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【今を生きる、自身の力を取り戻す オンライントーク&いのりのセッション 〜羽黒山伏・星野先達と7人の山伏〜】より
毎日つらい気持ちで不安で落ち着かない、希望が見えない、身動きが取れなくて苦しい時。
そんな時、皆さんはどう過ごしますか?
森林で深呼吸したり、海や川で泳いだいりすると、気持ちがよくなったり、気分がすっきりしたことはありませんか?
人の傲慢さに嫌気を感じたり、経済や政治的なものに疲れ切ったりすると、ふと「緑のたくさんある場所に行きたい!」と思ったりしませんか?
自然と接することで、ガチガチだった頭がすっきり、カチカチだった体が緩んで、楽になれる。自然は私達を本当の意味で元気にする、本来の自分に戻してくれる力がある。
そして、もしそんな自然の力をよく知っていて、自然と一体化する技を持っている、そんなスペシャリストがいたとしたら・・・。
現代というこの時代に、「山伏」と聞いてピンとくる人はそんなにいないでしょう。
「山伏」と聞いて頭に浮かぶのは、せいぜい山の中を修行服で歩いている姿くらいでしょうか。
そんな山伏は、そのイメージ通り、山に身を置き、祈り、木々や雨や鳥や獣、あらゆる自然と共に古来より生きてきました。そして、現代という今の今まで・・・。1000年以上も昔から、先人達の智恵を引き継いで。
自然から学ぶことを脈々と受け継いできた人達。
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho693.htm 【著者名:戸川安章著『出羽三山と修験道』戸川安章著作集Ⅰ】 戸川安章著『修験道と民俗宗教』戸川安章著作集Ⅱ
評 者:中山 郁掲載誌: 「宗教研究」349(2006.9) より
「研究者の書いたものは合っていますが違います」。今から十五年前、初めて羽黒山秋の峰入り修行に参加した際に、大先達から言われた言葉である。以後、こ の判じ物のような言葉の意味を探りつつ峰中を重ねているが、未だに自身が得心し、また人に説明できるような答えを見いだせないでいる。周知のように羽黒山 の秋の峰入り修行は、山中における死と再生のストーリーのもと、非常にシンボリックな儀礼が重層的に重なり合っている。これらの儀礼が持つ人間を再生に導 くプロセスについては、これまで幾多の諸先学によって、その秘密が明らかにされ、多くの論文や著作が刊行されてきている。しかし、こと儀礼に関する分析で はなく、「身体を通じて心に働きかける」修行という、すこぶる身体的かつ経験的な世界を研究対象とするならば、外部から入った研究者がどこまでその深みと 滋味を理解し、かつ学問的に表現できるかは難しいところであろう。修行が身体を通じて心に働きかけるものであり、その心の変化による新たな世界認識の獲得 と自己の変容を本義とする以上、大事なのは行の中に観られるシンボリズムではなく、その中で変化していく個々人の心のありようということになる。そして、 それは必ずしも一回の行で完結するものではありえない。むしろ、幾度もの峰入りの積み重ねの中で少しずつ形成され、変化してゆくのが当然のものであり、そ うした積み重ねを身体化していくことによってしかその世界を語ることは出来ないであろう。つまり、修行の実施者側からすれば、体験に根ざさぬ研究はどこか 画竜点睛を欠くし、心身の感覚から切り放された象徴儀礼の分析は意味をもたないということなのかもしれない。
研究者として必要な客観性と修行者としての主観性を兼ね備えることは非常に難しいことであるが、もし、修験という極めて体験主義的な人々の研究 を、腰をすえておこなおうとするのであれば、この両者を兼ね備えることが理想である。つまり、盲目的な身体体験だけではなく、むしろ学問的知識を修行と生 活の中で肉化させることが、表現者には求められるのである。戸川安章氏とは、そうした稀有の研究者のひとりであるといえよう。
周知のように氏は明治三十九年(一九〇六)、仏教側の羽黒修験の中興者となる島津伝道師の子として誕生し、長じて羽黒派の法燈を受け継ぎ、羽 黒山正善院住職や秋の峰入り大先達を務められるとともに、早くから柳田国男の知遇を受け、その影響下のもとに羽黒修験をはじめとする東北の修験霊山や山形 県、庄内地方の民俗研究を精力的に行ない、昭和四十八年(一九七三)に刊行された『出羽三山修験道の研究』や翌年刊行の『出羽三山のミイラ仏』などの代表 作を世に問い、また『羽黒町史』をはじめとする庄内各町の町史編纂にも当たられるなど、東北地方の民俗学を代表する研究者であり、とりわけ羽黒修験や東北 の修験道に関する、氏の深い学識と体験に根差した研究は、他の追随を許さないものである。その氏の著作集として平成十七年、『出羽三山と修験道』『修験道 と民俗宗教』の二冊が刊行されたことは、宗教民俗学、とくに修験道や山岳信仰の研究を志ざす研究者達にとって大きな喜びであろう。同著作集は氏にとって平 成五年刊行の『出羽修験の修行と生活』以来の著作となるが、そこに収録されている論文や著述は昭和七年(一九三二)から平成六年(一九九四)に掛けてのも のであり、改めて氏が閲してきた学問的時間の長さに打たれずには居られない。
評者は山岳宗教の研究を志してはいるものの、その主たる研究対象はシャーマニズムを基盤にした近世末から近代に掛けての大衆登山講であることか ら、必ずしも東北の修験道や民俗について詳しくはない。また、山岳宗教に興味を持つものとして羽黒修験の秋の峰入り修行には幾度か参加させては頂いている ものの、道場の隅で勤行する一参加者と、著者のように大先達を勤められた方とでは、当然ながら修験と行についての認識も違ってくる。つまり、学問的にも羽 黒修験の中においても氏の著作について評を加えるには役不足といえるのである。そこで本稿においては、単なる書評というよりも、本著作集を通じて戸川氏の 学問について考えるというスタンスを取ってみたい。具体的には、先ず本著作集の内容と、その中に見られる主要な議論について述べた後、次にそこから窺うこ とのできる戸川氏の学問的特色について検討し、最後に本著作集などに示される著者の研究業績を踏まえたうえで、今後の修験研究、とくに出羽三山の研究をい かに展開するべきかについて考えてみたい。
本著作集は以下の内容から構成されている。
『出羽三山と修験道』戸川安章著作集Ⅰ
序
*
東北地方における山岳信仰の歴史的概観
修験道と民俗
出羽三山の修験道
出羽三山修験道と民間信仰
出羽三山信仰にみる浄土観
出羽三山と信仰の道
出羽の修験道
河辺郡船岡村五十嵐孫之丞の三山参拝記
羽黒修験と天台宗-一山組織と峰中法流をめぐって-
一山寺院の本坊としての宝前院の機構
清僧衆徒・妻帯衆徒及び里山伏の位階昇進図
羽黒山における念仏行の流行
羽黒山の入峰修行と「三関三渡」
羽黒山の霞と霞争い
羽黒山の花祭りと祭文
羽黒山の語りもの-お竹大日絵解きを中心に- 羽黒修験と春の峰入り
羽黒山の歳夜祭り
出羽三山の宗教遺跡の発掘
*
鳥海山と修験道
羽前金峰山の修験道
金峰山及び羽黒山の修験と摩耶山
出羽庄内地方と修験道
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修験道羽黒派語彙略解
*
付1 出羽三山霞場と檀那場一覧
付2 山形県下の主な修験関係地名表
付3 出羽三山史年表(稿)
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初出一覧
『修験道と民俗宗教』戸川安章著作集Ⅱ
修験道と民俗
修験道における修道実践と民俗
修験道における死と再生の儀礼
出羽三山の修験者と修行道
里山伏と羽黒山-福島県相馬の日光院を例に-
修験道と牛玉宝印
山岳信仰と山伏修行
わが山伏修行のひとこま
羽黒山伏の用具
修験道と法螺貝
修験者の食べたもの
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山と海の禁忌
山に祈る
神と社と日本人
生活文化と信仰
寺と地域社会
漁民信仰と寺-海上他界観を中心に-
二重檀家と二重氏子
伝光明海行人の入定塚所見
光明海上人の即身仏に対する宗教民俗学的アプローチ
月山山頂出土の一字一石経
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羽黒山麓における農耕儀礼と穀霊信仰
湯殿山と蚕神信仰と大淀大明神と
お山まいりと精進-置賜地方の行屋と庄内地方の長床-
農村文化と民俗学-衣生活を中心に-
安丹神楽考
庄内地方のシシ踊り雑観
山形県庄内地方のナンジャモンジャの樹
芭蕉と羽黒山
*
柳田先生とわたくし
*
初出一覧
本著作集は二冊とも章立てはなされていないものの、『出羽三山と修験道』においては出羽三山と羽黒修験の信仰や一山体制の形成について歴史的、 または民俗的に捉えた論考と、鳥海山や金峰山、摩耶山など出羽における他修験一山組織が扱われるなど、羽黒山を中心とした出羽国の修験霊山の概要を?むこ とが出来る構成となっている。これに対し第二集は、やはり羽黒修験を中心としながらも、民俗、とくに庄内農村のそれについて論じたものが多く、その内容 も、修験者も関与する農耕儀礼や民俗行事、法螺貝などの修験の法具や食生活、寺と地域社会、漁民信仰、檀家と氏子の問題、さらには民俗芸能や芭蕉の羽黒山 滞在など多岐にわたる問題が取り上げられ、修験を中心とはしながらも、むしろそれを農村の民俗信仰とのかかわりの中で捉えようとする構成が取られている。 また、これらの各論文のところどころに、当該世界に生きた当事者としての著者の実感や生活経験が、より多くちりばめられているのが特徴的である。
以上のように、本著作集においては非常に多岐にわたるテーマが扱われているが、次に、その中で重要と思われる議論を紹介してみたい。
先ず、第一に、本著作集のとくに第一集においては、羽黒修験をも含みこんだ、東北の修験道とその信仰の特質に対する考察がなされている。これ は、「東北地方、特に羽黒修験の教義・教相にみられる苦行性」という、東北の修験道、ひいては羽黒修験の原点を探る営みであるといえる。とくに、「東北地 方における山岳信仰の歴史的概観」「修験道と民俗」の二論考においては、東北地方の自然風土と縄文以来の文化を背景とした東北の修験の「修行性」の激しさ や信仰のありかたのルーツについて考察し、これを古代人の山に対して抱いた、山の怪異に対する恐怖心や怖れという感情が基底となり、「東北地方に修験道が ゆきわたり、しかも、修行のきびしさ、苦行のはげしさが、今もなお他に隔絶するものがあるのは、山の怪異と夷狄の叛乱とを結びつけて怖れた、東北的伝統の 中からうまれたものだからであろう、」とするとともに、東北地方の仏教文化と修験を性格付けた存在として徳一の重要性が指摘されている。
次に本著作集においては庄内農村における農耕信仰と出羽三山、そして修験の関与が明らかにされている。その特色としては、先ず、田の神山の神交 替説に従った出羽三山と山麓農村の農耕儀礼のあり方を描出することにある。氏は里の農耕儀礼と山岳との関係について「山の神は春には山を下って田におり、 田の神となる。さきに紹介した春山の行人は、この田の神を迎えに山へ行ったのである。ここに山の神と田の神と祖霊の、三位一体観が成立する。山は、山の神 となった祖霊の鎮まるところであるから、人間世界とは別の世界、すなわち他界であるという山中他界観となり、」としているが、これ自体は目新しい議論では ない。氏の農耕信仰に関する議論で特徴的なのは、祖霊、つまり山の神という神観念の存在が、そこに極楽浄土を想定し、阿弥陀如来を本地仏と仰ぐ月山信仰や 擬死再生という修験道儀礼を発達させたとしているように、民俗学における祖霊=田の神・山の神観念を、出羽三山の修験道との関連で説くことにあり、具体的 には羽黒山の峰入りなど、一山の行事相互の関連の中で考察しようとしているところに特色がある。例えば本著作集においては山麓の民俗行事である春山のひあ がりの神迎えと一山の行事である月山戸開けの神事やお田植え祭りが、もともと一連のものであったことや、さらに夏の七月十三日に夏一が山で焚く採燈と山麓 農村の盆行事との関連の指摘など、一山と山麓農村を舞台とした農耕信仰と祖霊信仰が重層的に織りなす出羽三山の信仰サイクルを描き出していることは、修験 を個々の修行や儀礼だけではなく、より大きな枠組みで捉えようとしたものであるといえよう。また、「羽黒山麓における農耕儀礼と穀霊信仰」においては「こ うして羽黒山の祭礼や峰入りの行をみてきた結果、気がついたことは、これら一連の宗教的諸行事が、穀霊、とくに稲魂を守りそだて、大歳の神とめあわせ・み ごもらせたうえで、それをタネ籾に感染させ、苗代にまくための呪術行為であり、一、二の重複・反復はあるにしても、まずは整然と体系的に組織されていると いう点である。整然と体系づけられているということは、羽黒山における修験教団の発展とともに、その関与によって、民俗行事が教団行事の中に組み込まれた ためで、」本来素朴な神ごとが、下級の農民意識を持った平門前など、農民から修験化した人々によって形成され、伝えられていったと論じられている。このこ とは、農耕信仰と修験一山や修行のあり方を考える上で重要な指摘であるし、あるいは近年議論されている中世末から近世にかけての一山体制の人的変容とも関 わってくる部分であろう。
また、本著作集においては、中世から近世にかけての羽黒山における一山体制の変遷と幕府や本山派・当山派との関係が描き出されている。中世から 近世初期の羽黒山は「真言・天台・禅・念仏・妻帯修験・行派修験(行人)・太夫(神職)・巫女」などが寄り集まった多様性をもった山であった。それが江戸 時代初期に天宥の主導によって一山挙げて天台に帰入するのは彼の独走によるものではなく、一山全体の意思であったことが明らかにされている。そして、それ は幕府の政策による本山・当山の教派修験成立とそれとの軋轢が、中世的な八宗兼学の山から近世的な天台の山への組織上の転換を促したと論じられている。幕 政と修験の教派化についてはこれまでも触れられてきたが、教派修験の成立が一山体制の近世的な変化と、氏が言うところの「教団」化をもたらしたという指摘 は、修験道史上の大きなターニングポイントをさし示したものといえるであろう。
次に、本著作集のもうひとつの魅力は、各論考のそこここにちりばめられている、氏の行者としての体験や、山麓修験としての生活体験にあろう。こ うした自身の山麓修験としての生活や行の体験の積極的な提示は、氏の学問の発端とも関係すると考えられる。戸川氏は柳田国男氏や岸本英夫氏との出会いを通 じて民俗学の道を志すものの、当初は「資料提供者」という気持ちでいたという。それが「柳田・石津両先生から「資料の提供者は、同時に研究者・解説者でな ければならない」といわれたことに触発されて、だんだんものを書くようになった」と述べている。しかし、これは必ずしも氏が研究の方にのみ重点を移したこ とを意味しないであろう。むしろ、氏の学問の真骨頂は自身がお持ちになる、修験としての豊穣な教学や密教の事相・教相などの知識と資料を、学問的にクリ ティックした上で提示するという点にあると考えられる。それと同時に、看過してはならないのは、氏がそうした資料的現実を生きて来たという点にある。ここ で言う「資料的現実」とは、聊か変な造語であるが、つまりは研究者の研究対象となる民俗的世界そのものを生き、それを提示しているという意味である。氏が 研究対象とし、かつ、資料として提示するのは主に羽黒修験の、それも大先達としての修行という、修験としての教えと行の伝統であり、同時に、近世末期の遺 風を残した農村と修験の生活世界でもある。
まず重要なのは、氏は羽黒修験の中興者であり、『羽黒派修験道提要』の著者でもある島津伝道氏の子息として、十一歳から秋の峰入りに参加し、の ちに正善院の住職として羽黒修験の大先達を勤めるなど、羽黒修験の法燈を受け継ぐ立場にあったということである。このことは氏の羽黒修験についての研究、 とくに羽黒修験の歴史的な展開や四季の峰の儀礼分析、さらには農耕信仰と修験の相関についての研究の骨格をなしていると考えられる。しかし、それは単に僧 侶として、さらには大先達としての学識によるのみではない。例えば「羽黒山の入峰修行と「三関三渡」」の中で、羽黒修験の三関三渡について当山派との相違 を検討したうえで、その違いを行の裏付けのもとに説くというありかたは、氏の学問が、修験としての行に裏付けられたものであるとともに、羽黒修験の伝統を 提示し、かつ、守るという性格があったことを示していよう。その意味で、氏の修験研究は、まず、近世以来の羽黒派の修験としての教説を色濃く反映したもの といえる。また、本著作集には「わが山伏修行のひとこま」をはじめとして、折に触れて氏の山伏修行当時の体験が語られているほか、峰中における大懺悔の行 の簡略化や、女性行者の受け入れなど、近代における峰中修行の様子やその変遷を知ることが出来るのは、とくに峰中修行経験者にとっては非常に興味深いこと であろう。著者は近世以来の羽黒修験の法燈を継いでいるだけではなく、それゆえに近代における行の変遷の当事者でもあったのである。
次に、氏は羽黒派の教えの伝承者であるとともに、一山の中における修験としての生活体験者でもあるといえる。例えば、春のひあがりになぜさかむ かえに行かないかと父君に聞いたとき、「昔から寺方と恩分山伏はそれに加わらなかったのだということであった。」という父君のことばからは、氏が近世にお ける一山体制の残り香の中で成長してきたことが窺える。氏にとって寺方、恩分、平門前という山内の身分秩序は単に研究対象としてではなく、まさしくそのな かで生活するべき規範であったのである。
氏が育った当時の羽黒山は、明治の神仏分離と廃仏毀釈によって大きな変化を蒙ったものの、いまだ近世の羽黒修験の色彩を色濃く残し、その教えや 江戸期以来の生活を知るものが無数に存在していた。氏の初山の供をした勝木三左衛門や戦前八十余歳で亡くなった原田万五郎老人、羽黒山最後の別当であった 官田の小姓から近習にのぼった妻帯修験の源正坊義和、「この寺にいる者は、お竹さまの縁起が語られねば、ならねえだ」と氏にお竹大日の絵解きを教えた清水 広田、蓮台わらじの心得と長持ちする履き方を教えた常光坊など、そうした江戸時代の生き残りの人々の息吹が本著作集を通じて顔を覗かせる。著者の修験とし て豊かな知識の裾野は、こうしたひとびとによって形成されていったと考えられる。そうした生活のなかにしみ込んだ修験としての日常が、庄内地方の民具や山 伏の法具、さらには食事についての深い共感に基づいた暖かい語り口に顕れているのではないだろうか。
ただし、氏はこうした庄内地方における農耕儀礼を常に静態的に捉えているのではない。春山のひあがりにしても牛王宝印の問題にしろ、さらには農 村における衣生活に関する論にしろ、むしろその変化-なにが変化していったか-について触れることを忘れない。ことに本著作集の中でもっとも注目されるの は、松例祭において焼き払われる大松明が現在のように「ツツガ虫」と呼ばれ、人々に災厄をもたらしたツツガ虫を象徴すると説明されるようになったのは明治 三十三年(一九〇〇)刊行の宮下正勝『三山略縁起』からであるということである。こうした自明とされている説明を批判的に検証することは、豊富な知識はも とより、その祭祀において何が本筋であるかを見抜く力を備えてなければ出来ないことである。
以上のように、資料提供者としての戸川安章氏は、柳田国男の民俗学的影響を濃厚に受けつつも、近世末までに形成された羽黒修験の行学的伝統と、 その修験の実生活や活動を受け継ぎ、現代に伝えるメディエーターとしての位置にあるといえよう。それでは、こうした氏のありかたは、修験道研究、ことに羽 黒修験の研究の中において、どのような位置にあるといえようか?
周知のように、氏の師僧かつ父君である島津伝道師は、昭和五年(一九三〇)に『羽黒山修験道要略』を、同十二年(一九三七)には『羽黒派修験道 提要』を刊行し、羽黒派の教えを世に問うとともに、その復興に尽瘁されたことは夙に知られている。この時期は廃仏による打撃から修験各派が立ち直りをはか り、入峰修行の復興や機関誌の創設をおこなうなど、盛んな活動を見せた時期であるとともに、日本における民俗学の草創と発展の時期とも重なり、修験が研究 対象として俎上に上がってくる時期と一致している。ゆえに、伝道師の著作にも示されている修験道の教義的、そして復興しつつある実践面に着目したのは民俗 学・宗教学者達であった。そうした流れの中で著者は柳田国男や岸本英夫らと出会い、資料提供者として、後には民俗学者として出発していくのである。このこ とは、単に戸川氏が学問的出発を遂げたという意味以上に、氏という窓口を持つことにより、仏教側の羽黒修験が、研究者に対して窓口を開いたということをも 意味しよう。以後、氏は『出羽三山修験道の研究』をはじめとする多くの著作や論文を発表し、羽黒修験の民俗学的研究を推進する他、岸本英夫をはじめとし、 五来重、堀一郎、宮家準、バイロン・エアハートなどの修験道研究者に学問的な影響を及ぼした。これらの研究者達により、十界修行など古来からの、極めて象 徴的な儀礼体系を残す存在として羽黒修験の名望が高まってゆくのである。さらに、こうした研究者による高い評価は多くのマスコミ、ジャーナリストの注目を 呼び起こし、内藤正敏氏、藤田庄市氏、片山正和氏などによる優れた取材を通じて多くの人々の注目を集め、現在では通年約百名前後の入峰者が荒沢寺に入るほ どの盛況をみせている。その意味で、氏の研究活動の歩みは、廃仏毀釈による打撃から修験が立ち直り、復興していく過程と、日本民俗学の勃興と、その中にお ける修験研究の活性化と揆を一にしている。そうして、その枠組みの中で仏教側の羽黒修験の復興と、その研究と価値の再認識に成功させたということが出来る のである。氏が研究対象としてきた鳥海山や金峰山といった東北霊山の多くが、廃仏毀釈の打撃から立ち直ることなく、その伝統や行法が廃滅していったのに対 し、戸川氏という優れた研究者にして資料提供者を得た羽黒修験は、誠に幸運であったといわねばならない。しかし、それだけに今後は著者の研究が及ぼした学 問的・社会的影響や、羽黒修験の伝統に関する言説それ自体が検討される必要も出てこよう。
以上、本著作集の内容を紹介するとともに、その中から伺われる著者の学問的性格について若干の考察を試み、民俗学の研究者としての側面と、修験 と民俗の世界を生きて来た資料提供者としてのふたつの要素があいまって氏の学問を形成していることが認識された。本著作集も含めて、著者の研究は今後も羽 黒修験を研究する上で、必ず押さえなければならない研究であり続けようが、同時に、基礎的な研究は、そこからさらに進展させることでより生かされていく筈 であり、このことが今後の宗教学・民俗学・人類学側からの研究者に問われてゆく部分であろう。そこで、最後に、修験研究の立場から、本著作集を通じて浮か び上がってきた今後のテーマについて述べてみたい。
先ず、本著作集では、先に挙げたように中世から近世の間における羽黒一山の機構変遷が述べられている。真言や天台はもとより、念仏や禅、行人や 社家、そして巫女などがひろく包摂された中世的な一山が、近世に至り天台化したことについて、本・当両派との関係はもとより、江戸幕府の宗教政策を含めた 上で考察するべきとの著者の指摘は誠に当を得たものといえよう。しかし、近世期は本山派・当山派などの教派修験はもとより、吉田家や白川家のような神道 や、さらに土御門家のようなグループが、徳川体制の中で集団としての枠組みを整えていった時期でもある。現在までの修験道研究においては、教派修験の組織 化と幕府、藩庁との関連について議論される傾向が強いが、むしろ、幕藩体制下における教派修験の存在は、こうした近世期における宗教再編の大きな流れの中 で捉えるべきであろう。そのうえでこそ、天宥が行なったような一山の再編の意義が明らかになってくるはずである。つまり、中世的な一山体制が、いかに近世 化していくのか、そして、その中で自身の機構を整え、または他修験と差異化を図ってゆくかが問われなければならないであろう。著者は近世の一山をしばしば 「教団」と表記している。ひとつの「宗」ではなくメソッドとしての「道」のより集まりであった修験一山が、どのようなかたちで「宗」的な存在としての道程 を踏み出したか。これは近代以降の宗教教団化とも関連する問題であろう。
次に、近世の一山体制下における社家の問題である。本著作集ではところどころで修験一山の中における社家や巫女の存在に言及されているが、湯立 てや神幸への供奉そして地位の低さについては触れられているものの、その活動の実態については余り明らかにされていない。また、「鳥海山と修験道」で触れ られている、蕨岡や吹浦の寺家と社家の出入りとその?末は、近世神道の研究者達には大変興味深いものと思われるが、曾太夫や丹治などの社家は、具体的にど のような思想のもとに別当に対し異議の申し立てをしていたのであろうか。ただ一山内における地位の低さというだけでは説得力に欠けよう。一般に修験の山に おける社家の役割については、修験道研究はもとより、神道史や神社史においても研究が遅れているジャンルである。しかし、もし戸川氏がいうように「なおも 彼らが神前に奉仕し、神楽を勤め、神託を仰ぎ、神事に供奉したのは、仏僧優位の中にあっても、神を祭るには彼らを必要とするものがあったからであろう。」 とするならば、それは何であったのかという問いかけがなされなければなるまい。そのことは、同時に修験という、神仏習合的な信仰を建前とした集団の中にお ける神と仏のあり方を解く鍵の一つになるかもしれない。
三番目は、近代以降の羽黒山の問題である。近代の神仏分離と廃仏毀釈により、羽黒山の一山体制は壊滅的な打撃を受けた。先にも触れたように著者 は羽黒修験の法流を受け継ぐとともに、近世における一山の生活を知る人々からの記憶を受け継ぎ、それを研究者達に提供している。その意味において氏は断絶 した近世と近代をつなぐ研究者であり、かつ修験であるという立場に立つ。しかし、氏の研究からは、近世の遺風を残した農耕信仰や、近世から近代に掛けて生 き残ってきた、いわば「ブツ」(仏教側の羽黒修験を指す神道側の用語)の姿はみえてきても、神仏分離と廃仏毀釈によって神道に「引きなおし」された近代の 羽黒山の動向はあまり重視されていない。しかし、羽黒修験は確かに神仏分離において大いなる断絶の危機を迎えたものの、他の多くの霊山のように一山の修行 と組織が廃滅したのではない。神道と仏教とに分離し、修験の法燈が多くの行者達の血のにじむような努力の中で今日の羽黒山修験本宗に受け継がれた一方、後 藤赳司や宮家準が指摘するように、むしろ羽黒一山の体制は羽黒山寂光寺から神道に「ひきなおし」された、出羽三山神社に引き継がれて存続している。これら の修験集団は、「祝」と名称を変えながらも、登拝者の宿泊や祈?、配札など、近代以降も近世的な色彩を色濃く残しつつ活動を続けるとともに、中には三山大 愛教会のようにシャーマニックな世界とも関わる活動を見せるところもある。さらにいえば、一山の巫女は廃絶したものの、出羽三山は現在も東北地方のシャー マンにとって極めて重要な行場であり続けているのである。その一方、出羽三山神社や手向の人々は、女性による入峰修行である「神子修行」を創設したり、 「体験修行」や芸能の祭典である「山楽祭」を地域や企業と組みながらおこなうなど、活発な活動をも見せているのである。こうした近代から現代にかけての変 容は、「ブツ」も無縁ではない。ここ十年間の間に羽黒山の秋峰入りに参加、または調査した方は、自身の知る峰中と著者が語る峰中の違いに気が付くかもしれ ない。峰中のことは「他言は堅く禁制でござる」とされる世界でもあるので喋々するのは差しさわりがあろうが、例えば山ことばの使用については、やはり『出 羽三山と修験道』巻末付録の「修験道羽黒派語彙略解」に比べて用いられなくなった言葉は多いし、さらには十数年入峰を重ねている行者でも、本著作集を読ん で初めて知る、戦前の峰中行事やしきたりも多いであろう。女性の入峰にしても、かつて島津伝道師が法華経の龍女成仏を根拠として女性の入峰を認めたのに対 し、法華経の変成男子の説に真剣に悩む女性行者が入峰するのが現在である。確かに峰中における十界修行やさまざまな修行は真剣に行なわれているし、秋の峰 入り期間中の精神的な厳しさの本質は-特にマニュアルに慣れ過ぎた現代人にとって羽黒の修行は大変厳しいものとなろう-著者が大先達を勤めていたときと変 わるものではないにしろ、峰中の内容も、峰中に何かを求めてくる人々も、確かに変化しつつあるのである。現在までの修験道研究の傾向として、近代や現代の 問題はとかく等閑視されがちであるものの、むしろ宗教社会学や宗教人類学の側からは、この部分こそが魅力ある研究対象ともなろう。いずれにしても、近代の 羽黒一山と神仏二派の修験を、無条件に近世との連続性の中で考えることは極めて危険である。こうした研究をおこなう前提として、先ず、神仏分離と廃仏毀釈 によって何が断絶し、失われていったのかを改めて問いなおすとともに、その中で何が残り、変容していったのかを注意深く検討する必要があろう。
著者は神仏分離とその痛手をリアルに知る世代であるとともに、羽黒という聊か微妙な歴史的経緯がある地域に関係を持つということから、近代以降 の羽黒修験に関しては、触れにくかったのかもしれない。しかし、筆者が十五年間入峰者として見聞した限りでは、「シントウ」(出羽三山神社側を指す用語) と「ブツ」とが全体として抱き合ったわけではないものの、外部の研究者達が思うほど際立った対立をしているわけでもないし、「ブツ」の山伏の出生を「シン トウ」の山伏が拍手で見送るという光景が見られるようになって十数年が過ぎている。もうすぐ明治維新から百四十年を迎えようとしている。あらためて明治維 新と修験道、そして近代以降の羽黒山と羽黒修験についてそろそろ検討するべき時期に来ているように思われてならない。そして、それを行なうときに先ず参照 されるのは、やはり戸川氏の研究業績であることは間違いなかろう。
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