https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0393/info-0000000641-1.html 【下野薬師寺跡】より
下野薬師寺は、7世紀末、この地方をおさめていた豪族、下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬのあそん こまろ)によって創建されたと考えられています。下毛野朝臣古麻呂は、天武天皇・持統天皇らに仕え、また藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令制定の重要なメンバーでした。古麻呂の、そのような中央政権とのつながりの深さは、下野薬師寺の重要度を高めることとなります。
薬師寺跡復元回廊の写真古麻呂は、西暦709年(和銅2年)に、式部卿正四位下(しきぶきょう・しょうしいげ)という、現在でいえば国務大臣級という高い地位で亡くなりました。その翌年、西暦710年(和銅3年)に、都は藤原京から奈良の平城京へと移り、律令国家の制定とともに、国を仏教の力で治める「鎮護国家」の確立が推し進められました。それにともない、都はもちろんのこと、地方でも寺院が整備されていきました。薬師寺も、下毛野朝臣古麻呂の功労から国によって整備され、東国における仏教施策の一翼を担う、重要な寺院として位置づけられるようになりました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めます。まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきたこと、そして、生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたことです。これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日。以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。そして、“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野薬師寺の3カ所と定められました。これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。下野薬師寺は、東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠より関東・東北の僧に戒を授けることのできる、大変重要度の高い寺院となり、ますます隆盛を極めることとなります。
https://4travel.jp/travelogue/11518341 【「下野薬師寺歴史館」「下野薬師寺跡」「安国寺(薬師寺)」見学_ 栃木県下野市薬師寺】より
雨で仕事が中止のため、「どこか博物館・資料館がないか?」とネットを検索しました。
今までに、近くで行った事がない場所は・・・興味ある場所は・・・
結論は表題の「下野薬師寺跡」と、そばにある「下野薬師寺歴史館」でした。
いつ、誰が、なんの目的でどのように建設したのか?「・・・跡」とは何故消滅したのか?
歴史に疎いしんちゃんが、壮大な疑問を解決(納得)するのでした。
「下野薬師寺歴史館」見学なのに「安国寺(薬師寺)」は付録?
違います、下野薬師寺が衰退・消滅後、その場所に安国寺(あんこくじ)として改称して現在に至っています。最近名前を安国寺から薬師寺に変更しました。ややこしいです。
さて、コメントが難しい歴史をどう克服するのか?
努力の結果を御覧下さい。
「下野薬師寺歴史館」は畑の畦道にあります。田園の中の資料館・・・がぴったり
小雨の中、到着。「薬師寺」とは何なのか?解明するぞ~まずは「下野薬師寺歴史館」のシンボルマークは遺跡発掘で出土した“瓦”の紋様の“ハスの花”です。(行田市の古代ハスは後日見学に行きます)
まずは、ビデオにて概略を学習。ビデオは撮影NG!薬師寺建立の理由は
●600年代末ごろ下毛野朝臣古麻呂(しもつけの の こまろ)を筆頭とする下毛野(しもつけ)一族の氏寺(うじでら)として、自分の敷地内に建立された。その後、国の東国仏教政策の一端を担うため720年ごろから国の寺(官寺)として改修が行われた。(いただいたパンフレットと学芸員の話より)
●「天武(てんむ)天皇が皇后(後の持統(じとう)天皇)のご病気平癒(へいゆ)を祈るために建てられた薬師寺を下毛野朝臣古麻呂が我が故郷にも建立をと真似て作ったらしい。(しもつけ風土記の丘資料館説明員の話)
今回の主人公
下毛野朝臣古麻呂(しもつけの の こまろ)
「隋や唐の律令を深く学んだようで,大宝律令の撰定に参画し,藤原不比等,粟田真人らとともに,その中心となって活躍した。」(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説より)
「地方出身であるが、豪族でもあり多分、中国語も堪能で大宝律令の編さんに参加し、都で大活躍したのでしょう」と歴史館の学芸員さんが説明していた。
下野薬師寺式軒瓦(しもつけやくしじしき のきがわら)の誕生
「下野薬師寺は、大和川原寺系の軒先瓦が出土することなどから、7世紀末に創建されたと考えられています。創建の理由は不明ですが、その背景には、大宝律令の選定に参加し、式部卿正四位下で卒した下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬのあそんこまろ)の強い関与を想定することができます。」公式下野市バーチャルミュージアムより
瓦から歴史を分析
「人名文字瓦」
西暦700年ごろも竪穴式住居!!
竪穴式住居は縄文時代、弥生時代くらいと思っていた。
焼けた瓦(かわら)
薬師寺が9世紀ごろ大火災にあった・・・
⑥ How、どのように建設(けんせつ)したのか?
はじめは自費、後に律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代で国費で改築等が行われた。
江戸時代の薬師寺(安国寺)
薬師寺が衰退荒廃し、室町時代に足利氏が薬師寺を安国寺(あんこくじ)と改称した。
(私立のお寺が次々と建立され下野薬師寺は荒廃した)
薬師寺最盛期の回廊の一部を再現して現在見る事が出来ます。
「下野薬師寺歴史館」見学後見に行きます。
回廊とは・・・中庭や建物を囲む屋根のある廊下(いただいたパンフより
下野薬師寺戒壇院(しもつけやくしじ かいだんいん)
☆重要☆
お坊さんは税金を納めなくて良いため、勝手に僧になる人が増えてしまった。そこで正式な試験を受けて合格した者しかお坊さんになれないようにした。正式なお坊さんになるため資格試験を受ける場所を“戒壇”と言った。日本に三ヶ所しかなかった。
①東大寺(奈良県)
②筑紫観世音(福岡県)
③下野薬師寺(栃木県)
これらを「天下の三戒壇」と言った。
(いただいたパンフより)
下毛野朝臣古麻呂の呼び名は多々あるそうです。(しもつけの の こまろ)(しもつけぬの あそん こまろ)等
栃木県は「下毛野国(しもつけぬのくに)」或いは「下野国(しもつけのくに)」とよばれていました。
西暦713年(和銅6年)全国の国の名前を漢字二文字に統一されました。その時に毛が消えて下野国になったそうです。
(いただいたパンフより).
変わった土器の展示がありました。油をいれていた壺だそうです。
(手塚治のマンガで見た様な気がする)
「組手(くみて)」
たくさんの木を組み合わせ力を分散させて瓦の重みに柱が負けないようになっている。回廊の一部を再現、組み立て説明用模型
「下野薬師寺歴史館」受付と説明してくださった。学芸員Sさん(仮名)
「下野薬師寺歴史館」近くには「干瓢(かんぴょう)」夕顔(ゆうがお)畑が広がっています。「下野薬師寺歴史館」より歩いて数分北東に「下野薬師寺跡」があります。
現在、下野薬師寺跡の大部分は民家と安国寺(薬師寺)です。
西側と東側に当時をしのばせる跡があります。
「下野薬師寺跡」の西側の土塀
土塀の上はウバメガシの垣根が続いています。
土塀の西側は畑です。遠く自治医大の建物が見えました。
復元したこの部分の回廊に使用された“瓦”は6681枚です。
(中略)
「下野薬師寺」がどのように出来たかを、ド素人のしんちゃんが一朝一夕に、そう簡単に理解出来る訳ではないけれど、それなりに整理理解した“つもり”です。
まだまだ・解明されていない、“なぞ”も多いそうです。
皆さんの参考になれば幸いです。
しかしながら、下野薬師寺は、9世紀中頃に大火災に見舞われ、伽藍の中心部が焼失してしまいました。また、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置き、それぞれが独自に戒を授けるようになりました。それに伴い、これまでの「三戒壇」の地位もゆらぎ、次第にその役目が失われていきました。その後、廃寺となりかけた下野薬師寺を、鎌倉時代に慈猛上人が復興。
14世紀南北朝時代には、足利尊氏が、戦死者を弔うために、全国に安国寺の建立を発願し、そのとき、下野薬師寺が、安国寺と改称されたといわれています。しかしながら戦国動乱の時代、1570年11月に、下野薬師寺は、小田原北条氏と結城多賀谷氏との戦いの中で焼け落ちたと、『薬師寺縁起』が伝えています。その時、寺の貴重な記録も失われました。
これまでの発掘調査により、外郭施設(板塀)の規模が東西約250m南北約350m、瓦葺回廊の規模が東西約110m、南北約102mにも及ぶことが判明しています。従来の調査では、回廊の中心部に金堂が存在すると考えられていましたが、最近の調査で創建当初の塔であることが判明しました。また、回廊の東にある塔は、創建の塔が焼失しために、この場所に9世紀代に再建されたものであることが明らかになっています。この他、回廊内には、規模の異なる基壇建物が存在することが明らかになりました。これにより、下野薬師寺の伽藍配置が一塔三堂形式である可能性も考えられます。
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