大神神社

https://kyonsight.com/jt/tochigisi/oomiwa.html【大神神社】[おおみわ神社]栃木市惣社町476 より

祭神:倭大物主櫛𤭖玉命[くしみかたま]

配神:瓊瓊杵命・木花開耶姫命・大山咋命・彦火々出見

新宮(天照皇大神,天之忍穂耳命)・筑波神社(伊弉諾命・伊弉冊命)・熊野神社(伊弉諾命・伊弉冊命)・鹿島神社(武甕槌命)・香取神社(経津主命)・浅間神社(木花咲耶姫命)・祖霊社

大神神社にはふたつのミステリーが進行中で,いずれも未解決である。「延喜式神名帳記載の大神社はここか」と「歌枕の室の八島のありか」のふたつである。 『延喜式』は醍醐天皇延喜五年905藤原時平が編纂を開始し子の忠平が延長五年927上撰したので,記録された社はそれ以前創建の古社である。下野で記録された十一社のひとつが「大神社」である。1100年もたつと分からなくなっても不思議ではない。延喜式神名帳吉田家本のみ「大神神社」で他は「大神社」なので[おほノかみのやしろ]と呼んだ。現在社比定で気をつけなければいけないのは大神神社は明治維新で改称した社号であることである。比定社は他に太平山神社が考えられた。

『下野国誌』は「府中惣社ハなべて神名帳にハ載らず」なので大神社は総社の相殿に祀られたと考えた。いい線だ。その逆の大神社を惣社にしたとする説も成り立つ。国家神道の政策で,明治維新に際し總社六所大明神のときの主祭神木花開耶姫命を相殿の祭神に取り替えて惣社六所大明神から大神神社に改称し,大神社=大神神社説を推し進めて確定する。現在の主祭神は大物主命である。解決はみないので,ここでは1800年以降の資料を提示するにとどめる。ついひとこと加えたくなるが。

『鹿沼聞書・下野神名帳』1800頃

■神名帳記載の大神社を210年以上前に編纂された『鹿沼聞書』は総社に鎮座する室八島大明神に比定している。惣社は「総」字で,シマは「山」なし「島」で植字されている。神主は野中兵部で50年後の總社六所大明神の神主野中出雲の祖と思われる。

『鹿沼聞書・下野神名帳』(1800年頃成立)の「神名帳十一社」中に都賀郡三座 並小 大神社(今オホムガト云非也,ワ也) 大前神社 村檜神社と記録され,つづいて「式内十一社」中に「大神社 室八島大明神 総社 野中兵部」

『下野国誌』1850

■『鹿沼聞書』から50年後の『下野国誌』では大神社を惣社明神の相殿と記録。惣社明神とは總社六所大明神をさす。相殿は五柱。「さて當所ハ室の八嶋にて」の「当所」は神社境内ともとれるが,鎮座地名とも読める。さらに太平山の太平権現も大神社であるとほぼ断定している。さて?

『下野国誌』(嘉永元年1848脱稿 嘉永三年1850刊行)巻三に

「都賀郡三座 並小 大神社(ルビ:オホミワノヤシロ) 鎮座詳ならず,今都賀郡國府の惣社明神の,相殿に祀りてあり,一説に同郡太平山に鎮まりいますぞ,大神社なると云,其ハ下の太平権現乃条にいふべし」

31頁に「總社六所大明神 都賀郡國府にあり,社ある所を惣社村と云なり,一書に,惣社ハ景行天皇四十二年國々の府中に,六所明神を祀るよしミえたり、上野國ノ惣社ハ磐列根列ノ神ノ男、磐筒男ノ命その外、総て六柱を祀るといい、武蔵國ノ惣社は、大國魂ノ命にて、是も相殿に五柱を祀るよし、縁起にみえたり、常陸ノ國ノ惣社も是に等し、されど府中惣社ハなべて神名帳にハ載らず、然るを祝部神主等、あかぬことに思えるにや、神名帳の中なる、なにの神社、くれの神社などゝあらぬ名を引つけて、おのがまにゝ唱うるは、あたらぬ事なり、よく弁うべし

さて當社祭神ハ木花開耶媛命にて,相殿ハ天照大御神,天忍穂耳尊,日子番能爾々藝尊,日子穂々手見尊,大山祇命なりといへり…神主野中出雲…さて當所ハ室の八嶋にて,上の名所部に委しく記したり,されバ室明神とも唱ふるなり…廣前にて制魚(<鯯コノシロ)を焼てさゝぐ」

『下野掌覧』1860

■10年後,ほぼ同時期の『下野掌覧』は要注意。なんの注もなく延喜式十一座に六所惣社大明神をトップに記録。つづいて大神社を「惣社村ニアリ」と記録。他に十社挙げているので計十二社記録している(髙椅神社を除く)。延喜式に六所惣社大明神の名は載っていないことは知っていたはずなので,江戸末期にどちらかが式内社と考えて併記したのか,イコールとなっていたのか,相殿だったのか不明。『鹿沼聞書』とおなじく「大神社」の神主は野中氏。

『下野掌覧 坤』萬延元年1860庚申八月発行

延喜式ニ載タル當國十一座 大一座 小十座

六所惣社大明神 祭神天照皇大神ナリ 室八嶋と云

大神社 惣社村ニアリ祭神大己貴命ナリ大宮司國保氏神主野中氏祝部大橋氏ナリ

『下野神社沿革誌』1903

■『下野国誌』から50年後の『下野神社沿革誌』では「大神社」を大字惣社の地に鎮座する「六所大明神」から改称した「大神神社」に比定している。社司は上記とおなじく国保氏。境内地は「室の八島の地」だが,歌枕の「室八島」は神社の南西600mほどの野中にあったとしている。

『下野神社沿革誌』(明治三十六年1903刊)四巻十九丁

下都賀郡國府村大字總社室八島鎭座 郷社大神神社

祭神大物主櫛𤭖玉命 相殿祭神天津彦火々瓊々杵命 大山祇命 彦火火出見命 木花咲耶姫命 新宮天照皇大御神 相殿祭神正哉吾勝速日天忍穂耳命 祭日陰暦六月廿日九月八日 建物本社間口三間奥行二間栃葺 拜殿間口六間奥行三間栃葺 神樂殿間口二間奥行三間一棟 唐銅鳥居一基 石華表二基 木鳥居一基 末社九社 祭器庫間口一間半奥行六間一棟 石燈籠一対 寳物古鏡一面 劒一振 短冊三枝烏丸大納言實正郷右大臣藤原正房公の奉納にあり 氏子三百八十戸 惣代十員 社司國保能道仝村大字仝卅二番地住

本社創建遼遠にして詳ならす 延喜式内にして明治五年1872郷社に列す 社傳に曰く磯城瑞籬宮の御宇天皇御世 豊城入彦命を日本大三輪大物主神及ひ相殿の神四座新宮の神一座新宮相殿の神一座を室の八島の地に斎齋奉り賜ふ 延喜神名式に下野國都賀郡大神社とあるは則此御社の御事なり。(以下神事詳細がつづく)往古は宮殿及樓門に至まで宏壯輪奐なりしも天正二年1574…北条の軍土襲へ來りて火を放ちたり 其時本社を始め樓門寳庫も火災に罹りて悉皆烏有に歸したり亦樓門の礎石のみあり 寛永十三年1636丙子年徳川將軍家光日光御社參の途次當社に參拝ありて社頭の廃頽を慨かせられ…若干の金員を寄附せられしにより本社天和二年1682改造せられ今尙存せり 拜殿は仝三年四月の再建なり…舊境内五町四畝歩なりしも…現今社域七千六百八十坪平地にして馬塲千百五十二尺十二階の石磴を躋れは古杉松檜老樹蓊欝亭々として高く聳ひ喬木陰森として天日を漏さす晝尙暗く優雅にして愛すへし 亦四面は洋々たる田甫にして快濶の氣を吸ふを得へし

叉室の八島は古より名高き勝地にして和歌にも多く煙を詠合せぬ 此地は本社より坤方五丁弱 ある野中にあり(今人家畑山林点々たり)て此地より今尙清水数多湧出して其水蒸騰して煙の如く見ゆるか故なりと 上(ママ)野國誌に曰ふ室八島は総社村に在り 其隣郷に國分村ありて古へは総社村も國分の分郷なり 其地に淸水と云ふ處あり 又煙村と云も並てあり(中略)さて袖中抄に下野國野中に島あり 俗に室のやさま(ママ)とそ云ふ 室は土地の名か 其野中に清水の出る氣の立てるか煙に似たるなり云々

古歌あまたあり爰には二三を録す 詞花集に實方朝臣の歌に「いかてかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならては」 新古今集清輔朝臣の歌に「朝霞ふかく見ゆるや煙たつ室の八島の渡りなるらん」 境内に芭蕉翁の碑あり 句に「いと遊に結ひ都きたるけふりかな」

「袖中抄」は文治年間1185-90頃に成立した顕昭による歌の手本書。

昭和32年1957の記録

■つぎはさらに57年後の昭和の記録。大正七年1918まで大神神社がなかったのではなく記録されなかったといっている。実際はそれ以前にきちんと記録されているが。

昭和32年大前神社社務所発行佐藤行哉編『延喜式内下野十二社並指定社巡拝栞』

「境内 従来一万五千坪と称せられたが,終戦後に実測一万四千八十九坪四号六勺が無償譲与を受け,境内に記念碑が建つている。尚お境内には杉檜が前面に繁茂し,社殿の西側に立てる大杉は周囲十八尺余もあり,境内風致まことに良佳である」 「註記」に,『両毛文庫栃通鑑』や『東毛小誌』には「大神社」は非掲載で「総社明神」が載っていることを記し,『下野国誌』の引用が続き

「蓋し国司が総社を建設せし以来主として総社が尊敬され,大神社の名一時忘れられたるが如くであつたが,近代に至り大神社の名を復現され『下都賀郡小誌』(大正七年1918)や『神社大観』(昭和十五年1940)には総社を載せず大神神社を載せている」

■延喜式に記録された「大神社」は?

まとめると,まず式内社の「大神社」が国庁付近に創建される。

その後下野国庁によって「惣社六所大明神」が創建され「惣社明神」また「室明神」「室八島大明神」などとも呼ばれた。地名にも惣社が使われた。

維新の神仏分離令で権現号が禁止され,「大明神」は自発的に「神社」に改称することになり,式内社があったのをかつぎだし,格付けにも申し分ないので「惣社明神」は思いきって祭神もかえて「大神神社」に改称する。栃木県では例外なく権現・明神号は神社に改称した(最上段[目次]の「はじめに」参照)。したがって「大神神社」を名乗るようになって150年である。

時を経て周辺の土地を含めて明治二十二年1889から「下都賀郡国府村大字惣社」という地名になる。

大正六年1917頃の大字惣社の小字名に「八島耕地」「八島北」があった(角川日本地名大辞典9)。この小字名がいつ頃まで遡れるのか不明だが,惣社の思川右岸あたりの地名が「室八島」だったのか。「耕地」と名づけたところから開拓地であることが分かる。

昭和39年発行『栃木県神社誌』の「大神神社」住所表記は「栃木市惣社町室八島476」と室八島が付いている。現在の住所からは室八島が抜ける。

大神神社から徒歩30分ほどの真南に「宮目神社」があり,境内の「下野国庁跡」が1980年に発掘調査されている。距離から考えて大神神社が式内社の大神社でなくとも総社であったことは間違いない。そして江戸末期のふたつの記録から,そのころすでに大神社と惣社六所大明神は深い関係にあったことが分かる。

延喜式に記録された「大神社」は現在は所在が確認できない。

なお,嘉永元年1848脱稿,嘉永三年1850刊行の『下野国誌』と110年前の『下野神社沿革誌』に現在の大神神社にある池と島のことが一切記録されていないが,元禄十五年1702『奥の細道』からほどない享保四年1719の取調べには境内には拜殿付きで八社が祀られた記録があり,『下野国誌』と同年,嘉永三年1850上梓の『壬生領史略』所載の絵図には八つの小島に小祠が祀られているのが見て取れる。現在の八嶋は大正末の大改築の際に造営されたものと推測する。

歌枕の室八島は惣社・国庁の付近のどこかにあったが,いまだ場所は特定されていない。

栃木にゆかりのある藤原実方と妄説室の八島

歌枕の室八島は惣社のどこかにあったが,いまだ場所は特定されていない。

室の八島のうたから1000年後の『下野神社沿革誌』に,昔の境内地が五町四畝歩あったが明治四年1871に,お上に二町四反以上召し上げられ7千480坪になったと書かれている。

昭和39年発行『栃木県神社誌』には1万4千89坪とあるので上地林は境内地に戻された。

換算すると境内地は46,574平米でほぼ東京ドーム46,755平米と同じ広さ。3分の1か4分の1つまり3千から5千坪が歌枕の室の八島でもおかしくはないかと思うほど広大だが現実には昼なお暗き鎮守の杜だったろう。

南西600m説だと境内北端から計っても室の八島は境内地の外になる。境内に室の八島があったなら,初期のうたに何らかの形で神社が詠み込まれただろう。

「室の八島」で検索したところ,地元の方の詳細な研究[歌枕室の八島の歴史の旅]を発見。とても刺激的で興奮しました。脱帽。変な本を読むよりおすすめです。下記全部削除しようと思ったのですが,ほんの数ミリ,異論もあるのであえて残します。

また『下野国誌』巻二には室八島関連の歌が無数に収録されていて助かった。裏本があるのかと思うほど,ネットもなく,図書館も整備されていない時代に信じ難い博識と調査力。脱帽。

さて,2014年に室の八島を語るなら,場所を特定しないと意味がない。以前からほんの少しなじみのある藤原実方(958?-998)をねたに,野焼きの実見経験に基づき,強引に。

『実方集』(『新日本古典文学大系』28「平安私家集」p.208)

  人に,はじめて

いかでかは思ひありとは知らすべきむろの八島のけぶりならでは

  この歌を,右将弁為任のとりて,詠うだりければ

このごろはむろの八島も盗まれて思ひありともえこそ知らせね

『三奏本金葉和歌集』第七378には詞書が補足されて

はじめたる人のもとにつかはしける

『小大君集』80/81には歌の成立過程が:

  実方の中将人のがりやらむとて 為任の君に かくいはむはいかゞといひける歌

いかでかはおもひありとは知らすへきむろのやしまの煙ならては

  をかしなといひて為任の君わが懸想する人のがりやりてけり 女もきゝてわらふ程に わたりければ をんな

此ころはむろのやしまもぬすまれて

  といひければ

えこそはいはねおもひながらに

実方は995年に京を出立し999年に仙台で亡くなる。それより20年を前後する若きモテ期にすてきなお姉さまとやりとりをしていた。『小大君集』の,この歌のみっつ前の時鳥の箇所では小大君の方は「これを實方に給はせたれば」と呼び捨てだ。実方が関東を過ぎた頃には,お姉さまは50歳前後になっていた。したがって実方の八島の歌は都で詠まれたもの。(「盗まれて」は実方の歌ではなく合作)。

実方の奥方綾女が陸奥守を追って雀宮で病に倒れ,その遺言で現在の4号線雀宮あたりに綾女神社が創建されたという伝説がある。すると綾女以前に実方も雀宮を通過した。その手前で,かつて空想で詠んだ室の八島に立ち寄ったことも十分に推測できる。だいたんに素人が考えれば,995年頃にはすでに室の八島は面影がなかったのではないか。あるいは煙がいつも立っていたわけではない。景観が残っていれば,盗まれた島がこんな鄙に,くらいの歌を残しそうなものだ。堤防のないころの河川敷はたやすく変貌する。

「としのうちに春はきにけり」を1番歌とする。976-982年頃成立の『古今和歌六帖』第三帖「水」の「島」1910番に

読人不知

 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今こそは知れ

これがいまのところ分かっている室の八島を詠んだいちばん古い歌のひとつで,その後(推定),大江朝綱(886-957年)が「いま」を「けふ」にかえただけの

 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れを残す。素人には盗んだも同然。

『古今和歌六帖』が万葉や新古今,後撰などからも収集しているので朝綱より古かろうとの推定に基づくが,今と今日の違いだけで朝綱作の可能性もある。しかし朝綱作なら読人不知にならない。4000首以上あるので朝綱と同時期の歌が採録されたかまだ未検証。

朝綱はえらい人なので任地が分かっており,下野には来ていない。すると『古今和歌六帖』の「読人不知」の謎の人物が下野で詠んだか,下野出身者または任を終えた国庁関係者が都で詠んだか。消失した歌人の歌を朝綱が感銘を受けて2字かえて詠んだか。いかなる経緯で下野の八島が『古今和歌六帖』に収録されたかは不明。

日本に限らず詩歌文学は意図せずにパロディで成立する。文学の伝統という。本歌取りもそのひとつ。盗みのテクニックを発見した脳がよろこぶ。そこにポエジーが生まれる。盗んでいいのだ。ほとんどの室の八島のうたは実見ではなく文学の伝統によって成立する。信用できなければ,秋の夕暮れは「ほんとうに」寂しいのか証明してみるといい。

実方が「いかでかは」を詠んだころには八島は流行していた。『新日本古典文学体系』注に,盗まれたのは大炊寮の「八島の鼎」も指すか,とカマド説も載っているが,「この頃は」は一般化がすすんだときにも使う表現。「このころは…ぬすまれて」は980年頃には皆が「室の八島」を使うので誰のでもない我が思いといってもウソばっかと思われちゃいますよ,まして他人の歌だし,と解釈していい。詞書も遊んでいる。

新日本古典文学体系『詩歌和歌集』注でも室の八島を大炊寮の大八島竃神にあてているが,すると神さまが盗まれる?「このころは」の語句とも整合性がとれない。宮目神社の配神は竃神だが,室の八島カマド説はやめにしたい。

室については旧今市に大室・川室の地名があるので,無戸室まで深読みしない方がいい。

陸奥で「都には聞きふりぬらむほととぎす関のこなたの身こそつらけれ」を詠んだときに実方は「ぬすまれて」をしみじみ思い出したにちがいない。

初期の八島のうたにあるのは「思い」を「知らせる」「室八島」の「煙」だ。恋の烽火=とぶひや=のろしだ。この説の弱いところは自分であげたノロシではないところだが,煙に心を投影すると考えればいい。宮廷人なので実際に煙は見ていない。人のあげた共通概念の煙を歌に利用する。ちなみに徳次郎の「おだき=男抱山」伝説は逢引のノロシがキーワード。

「室八島」が「煙」とセットの歌枕になる前に「思い」を「知らせる」もセットになっていた。

するとノロシ説もまんざらではない。小生,室の八島の煙=のろし説に賛成する。常時煙がたっている必要は歌のうえではないし,かげろうや水蒸気では薄い恋心になってしまうので論外。歌作のテクニック上は地名を入れるとイメージの拡大が期待できる。そのための室八島。

▉渡良瀬川の野焼き

つぎの写真は,渡良瀬川・下生井の西。島がいくつもあるように見える。恋心を伝えるには,このくらいの煙がないと思慕の相手にイメージが伝わらない。都人は坂東の荒ぶる広大な光景を想像したのではないのか。にせの八島に妄説の煙立つ,ですが。

下生井付近 ほのかな恋 多情の男の煙

相思相愛 片消え 燃えあがる恋

2008年3月16日に見た渡良瀬川河畔の野焼きの煙は天高くのぼり,十数キロ離れたところに葦の煤まで飛んでくる。間近にみると迫力がありすぎるが。「室の八島」の流行から1000年後でも関東平野のど真ん中ではまだ写真のような景観を見ることができる。野焼きは思川流域でも行われたが残念ながら見る機会がなかったので渡良瀬川で代用。現在の広範囲に及ぶヨシ焼きは半世紀ほど前から始まったとされているが,小規模の野焼きはさていつころからだろうか。

▉推定室の八島

小生,都で八島の共通概念が発生しているところから,国庁のあった付近にとらわれているので,昭和54年1979に発見された下野国庁跡に視点を戻す。

大神神社南東の思川と黒川が合流するあたりは,往古広々とした河川敷を形成していた。堤防のない時代は原野だった。治水事業のすすんだいまでもGoogleMapで見るととても広大だ。国庁跡と舟での移動を考え合わせれば,室の八島は合流地点辺りか。そのあたりで葦焼き,野焼き,焼畑でも見た下野国庁役人が,都に帰って下野の室八島の地名とともに,はるか北方の,都にはない雄壮な風景を自慢げに伝えたのだ。あとは宮中のかごの鳥たちが旅への誘いをうたに託して女を口説いた。

(以上,神社から離れるので,だいぶはしょりましたが)

▉資料

『群書類従』新校第十二巻 小大君集 /は異本 校訂者の私意は( )

さねかたの 中将人のがり/きみ人に やらむとて(此歌をかく),ためたうの君にかくいはむはいかゞといひ け/た る歌

いかでかは 思ひありとは/思ふこゝろを しらすべきむろのや島の煙ならでは

をかしなどいひて/いたしなどうちねらひつゝいひけるを,ためたうの君,わがけさうする人 のがり/に やりてけり/ければ,(これを)女もきゝて(いみじう)わらふ程に(まへを)わたりければ,をんな

此ごろはむろのやしまもぬすまれて

といひければ

えこそはいはねおもひながらに

(といらへけり)

簡潔には:

『歌仙家集』中川恭次郎編 明治四十二年1909収録

さねかたの中将人のかりやらむとて ためたうの君に かくいはむはいかゞといひける歌

いかでかはおもひありとは知らすへきむろのやしまの煙ならては

をかしなといひてためたうの君わかけさうする人のかりやりてけり 女もきゝてわらふ程にわたりければ をんな

此ころはむろのやしまもぬすまれて

といひければ

えこそはいはねおもひながらに

『詞花和歌集』第七188

  題不知 藤原実方朝臣

 いかでかは思ひありとは知らすべき室の八島のけぶりならでは

『三奏本金葉和歌集』第七378

  はじめたる人のもとにつかはしける 藤原実方朝臣

 いかでかは思ひありとは知らすべき室の八島の煙ならでは

▉このしろ

『下野国誌』と『おくの細道』に登場する大神神社の禁魚「このしろ」は現在の種に当てはめるとコハダの成魚で関西では「つなし」というらしい。栃木は海なし県なので水戸あたりの海辺から運んでくるのだろうが,半世紀前でも手に入った海魚は塩びきくらいのもので,千年前なら酢漬けにしても超のつく貴重品だったろう。一尾焼いて奉納するのは理解できるが,食べようにも手に入らなかった。もっとも富士山頂のこのしろ池の幻魚だと淡水魚の一種だが。2014年に参拝した徳次郎の御霊神社では平成以前にはサンマを捧げて氏子が焼いて食していたことをお聞きした。高椅神社や真岡の大前神社では鯉が禁じられている。

▉「善信聖人親鸞伝絵」の室の八島

三重県専修寺蔵の永仁三年1295「善信聖人親鸞伝絵」五巻本に改装の三巻に越後から下野を抜けて笠間に到る場面が描かれている。栃木県立博物館の「中世宇都宮氏」展で見ることができた。

絵には詞書,絵のキャプションが書かれている。右から「国分寺也」,その左に「下野むろのやし満乃あ里さまなり」とあり,さらに左に「国符の社也」とある。ルビは[コフノヤシロナリ],符は府。

国分寺は瓦屋根の立派な建物で,国府の社は側面柱三本,前二本の簡素な建物が描かれている。問題の室の八島はそのあいだに描かれているのだが,もやのかかったような広い場所に島が点在している。岩だけの島もあり,松のような木が一本とか二本生えている岩など大小さまざま。7つか8つか判然としない。

位置関係は国分寺と国府の社の間で,室の八島はどちらにも属さないで独立している。建物はなにもない。面積はかなり広い。河川の浮島のようにも見える。煙は立っていない。

著作権の関係で絵は掲載できないが1994年中央公論社刊『続々日本絵巻大成伝記・縁起篇1・善信聖人親鸞伝絵』で見ることができる。P.64-67に室の八島が見える。

絵の作者は現在の長野県住,篠ノ井塩崎の康楽寺二世浄賀で,室の八島は伝聞で描いたか,親鸞同行者のデッサンがあったか,実見かまだ分からない。 藤原実方からは300年後,戦乱より前で,時がゆっくり流れていた頃なので,雰囲気は歌枕成立ころと大差ないかもしれない。芭蕉はこの絵巻の400年後に室の八島に立ち寄っている。

下野国分寺跡は現在の天平の丘公園のとなりにあって,西に思川,東に姿川が流れている。両河川の間2キロの中間地点に位置する。笠間に向かうには姿川を渡ってほぼ真東に進む。道筋では少し北上して壬生から上三川,真岡,益子を抜けて笠間に到るだろう。大神神社に行くには思川を渡らなければならない。永仁三年ころには国分寺は衰退していたが建物は残っていた。親鸞伝絵の順では室の八島は国分寺の北のどこかになる。ほぼ真北に1.5キロでは黒川が思川に合流している。黒川も思川もここまで下流に来るとかなり大きな河川なので,800年前と合流地点はさほど変わっていないだろう。堤防のない時代の河川敷の風景が室の八島を形成していたか。

では「国府の社」は何をさすのだろう。絵の詞書では字が小さいのだが社に「ヤシロ」とルビが振ってあるので下野国庁ではなく神社である。「国府の」となると思川をわざわざ渡って現在の国府町に行き着くしかない。渡らないで北上すると壬生町に出て,国府と関係なくなる。

同展ではほぼ同時期の「一遍聖絵」が展示されていて足利の雨宿りの図が見える。そこに描かれている村檜神社と思しきは楼門付きの立派な建物で,当時の神社でも大きな社は回廊も備えていたことが分かる。この絵の社にくらべると「国府の社」は小屋程度だ。絵で見ると大きな神社ではなく,「国府の」の名称だけが手がかりで,お手上げである。社のうしろに木が数本描かれているだけで森と呼べるものではない。総社であればもっと立派だったろうから,この絵があるいは式内社の「大神社」か。

疑問のままでお預けにします。2017/9/2