.google.com/site/tiancaopaitanfenshi/home/xie-zhen-pai-ju-ji-xing-di2bu/ba-jiaono-lue-yi-dian-san-san-bu-yi-lu-dao 【芭蕉の旅 一点散散歩(一)鹿島】より
東京深川・臨川寺―禅の修業
東京深川の清澄庭園、中村学園のすぐ近くに臨川寺という寺がある。下町の小さな寺だが、ここは芭蕉が仏頂禅師から漢籍と禅を学び修行をした寺である。隅田川岸辺の芭蕉庵からは徒歩十五分ほどの距離だ。その時の問答に、仏頂「梅子熟せりや」宗房「桃の青きが如し」があり、そのときから松尾桃青と号したと言う(江東区『史跡をたずねて』)。芭蕉と仏頂禅師の交流を温かく描いた中山義秀の小説『芭蕉庵桃青』もある。
寺の境内には戦災後再建された「墨直しの碑」「芭蕉由緒塚の碑」「玄武仏碑(玄武は美濃派俳人)」「梅花仏の碑(梅花は支考)」などがある。「由緒の碑」は、芭蕉が亡くなったとき、仏頂禅師が芭蕉の位牌をつくり臨川寺に安置したことなどの由縁が記されているが、その中に「そのころばせを翁ここの深川に世を遁れて、朝暮に往来ありし座禅の道場也とぞ」とある(同上書)。
芭蕉には、五点ほどの紀行文があるが、これを全部回るには、もう体力も財力も尽き果てたので、芭蕉の長い旅路の一点だけを切り取り散歩してみようと考えた。
先ず手始めに、茨城県鹿嶋市の根本寺、鹿島神宮を参拝する。鹿嶋市まで、東京駅八重洲口から高速バスで約二時間。運転手さんの「潮来です」というアナウンスで目がさめると、窓の外は一面の植田。天草金剛田は熊本地震によく耐えたとのこと、よかった。しばらくしてバスは鹿島神宮近くで筆者らを降ろし、終点JR鹿島神宮駅へと去った。
芭蕉の鹿島詣(かしま紀行)
「野ざらし紀行」を終えて二年後、貞亨四年(一六八七)、四十四歳の芭蕉は曾良と禅僧・宗波を伴い、鹿島(現茨城県鹿嶋市)に月見の旅に発つ。八月十四日芭蕉庵から上船し小名木川を下り、行徳(現千葉県市川市)に着く。「ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎ(細い脛)のちからをためさんと、かちよりぞいく(徒歩で行く)」と芭蕉は元気満々だ。八幡、鎌ヶ谷を過ぎ布佐(我孫子)まで八里。筑波山を遠くに望み、道端の萩、桔梗、女郎花、刈萱、尾花、小牡鹿、野の駒に「あわれ」を感じる。布佐からは利根川を船で、佐原、潮来を経て大船津(現鹿嶋市)で下船する。鹿島神宮を参拝した芭蕉らは近くの根本寺に向かう。「根本寺の前の和尚、今は世を遁れてこの所におわしけるといふを聞きて、尋ね入りて臥しぬ」(『かしま紀行』)。芭蕉より二つ年上の仏頂和尚とは、五年ぶりの再会だった。
仏頂和尚は根本寺の二十一世住職だが、寺領問題の訴訟のため、一時、臨川庵(寺)に滞在していた。勝訴した和尚は、弟子に住職をゆずり、各地を行脚したり那須黒羽雲巌寺で山居生活を送ったりしたが、その頃は根本寺に戻っていたのである。
再会は果たしたものの、「昼より雨しきりに振りて月見るべくもあらず」という有様だった。その夜「暁の空いささか晴れけるを、和尚越し驚かし侍れば、人々起出でぬ。月の光・雨の音、ただあはれなるけしきのみ胸にみちて、言ふべき言の葉もなし(句が詠めない)。はるばると月見に来る甲斐なきこそ、本意なきわざなれ(不本意なことである)」。
月はやし梢は雨を持ちながら
芭蕉は十月末に帰庵するが、休む暇なく十月末、「笈の小文」の旅に出立するのであった。
鹿島神宮の大鳥居を出てまっすぐ、信号二つほど行くと、森と閑静な住宅を縫う「鹿嶋ゆうウォークコース」がある。「ゆう」は「悠・優・遊そしてyou」だそうだがちょっと無理な感じはする。十五分ほど進むと根本寺。ここは聖徳太子が、護国興隆の発願を以って本尊に東方薬師如来を安置して建立された勅願寺である。開祖は高麗の恵潅大僧正で、日本で最も古い寺の一つと言われる。鎌倉、室町、江戸幕府からも厚く信仰され、江戸時代までは荘厳を極めた寺だったそうだが、幕末、筑波山で挙兵した天狗党の乱によって焼失し、昔日の面影をすべて失い、小高い丘を背景に建つこじんまりした臨済宗の禅寺となっている。
山門を入ると小道が続き、丘の麓に本堂が見えてくる。本堂左には大きな芭蕉の句碑が聳える。寺にねてまこと顔なる月見かな 本堂の右の句碑は、雨天の月見の席上苦吟した前述の句碑である。
鎌足神社
根本寺と道を挟んで、藤原鎌足生誕の地と伝えられる鎌足神社がある。鎌足の生誕地は奈良県橿原市などにもある。中臣(後の藤原)は鹿島神宮の祭祀者出身で、鎌足は父親が京都から鹿島神宮に赴任したときに生まれたといわれる。境内に「大織冠藤原公古宅址碑」があるが、後の藤原氏の権勢からは想像もできないほど簡素な神社だった。
鹿島神宮
鹿島神宮は、大和朝廷の東国平定に大きな役割を果たし、古くから軍神として崇敬されてきた。大国主の国譲り神話で活躍するタケミカヅチ大神を祭神とすることでも知られる東国随一の古社で、藤原氏の氏神でもある。周囲は天然記念物・神宮の森に囲まれ、日本三大楼門の一つや、本殿などいくつかの重要文化財がある。巨木が鬱蒼と茂る境内を進むと、奥宮、御手洗池、要石などが点在し、子供たちがザリガニ釣りに夢中になっている池には、オタマジャクシの大群が押し寄せていた。
芭蕉は当地に一週間ほど滞在したようだが、紀行文に神宮の記述はない。しかし、奥宮の近くには参拝したときに詠んだ 此松の実生せし代や神の秋 の句碑が建ち、要石付近には一六八〇年作、蕉風開眼の句として有名な 枯枝に鴉のとまりけり穐(秋)の暮れ の句碑がある。この句は当初「とまりたるや」と詠んでいるが後に修正されたと言う(小西甚一『俳句の世界』)。
仏頂禅師と蕉風開眼
芭蕉は深川に移住後、仏頂和尚から禅を学でいるが、田中善信は「この期間に人生観が根底から変わるような大きな影響を、芭蕉は仏頂からあたえられた」「芭蕉が西行や杜甫の生き方に共鳴していたことは、彼の作品から容易にうかがうことができるが、定住の場をもたない一所不在の生活を、芭蕉が憧憬するようになった直接のきっかけは、禅僧である仏頂の生き方に接したことにあったのではなかろうか」「禅の世界にふれて禅的な物の見方を知ったことで芭蕉の俳諧は大きく変化した。この変化がはっきりとした形であらわれるのは貞享初年の『野ざらし紀行』の旅で(ある)」と記している(『芭蕉二つの顔』)。
芭蕉の仏頂禅師に対する敬慕の情は大変深いものだった。おくのほそ道の途中、仏頂和尚の山居の跡がある下野(現栃木県)の雲巌寺を訪ねている。和尚は隠居した後行脚の旅を続け、黒羽の「竪横の五尺にたらぬ草の庵」に籠っていた時期がある。「当国雲巌寺のおくに仏頂和尚山居の跡あり」「さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵、岩窟にむすびかけたり(岩窟を背に造ってある)」「木啄も庵はやぶらず夏木立 とりあへぬ一句を柱に残侍りし」(『おくのほそ道』)。
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余談だが、鹿嶋市は鹿島町を引き継ぎ「鹿島市」を希望したが、すでに佐賀県に鹿島市があったのでやむなく「鹿嶋市」にしたそうだ。
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