新・下野市風土記 華麗なる一族

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【新・下野市風土記 華麗なる一族⑴】

下野国の功労者

下野国出身の実在の人物で、功績をあげた人として、何度か下しもつけのあそんこまろ毛野朝臣古麻呂を紹介してきましたが、改めて古麻呂から始まりその後『日本書紀』、『続日本紀』などに記載された一族の人物について記してみたいと思います。

 天武天皇13(684)年11月1日、それまで下毛野君を名乗っていましたが、このとき、下毛野

朝臣の姓を賜りました。同時に朝臣の姓を賜った氏族は日本書紀によると他に52の氏族がい

たそうです。

古麻呂の実績

持統天皇3(689)年10月22日、下毛野朝臣子麻呂(記載は子になっています)は自分の所有す

る奴ぬ ひ婢(奴隷)600人を解放することを朝廷に願い出て許されています。下野一族が600人の奴婢の所有権をもっていたとしても、奴婢は一族が所有する田畑を耕作する人員のはずですから保持するすべての奴婢を解放したとは考えられません。解放人員は一部の人数だと推測すると下毛野一族は相当数の奴婢を所有していたと考

えられます。

この奴婢の解放は仏教的な考えから行われたとも考えられています。仏教には殺生を禁じる

思想があり、魚や鳥、獣などの生物を解放する儀式「放ほうじょう生」があります。最初の放生は天武6(677)年に行われた記録があり、養老4(720)年には「放生会」が執り行われています。平安京郊外の岩清水八幡宮では貞観5(863)年以降、8月15日の年中行事となっています。現代では式典の際に白い鳩を飛ばすことがありますが、これは放生と同じ意味があるのではないかと思います。

 7世紀末頃に、下野薬師寺を一族の氏寺として建立したとするならば、当然、一族は仏教に深い信仰心をもっており、魚や鳥でなく人を解放したとしても不思議ではありません。持統元(687)年には、帰化した新羅人14人を下野国に配置して田と食糧を給付したと日本書紀に記されています。このほか、持統3(689)年4月8日にも、帰化した新羅人を下野国に置いた記録があります。翌年の690年にも新羅人を配置しています。朝鮮半島から来訪した人の多くは文化的生活をした人々で、仏教の信仰などについても造詣が深い人達が多かったと考えられます。 

古麻呂の成長期にこのような環境の影響を受けていたとするのならば、奴婢600人の解放が行われたとしても不思議ではありません。

中央政権での活躍

 文武天皇4(700)年には、中央で直じっこうさん広参の階級を得た古麻呂は、直じっこういちふじはらのあそんふひと広壹藤原朝臣不比等、直じ っ広こうにあわたのあそんまひと貮粟田朝臣真人らとともに大宝律令の選定の任を受けています。

 大宝元(701)年、大宝律令が完成し、古麻呂は新しい法律の考え方、解釈を親王、諸臣、百官に向けて講義を行っています。大宝2(702)年には古麻呂は勅により、従じゅさん三位みの大おおとものすくねやすまろ伴宿祢安麻呂、正しょうしいのげ四位下粟田朝臣真人らとともに朝政の議論に参加するよう命じられています。大宝3(703)年2月15日には、律令選定の功労により、古麻呂は田10町封ふ こ戸50戸を賜ります。翌3月7日にも功田20町を賜っています。


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【新・下野市風土記 華麗なる一族(2)】

前回までのあらすじ

 前回、下しもつけのあそんこまろ毛野朝臣古麻呂の中央政権での活躍について、少しだけ紹介しました。文武天皇4(700)年に大宝律令の選定の任を受け、作業に当たりました。それまで、天武天皇(在位673~686)のときに制定された飛あすかきよみはらりょう鳥浄御原令がありましたが、「令りょう」とセットになる「律り つ」が完成していなかったようで、改めて大宝律令が編さんされました。では、律と令とは?現代の法に例えて、律は刑法、令は憲法となります。これに「格きゃく」(現行法令集)、「式」(役所のマニュアル)と解説されています。

大宝律令編さんプロジェクト

 律も令も中国に例があり、隋や唐といった中国王朝の事例を参考に日本風にアレンジしたわけです。では、古麻呂を含めどのようなメンバーが関わっていたのでしょう?現代の表現を借りれば「プロジェクトチーム」のメンバーとなります。このプロジェクトには、19人のメンバーが選出されました。主宰には、天武天皇の9番目の皇子である①刑おさかべしんのう部親王(705年没)、実務管理者のような立場に②藤ふじわらのふひと原不比等(659~719)、作業主任のような立場に③粟あわたのあそんま田朝臣真人ひ と(719年没)と④下毛野朝臣古麻呂(709年没)、以下、作業担当者として⑤伊いきの岐(伊吉)むらじはかとこ博徳(生没不詳)、⑥伊いよべのむらじうまかい余部連馬養(703年没)、⑦薩さつこうかく弘格(生没不詳)、⑧土はじべのすくねおい師部宿禰甥(生没不詳)、⑨坂さかいべのすくねもろこし合部宿禰唐(704年没)、⑩白しらいのふひと猪史骨ほ ね(宝ほ ね然)(生没不詳)、⑪黄きふみのむらじそなう文連備(712年没)、⑫田たなべのふひとももえ辺史百枝(生没不詳)、⑬道みちのきみおびとな君首名(663~718)、⑭狭さいのすくねさかまろ井宿禰尺麻呂(生没不詳)、⑮鍛かぬちの造みやつこおおすみ大角(生没不詳)、⑯額ぬかたべのむらじはやし田部連林(生没不詳)、⑰田たなべのふひとおびとな辺史首名(生没不詳)、⑱山やまぐちのいみきおおま口伊美伎大麻呂ろ(生没不詳)、⑲調つきのいみきおきな伊美伎老人(701年没)。

①~⑤までが五位以上の貴族相当の官位者、⑤は、遣けんしらぎし新羅使で唐・百くだら済からの使者の対応をするほど語学堪能。⑧は「大唐学生」いわゆる遣唐使と一緒に遣わされた学生。新羅経由で帰国した経歴。⑨の一族は大宝元年に遣唐使として派遣。⑩も天武13年に大唐学生として唐に渡り、新羅経由で帰国。⑦⑩⑪⑫⑮⑱⑲は渡来系氏族出身。⑦は渡来一世の音おんはかせ博士(楽がくじん人)。⑪は高こうらい麗系氏族で画え し使(絵師)、壁画古墳などに関与しているかもしれません。⑫は最終官位が大学博士で子孫に万葉歌人がいます。⑬は和銅五年に新羅大使として派遣。「懐かいふうそう風藻」に歌が残されています。⑮は渡来系の韓からかぬちべ鍛冶部出身。明みょうぎょう経第一博士の称号も得ています。⑱は東やまとのあやうじ漢氏系の豪族。⑲は百済系、東漢氏系と推測されています。

プロジェクトに関わった人々の経歴

 この中で、鍛造大角が律令(法令)に、粟田朝臣真人が経学・史書に詳しい人材と考えられています。また、上記したように入唐経験者として伊岐(伊吉)連博徳、土師部宿禰甥、白猪史骨(宝然)のほか、薩弘格のように唐からの渡来人や渡来系氏族を重用したのは、海外事情や典籍に明るい人材を登用したと考えられています。これらの関係者は、大化(西暦600年代中頃)以前の渡来人、天てんじ智2(663)年の白はくそんこう村江の戦いに代表される百済滅亡期頃を中心とした亡命者系渡来人、奈良朝直前期の渡来系氏族としても分類することができます。

 下毛野朝臣古麻呂は、これらの人々に混じって藤原宮で活躍したわけです。古麻呂の出生については謎ですが、持統天皇元(687)年には「高麗の人を常陸国に移植し田を与えた。」また、同年、「新羅人14人を下野国に移植し田を与えた。」という記録があります。古麻呂の没後になりますが、霊れいき亀2(716)年5月には駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1,799人を武蔵国に移して高麗郡を設置した記録があります。ここからも、いかに渡来人が東国にも多く在住していたかがわかります。


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大宝律令制定後の古麻呂の活躍

これまで2回にわたって、下毛野朝臣古麻呂が大宝律令の制定に重要な役割を果たしていたことについて記しました。今回はその後の古麻呂の業績と関係者について記してみたいと思います。

軍事のトップ官僚としての古麻呂

慶けいうん雲2(705)年4月22日には、従じゅしいげ四位下となった古麻呂は兵ひょうぶきょう部卿に任じられます。兵部卿とは兵部省の長官です。では、兵部省とはどのような組織なのでしょう?

 兵部省は、諸国の軍団・兵士・兵器・軍事施設に関する最高機関であり、武官の勤務評定・人事権をもっています。兵部省の下部組織として、諸国の牧(牧場)とそこに属する牛馬の管理、駅制に関する駅うまや家やそこで働く官吏を所管する兵ひょうまし馬司、兵器製造とそれに関わる様々な製造部局を管理する造ぞうへいし兵司、公と私の船舶の管理を行う主しゅせんし船司、鷹狩り用の鷹と狩猟犬を管理する主しゅようし鷹司、軍事・葬儀における鼓

こ笛てきちょうれん調練をつかさどる鼓くすいし吹司があります。

 都(畿きない内)と各地(七しちどう道)を結ぶ幹線道路に配置された駅家とそこで勤務する官吏に関する権限、駅家に配置するための馬の生産に関わる「牧」の統括権ももっていたことからも、重要なポストであったことがわかります。

 下野国内(東山道)には、足利・三みかも鴨・田た べ部・衣きぬがわ川・新にった田・磐

いわかみ上・黒川の7駅が置かれていました。また、現在の栃木市(旧藤岡町)赤あかま麻地区に「朱あかまのまき門牧」が置かれていたことが『延えんぎしき喜式』には記されています。関東地方でも名馬の産地として有名な地域だったようで、名馬に関する伝説が残されています。

兵器製造は、平城京だけでなく、全国各地で行われました。東国で有名な遺跡として、茨城

県石岡市鹿かのこの子遺跡を挙げることができます。鹿の子遺跡は、1984年に常じょうばん磐自動車道の工事により発見されました。奈良時代後半~平安時代の前半期の蝦えみしせいとう夷征討に関する武器製造工場のような、常ひたち陸国こくが衙が所管していた工房と考えられ、中に製鉄用の炉が複数造られた長大な竪たてあなたて穴建物も のの遺いこう構が発見されたほか、「矢やはぎつくりのいえ作家」と記された墨書土器や製鉄に関する資料が出土しています。また、宝ほうき亀8(777)年の記事ですが、相さがみ模・武むさし蔵・下しもうさ総・下野・越えちご後国から出羽国鎮ちんじゅふ守府ヵ(出でわのさく羽柵・雄おかちのさく勝柵か)に甲かぶと200領が輸送されています。さらに下野国府からも、甲の製造に関する木もっかん簡が出土しています。

 このほか、1000人以上を大軍団、600人以上を中軍団、500人以下を小軍団として、各地で軍団が編成されました。そのために全国規模で成人男子の約1/3が徴発され、この中から都を守る衛え じ士、九州に派はへい兵される防さきもり人が選抜されました。この徴兵のために、個々の住民を記載する戸籍をつくったわけです。

 有名な軍団として、「御みかさぐんだん笠軍団」「遠おんがぐんだん賀軍団」があります。これは、筑ちくぜん前国に置かれた4軍団(兵士4,000名)のうちの2つで、過去にそれぞれの軍団印が出土しています。ちなみに、筑ちくご後(3,000名)・ 肥ひぜん前 国(2,500名 構 成)に3軍 団、豊ぶぜん前(2,000名)・豊ぶんご後国(1,600名構成)に2軍団、肥ひ ご後国に4軍団(4,000名)が置かれました。九州だけでも17,000名を超える兵士が配置されていたわけです。

  東 北 地 方(陸 奥 国)で は、 玉たまつくりだん造 団、 白しらかわだん河 団、名なとりだん取団、行なめかただん方団、安あさかだん積団、磐いわきだん城団、小おだだん田団が置かれています。「番長」という言葉は、この軍団において交代制の勤務の当番を指す言葉で、多賀城跡から軍団兵士の勤務に関する番長を記した木簡が出土しています。

このように兵部卿というポジションは、できたばかりの日本という国の軍事権を掌握する立場だったのです。


https://www.city.shimotsuke.lg.jp/manage/contents/upload/5d09bb4cf35a1.pdf 【新・下野市風土記 華麗なる一族⑷】より

前回は、従じゅしいじょうしもつけのあそんこまろ四位上下毛野朝臣古麻呂が、慶けいうん雲2(705)年4月に兵ひょうぶきょう部卿に新任されたことと、兵ひょうぶしょう部省の役割について記しました。今回は、『続しょくにほんぎ日本紀』に記されている2年後の記事から始めます。

文武天皇の崩御

 慶雲4(707)年6月15日に文もんむ武天皇が崩御され、翌16日には殯ひんきゅう宮(天皇など貴な方々が亡くなったとき、死者を本葬するまで棺を仮安置し、別れを惜しむための建物)に関する儀式が行われました。

古墳時代から引き継がれていた儀式の執行の仕方や服装などは文武天皇の遺いしょう詔(天皇の遺言)のとおり簡素化されましたが、初しょなのか七日から七な な七な の日か(四十九日)まで7日毎に四大寺(大だいかんだいじ官大寺、薬師寺、法ほうこうじ興寺、川かわはらでら原寺)で仏教の儀式である斎さいえ会が行われました。

『続日本紀』の記事は、6月16日の後は10月3日となり、この間の記載がありません。 

 続日本紀』から引用します。

「10月3日『二にほん品の新にいたべしんのう田部親王・従じゅしいじょうあ四位上阿倍べのあそんすくなまろ朝臣宿奈麻呂・従じゅしいげさえきのすくねおおまろ四位下佐伯宿禰大麻呂・従じ ゅ五ごいげきのあそんおひと位下紀朝臣男人 を 御みかまどのつかさ竈 司 』 に 任 じ、『従じゅしいじょうしも四位上下毛つけのあそんこまろ野朝臣古麻呂・正しょうごいじょう五位上の土はじのすくねうまて師宿禰馬手・ 正しょう五ごいげたみのいみきひらふ位下民忌寸比良夫・従じゅごいじょういそのかみのあそんとよにわ五位上石上朝臣豊庭・従じゅごいげふじわらのあそんふささき五位下藤原朝臣房前』を山みささぎのつかさ陵司に任じ(後略)」と記されています。

 御竈司とは、文武天皇の火葬に従事する役職です。一方、古麻呂が任命された山陵司とは、土木技術を駆使し、古墳の造営に従事する役職です。11月12日の記事では、「その日、飛鳥の岡で荼だ び毘に付ふした」とあり、「11月20日遺骨を桧ひのくまあこへのみささぎ隈安古山陵に葬り申し上げた。」と記されています。荼毘に付した「飛鳥の岡」の地は、現

在の奈良県高たかいちぐんあすかむらおか市郡明日香村岡と考えられます。

文武天皇の陵墓は何処

平安時代にまとめられた『延えんぎしき喜式』巻第二十一には、八省の一つである「治じぶしょう部省」とその下位組織である雅うたりょう楽寮、玄げんばりょう蕃寮、諸しょりょうりょう陵寮について記されています。この中の諸陵寮に、『諸しょりょうしき陵式』という山さんりょうしょぼ陵諸墓に関する記述があります。神かみよ代陵りょう(ニキギノ尊みことなどの祖先神に関する3陵墓)のほか、天皇陵及び三さんこうりょう后陵三十七陵、皇后以下皇妃墓及び外がいせきぼ戚墓などの四十七墓について記されています。

 江戸期後半(1808年)には、現在の宇都宮市出身で、前ぜんぽうこうえんふん方後円墳という名前の名付け親でもある蒲がもうくんぺい生君平が『山さんりょうし陵志』を記したとき、この『諸陵式』を参考に陵りょうぼ墓の比ひてい定を行っています。

 文武天皇の遺骨が葬られたとされる「桧隈安古山陵」については、「大和国高市郡にあり」、すなわち、現在の奈良県「明日香村大字栗原」にあると記されています。

元げんろく禄10(1697)年に行われた諸陵探索という調査以来、長いこと高たかまつづか

松塚古墳が文武陵と考えられていました。現在は、明日香村平田に宮内庁が管理する文武天皇陵がありますが、事実については様々な説があります。

 文武天皇の陵墓がどこにあるのかも、どの程度の規模のものだったのかも定かでありませんが、古麻呂が山陵司に任じられた10月3日に工事に着手し、11月20日には遺骨を葬ったとあるので、50日足らずで完成したことになります。

 この頃、畿内では既に前方後円墳は造られなくなっているので、円墳か八角墳だったと考えられます。高松塚古墳と同規模だとしたら、塚の土量は前方後円墳に比べて少なくなりますが、石室は立派なつくりだったことでしょう。

 もしかすると、古麻呂が設計したのかもしれませんね。

お詫びと訂正

6月号の下毛野朝臣古麻呂の位の記載に誤りがありました。「従四位下」と記載しましたが、

正しくは「従四位上」です。お詫びし、訂正いたします。


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前回、慶けいうん雲4(707)年6月15日、古こまろ麻呂が文もんむ武天皇の葬儀のとき、天皇の墓を造る「山みささぎのつかさ陵司」に任じられたことを書きました。

 この少し前、『続しょくにほんぎ日本紀』の同年3月21日付けの記事に「従じゅしいじょう

四位上下しもつけのあそんこまろ毛野朝臣古麻呂が下毛野朝臣石い わ代し ろの姓を下毛野川かわち内朝臣と改姓することを願い出てこれを許された」と記されています。

石代とは、古麻呂の一族の者ですが、一族を分家させるかのように、わざわざ「川内」を名乗らせています。一体なぜなのか、今回は、その謎に迫ります。

出世と報酬

都が藤原京から平城京に移ろうとしていたこの頃、古麻呂を総領とする下毛野一族は、既に中央での立脚点を確立し、押しも押されもしない一族に成長していたと考えられます。

 一族は平城京内に「下しもつけのでら毛野寺」をもてるほど財産を保有しており、古麻呂はこの頃、従四位上の位を得ています。

 従五位以上とそれ以下では、待遇に雲泥の差がありました。従四位上になると、年収は552

石、現在の額に換算すると約4140万円となります。このほか、毎月「位いろく禄」と呼ばれる報酬として、絁あしぎぬ8疋ひ き、綿8屯と ん、布43端た ん、庸ようふ布300常き だが支給され、さらに「季きろく禄」と呼ばれる、今で言うところのボーナスとして、絁14疋、綿7屯、布36端、糸7絢け ん、鍬く わ30口、鉄12延え んが支給されました。これらは、平城京に設置された公設市場などで他の品々と交換したり、屋敷で働く使用人たちの俸給として与えられたりしたと考えられています。さらに、従じゅごいげ五位下以上になると支給される「位いでん田」と呼ばれる田があり、従四位上は20町の田を与えられました。そこで収穫される米は課税対象外となり、すべて古麻呂の収入となりました。

 平城京に勤務した官人は1~2万人と想定されていますが、そのうち従五位以上の貴族は100人から200人程度しかいなかったと推定されています。

 一般の官人は、無む い位という何も位をもたない状態からスタートし、毎年「考こうか課」と呼ばれる人事評価で良い成績を取らなければ昇進できませんでした。また、蔭おんみ位の制という、家柄や親の威光に応じて子孫にも位を与える公式制度があったため、家柄や強力な親の七光りがなければ、定年までに五位に手が届くことは不可能だったことでしょう。

一族の立身出世を助けた古麻呂

古麻呂は、このようなシステムができあがる前だったとはいえ、東国の田舎出身で頼るものもない中、実力だけで貴族階級まで登りつめました。生産性の高い下野の地を地盤としていたことで、古麻呂は大いに活動し、立身出世を果たすことができたのです。

 中央での地位が高まったとき、古麻呂はあえて石代に川内の姓を名乗らせました。国の制度改革に携わっていた古麻呂は、自身の死後に発令されることになる三さんぜいっしんのほう世一身法(開墾した土地を一族の三代目までしかもつことができないと定めた法)などを見越していたのかもしれません。だからこそ、石代に新たな姓を与えることで、一代でも長く、下野の地を一族が所有できるように手を打ったのです。

 石代は、古麻呂が亡くなってから6年後の霊れいき亀元(715)年正月に、従じゅろくいじょう六位上から従五位下の貴族階級に昇進しています。

 古麻呂が築いた家柄と地盤が、功を奏したのかもしれません。

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