https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=135 【】より
元禄(げんろく)2年(1689年)3月29日(太陽暦5月18日)、芭蕉(ばしょう)と曾良(そら)は、『おくのほそ道』の旅における最初の歌枕の地、室の八嶋を訪れました。
歌枕「室の八島」は、下野国(しもつけのくに)にあるとされ、平安時代(へいあんじだい)以来、煙を題材にした「室の八島」の歌が詠まれました。
芭蕉が訪れた元禄期には、都賀郡(つがぐん)惣社村(そうじゃむら)の室八嶋大明神〔現在の栃木市(とちぎし)惣社町(そうじゃまち)の大神神社(おおみわじんじゃ)〕の説として、この神社の境内が歌枕「室の八島」の地とされ、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が貞操の証として、燃えさかる無戸室(うつむろ)で子を出産したという室八嶋明神の縁起が語られ、境内の八つの小島と池が、古歌に詠まれた歌枕「室の八島」だと説かれていました。
貞享(じょうきょう)2年(1685年)『日本名勝記(にほんめいしょうき)』・元禄1年(1688年)『下野風土記(しもつけふどき)』。
この縁起は、『日本書紀(にほんしょき)』巻2の神話や中世の『浅間(あさま)の本地』などをもとにした説話です。
室の八嶋に詣(けい)す。同行曾良が曰はく、「此の神は、木の花さくや姫の神と申して、富士一体なり。無戸室に入りて焼け給ふ(たもう)ちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生まれ給ひしより、室の八嶋と申す。又、煙を読み習はし侍る(はべる)もこのい謂はれ(いわれ)なり。」将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍りし。
室の八嶋に参詣(さんけい)しました。
同行の曽良が言うことには、「この室八嶋大明神の祭神は、木の花さくや姫の神と申して、富士山にまつられた神と同じです。
姫が戸口のない塗りごめの室にはいって、誓いを立てて火をつけ、火の中で、火々出見尊(ほほでみのみこと)がお生まれになったということから、室の八嶋と申します。
また煙にちなんだ和歌を詠むのが習わしになっているのもこうした理由によります。
それからまた、この土地ではコノシロという魚を食べるのを禁じています。」こうした縁起の趣旨で、世間に伝えられている話もあります。
下野の歌枕「室の八島」に芭蕉は興味をひかれ、歌枕の地をたずねました。
当時は惣社村の室八嶋大明神の地にある八つの島と池が、歌枕「室の八島」だとされていました。
ここで芭蕉は「糸遊(いとゆふ)に結びつきたる煙(けぶり)かな」の句を詠みました。
「糸遊」はかげろう。
ただしこの句は『おくのほそ道』には収められていません。
また、「あなたふ(トウ)と木の下暗も日の光」という句を作っており、これを推敲(すいこう)したものが日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)での句になっています。
その後、壬生(みぶ)・楡木(にれぎ)を通って、この日は鹿沼(かぬま)に宿をとりました。
『おくのほそ道』で、曽良が語ったと記されている室八嶋大明神の縁起説話は、中世の『浅間の本地』の物語に近似する説話です。
元禄期の室八嶋大明神では、『浅間の本地』に基づいた縁起が語られていたことが『下野風土記』に記されています。
『おくのほそ道』で曽良に語らせた室の八嶋の由来は、当時の室八島大明神の縁起語りを反映していました。
『下野風土記』によれば、元禄期には、室八嶋大明神の右の池に八つの小島があり、「八嶋」と呼ばれ、その中には琵琶島(びわじま)・琴島(ことじま)と呼ばれるものもありました。
島ごとに小さな祠(ほこら)があり、古くは池に清水が湧いて水気の「けぶり」(川霧)が立ったといいますが、池の水は枯れていたので、「けぶり」は立たなかったといいます。
近世の当地では、歌枕「室の八島」の「煙」が、この池から立ち上がる水気(川霧)として理解されていました。
芭蕉が訪れた当時の有様がうかがえます。
現在の大神神社の境内には、橋で結ばれている八つの小島があり、島のまわりは池になって水がたたえられています。
気温と水温の関係で、「けぶり」(川霧)が立つことがあるといいます。
現在では、八つの島には香取神社(かとりじんじゃ)・二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)・熊野神社(くまのじんじゃ)・浅間神社・雷電神社(らいでんじんじゃ)・鹿島神社(かしまじんじゃ)・天満宮(てんまんぐう)・筑波神社(つくばじんじゃ)がまつられています。
浅間神社は、富士山の神である木花咲耶姫を祭っており、安産の神様といわれています。
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/muroya_u.html 【歌枕紀行 室の八島―むろのやしま―】より
室の八島は下野国(しもつけのくに)の惣社、大神(おおみわ)神社境内にある。JR栃木駅で東武宇都宮線に乗り換え、野州大塚駅下車。ちょうど関東平野が尽きるあたりの、のんびりとした田園地帯である。程なく、こんもり茂った鎮守の森が見えてきた。
大神神社参道
境内の説明板にはこうあった。
大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。
惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。
また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞えた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。
奈良時代以前にまで遡る古社であることは確からしく、本殿も周囲の雰囲気も、それらしい風格を漂わせる。付近には古墳が多く、一帯は古代下野国の中心であった。
「室の八島」は当社境内の池にある八つの島をいう、ということになっている。もっとも、歌枕の本などをみると、もともと下野国とは何の関係もなく、宮中大炊(おおい)寮(づかさ)の竃(かまど)のことを言ったらしい。「むろのやしまとは、竃をいふなり。かまをぬりこめたるを室といふ。(中略)釜をばやしまといふなり」(色葉和難集)。つまり、竃=塗り込めた釜、を宮中の隠語(?)で「室の八島」と謂い、これがいつしか下野の国の八島に付会された、ということである。そうして、この辺りを流れる清水から発する蒸気が「室の八島のけぶり」と見なされた。これを、恋に身を燃やす「けぶり」に喩えて、多くの歌が詠まれたのである。
いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは(藤原実方)
人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八島も名のみ也けり(源重之女)
下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ(大江朝綱)
煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける(大江匡房)
いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん(藤原俊成)
恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ(藤原忠定)
恋に焦がれる心情の比喩としては、「海人の塩焼く煙」なども和歌の常套であったが、「室の八島の煙」はもう少し控えめというか、抑えに抑えた(それでも隠しきれない)鬱屈した恋の想いを詠むのに用いられているようである。相手に対しては、あからさまに知らせることができないが、それとなく知ってほしい、というようなニュアンスである。王朝の恋の美学には、かなったイメージを提供する歌枕だったのであろう。
室の八島
室の八島 池の中に八つの島がある
現存する「室の八島」は、まことに小さな池の小さな島である(夏の盛りにも、蒸気を発しているようには見えない)。それぞれの島には小さな祠があり、各地の効験あらたかな神々を勧請している。
『おくのほそ道』を見ると、こうある。
室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て、富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入て燒給ふちかひのみ中に、火ゝ出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申(まをす)。又煙を讀習(よみならは)し侍(はべる)もこの謂(いはれ)也。」將(はた)このしろといふ魚を禁ず縁起の旨世に傳ふ事も侍(はべり)し。
曾良の怪しげな蘊蓄を記したあと、唐突な魚の縁起話に触れているだけである。芭蕉が訪れた頃、八島の清水は涸れ果てて、痕跡さえも残っていなかったから、こんな話でお茶を濁すしかなかったのだろうか。今ある境内の池は、さらに後世の造作という。源重之女の歌にある通り、「室の八島も名のみ也けり」だったのである。
『曾良随行日記』には、この地で芭蕉が残した句が記し留められている。境内には句碑があって、わずかに先人の足跡を偲ばせてくれた。
糸遊に結びつきたる煙哉
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