https://en.bloguru.com/tochigirekishi/posts/2018/2/ 【栃木県の歴史散歩】 より
坂東武者足利忠綱
足利氏といえば、すぐ南北朝の動乱に活躍し、室町幕府の基礎を築いた尊氏(源姓足利氏)を思い出すが下野とより密接に関係していた足利氏は、藤原秀郷の流れをくむ、いわゆる藤姓足利氏である。去る48年1月、佐野市石塚町の池沢正三氏所有の「足利忠綱宇治川先陣図」が県の重要文化財に指定された。これを機会に、いま一度、足利忠綱像に照明をあててみよう。
「是れ末代無雙の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂、一は其力百人に対するなり。二は其声十里に響くなり。三は其歯一寸なり」(吾妻鏡 養和元年閏二月廿五日条)
これは足利又太郎忠綱についての「吾妻鏡」(鎌倉幕府の公用日記) の記録である。これによると、忠綱の力は百人力で、声は40キロ四方にも響き、歯の長さは約3センチもあったという。この記事が事実であったかどうかは別として、勇猛な坂東武者であったことだけは想像できよう。
足利忠綱は下野押領使(地方の内乱や暴徒の鎮定、盗賦の逮捕にあたる)藤原秀郷十一代の孫である。秀郷は、平将門が乱を起すと、その鎮圧に功績があり、従四位下、下野・武蔵守に任ぜられ、鎮守府将軍を拝領した。その子孫は下野一帯の豪族的領主として発展し、鎌倉幕府の地頭御家人となって、頼朝政権の有力な基盤となった。
当時、中でも最も勢力があったのは宇都宮、那須、小山、足利の諸氏だった。この小山、足利氏が同族でありながら、「一国の両虎「として「権威を争う」ことになる。これはある意味で、武家社会の悲劇でもあった。
治承4年(1180)5月、源頼政は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を奉じて、平家打倒の兵をあげた。いわゆる源平合戦の開始である。平家方に属した足利忠綱の活躍は「平家物語」の巻四「橋合戦」にいきいきと描かれている。今それを引用しながら、戦況をながめてみよう。
舞台は宇治川。時は5月末。ちょうど梅雨の季節にはいり、宇治川はいつもに比べ大きく増水し、いつになく激しい流れとなって駆け下っている。
宇治平等院に陣取った頼政の源氏軍は、橋板をはずして懸命に防戦に努めた。渡るに術を失った平家軍は浅瀬を渡ろうと軍議をこらし、いたずらに時間を浪費していた。そこに進み出たのが、下野の住人足利又太郎忠綱であった。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にもみよ。われこそは下野の住人足利又太郎忠綱なり。三位入道殿(源頼政)の御方に我と思はん人々は寄り合へや。見参せん」と大音声を発し、敵陣めがけて切込んでいった。
あとに続くのは大胡、大室、深須、山上、那波太郎佐貫四郎太夫広綱、小野寺禅師太郎通綱、部屋子七郎有綱など総勢300余騎。平家方の軍勢は、足利忠綱の指揮により馬筏(いかだ)を組んで、激流の宇治川を渡りきり、敵陣に攻め入ったので、頼政軍はついに壊滅した。忠綱の初陣をかざる壮挙である。時に弱冠17歳の若武者であった。
治承4年、源頼朝は伊豆に平家打倒の兵をあげたが寿永2年(1183)には頼朝の伯父にあたる志田先生(せんじょう)義広が反頼朝の兵をあげ、2月には下野国に侵入してきた。ここで劇的な対立が起る。
同じ秀郷流に属し、一国の両虎として互いに権威を争っていた小山朝政は頼朝方に、足利忠綱は志田方に組し、野木宮で弓矢をまじえた。その結果、志田方が敗北して、足利忠綱は西海へと没落し、消息を断った。
ここに藤姓足利氏は滅亡し、源姓足利氏がとって替った。覇者となった小山朝政は戦功の賞として、建久3年(1192)9月源頼朝から常陸国村田下庄地頭職を与えられ、のち下野国守護職に任じた。
一方藤姓足利氏は、その直系を失ったが、成俊・有綱が跡を継ぎ、有綱の嫡子基綱が、佐野氏を称し、佐野庄の地頭として領主的発展の基礎を築いた。
蝦夷の住みかだった下野
古代の下野の歴史については、考古学や歴史学によって史実が明らかにされ、きわめて実証的に、また科学的に、古代の世界が描かれている。この間にあってさまざまに伝えられる口碑伝説は、虚と実を混じえながら、自由奔放に空想の彼方にまで羽ばたく。いまから十数年前、氏家町の郷土史家で、すでに故人となられた土屋喜四郎翁が、次のような話を語ってくれた。
古代の下野は、蝦夷のすみかだった。蝦夷はしだいに北方に追払われたが、平安時代のはじめ、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって蝦夷を征伐し、陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)にあった鎮守府を、さらに北進させて胆沢城(岩手県水沢市) に移した。
これは有名な史実だが、蝦夷征伐に際して田村麻呂は、これより蝦夷地との境である下野国で、蝦夷征伐の戦勝祈願をこめ、はるばる都から木波多神社をこの地に勧請し、 一つの神社を建てた。これがいま矢板市にある木幡神社だという。
ところでこの時、将軍は近くにある塩釜神社に一人の美しい娘がいるのを見て、ぜひもらい受けたいと思った。だが、あまりに身分が違うので、ひとまず娘を足利学校の創立者である小野篁に預け、養女として小野姓を名乗らせると同時に、諸芸を修得させてから都に迎え入れた。この人が、のちに六歌仙のうちに数えられた女流歌人の小野小町だという。
翁の話はさらに続く。小町がはじめて貴族の社交場に登場したとき、彼女の生れが卑しいことを聞いていた雲上人たちは、小町の歌の巧みさに驚いて、これは小町が古歌を盗んで、自作と偽っているのではないかと疑った。
その時、小町は紙の墨を洗い落して、いま書いたばかりの自作の歌であることを証明したという。これは草紙洗小町の伝説とよく似ている。
小町に関する伝説は数えきれないほどあるが、その多くは、小町が落ちぶれてさすらう悲話。下野にも下都賀郡岩舟町小野寺に小町塚や小町が身を投けたという身投げ淵がある。翁の話は、絶世の美女小町が野州人である、と主張する意想外の説話で、話がこの段に及んだとき、翁の語気が強まったように感じられた。
小野小町については、古今集の仮名序に、紀貫之が彼女の歌を「あはれなるようにて、つよからず。いはば、よきをうな(女)の、なやめるところあるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし」と評している。この才色ともに備わった小町の生没年代はわからない。
ただ、小町伝説は「通小町」や「卒都婆小町」などの謡曲をはじめ、浄瑠璃にも仕組まれて広く流布した。鎌倉時代にも御所で絵合(えあわせ・絵を出しあって優劣を競う遊び)が行われたとき、幕府の政所(まんどころ)別当大江広元が「小野小町一期盛衰事」を描いた絵を献じた、と吾妻鏡にある。
小町の実在性に関して、学者の説は「神に奉仕する職を伝えていた小野氏のコマチ、すなわち巫女」であり「歌物語を得意とした巫女が廻国して土着した」のだろうという。つまり、小町は特定人物を指す固有名詞ではなく、並日通名詞であるというのだが、下野の小町伝説も、この説に符合する点があるように思える。
古代の伝承は、これを事実の報告としてみると、滑稽で不合理に満ちていよう。しかし「草木のみなよくもの云うことあり(日本書紀)」と信じた古代人によって生み出されたさまざまな伝承は、人びとの素朴な心に刻みこまれ、今日まで語り継がれてきた。
下町の小町伝説が、いつの時代に生れたかは知らないが、ふるさとの伝説を語ってくれた古老の、温かいまなざしがいまも脳裏に焼きついている。
畿内の諸大寺に準ずる格式
下野薬師寺の瓦が律令時代当時の〝中央〟に当たる「畿内」にあった溝口廃寺(兵庫県)のものと同じ文様を持っているほか平城宮とも極めて類似していることを明らかにした。今回はさらに考察を進め、互いに遠く離れた寺の間になぜこのような関係が生まれたかを解き明かした。その結果、平城宮―下野薬師寺―溝口寺の順で瓦工が移動、あるいは瓦に文様をつける笵型が運ばれたと想像され、薬師寺そのものの建立に中央官人組織が強く働いていたことがうかがわれる。
型笵がどこで所有(管理)されているかは、同笵(同じ文様)現象を解明するに重要なことであるばかりでなく、特に瓦工集団の組織、性格を追究するための基本的問題である。所有関係については、Ⓐ瓦工集団が所有し、瓦工の移動によって笵も移動する。Ⓑ 一方の寺院が所有し、他の寺院に貸与する、Ⓒ中央の官の造瓦所(窯場)で所有し、寺院の造色にあたる造寺司に貸与する―の3点が一般的に論じられている。下野薬師寺と溝口廃寺の同笵関係については、どの関係にあてはまるか。
下野薬師寺と溝口廃寺の距離は直線にしても約750キロ。不幸にして、両寺とも造瓦所が明確となっていない。ところで両寺が造瓦所を共有し、瓦の運搬によって供給を受けたと仮定すれば、遠隔の2寺に極めて密接な関係を想定しなければならない。しかし、他の資料からもこのことを立証するのは困難であり、やはり別個の造瓦所の存在を想定するのが妥当であろう。そこで笵型の移動を想定しなければならない。
下野薬師寺(A)と溝口廃寺(B)の瓦の製造時期は、笵割れの大小により、下野薬師寺が先であることは前回に述べた。従って笵型の移動もA→Bの流れとなる。
さらに笵型の所有関係について、検討すると、まず文献的には当時、職人の規律を定めた「賦役令」、丁匠赴役条によれば、作具は自ら備えるとあるし、造瓦司関係の史料や観世音寺資財帳の記載には、瓦工の私的な所有物でなく、公的機関によって管理されたとする見解がみられる。
しかし、実際には時期によっても異なるだろうが例えば国分寺造営などにより、各地に瓦の大量生産が必要になった場合、瓦の文様や造瓦技術の上でも各地で格差がみられ、中央の管理が十分行き届いていない。だから、作具についても中央管理の面からだけでは解決できない点もある。いずれにしても歴史的には2通りの場合があったことを前提に含みながら、問題の同笵瓦について考えてみよう。
下野薬師寺の性格については、文献によってその創建時に関して諸説があるが、創建時の瓦に大和川原寺様式を伴うことに立脚すれば、天武朝(672-686)年間、あるいはそれに近い年代に求めることができる。
川原寺様式の瓦の全国的分布は、壬申の乱に功績のあった地域と一致する。当時の地方寺院は、律令体制の確立を目指す対地方政策の一環として次々に建立された。対東国支配を目的とした下野薬師寺も、九州、太宰府の観世音寺と東国の戒壇を保持、幾内の諸大寺に準ずる格式を与えられ歴史的な頂頭を迎える。
その薬師寺に「造司工」という官の組織が少なくとも天平5年(733)以前に設置されていたことが「正倉院文書」の中にうかがえる。造司工そのものが造瓦に直接関係したものではないにしても、造寺に関して京都・三条に住む「子首」という人が司工として派遣されている。
すでに79歳という高齢に達していることを考慮すれば、それ以前に子首が中央官人として中央組織の中に活躍していたことも考えられよう。下野薬師寺の造寺が中央との密接な関係があったこともうかがうことができ、薬師寺の官寺としての性格が推定される。
下野薬師寺202型式の瓦が、平城宮6682型式に極めて類似するものであり、それが彼の地で神亀末年(729)―天平末年(749)に求められていることを前回に述べたが、このことは下野薬師寺においても、それに近い年代に求め得ることを可能にするものであろう。
平城宮において、この瓦と製作年代が接近する他の瓦があり、それが6682型の瓦と同様な関係で下野薬師寺203三型式となって当地にもたらされている。これらのことは平城宮という中央の造瓦組織と下野薬師寺のそれが極めて密接な関係にあることを示すものであろう。
さらに薬師寺の瓦が平城宮との比較において、その造瓦時期は「正倉院文書」における下野薬師寺寺造司工の記載時期に近い。このことは両寺宮の密接な関係をさらに強く導き出せるものであり、下野薬師寺の造瓦における範型が、中央官人によってもたらされたものである可能性も強くする。
そして、下野薬師寺と播磨国溝口廃寺の瓦が別個の造瓦所で製作されたと考えるなら、下野薬師寺で使用後、笵型が再び750キロの道程を戻っていったものであろう。この移動にも中央官人が関係していたことを考えなければならない。
この地方の瓦の分布をみれば、202型式の瓦は下野薬師寺に限定され、そこには段状の顎の存在しかみられない。それに比べ、同じ時期に製作が開始されたと考えられる203型式の瓦は、宇都宮市の水道山瓦窯と同笵関係にあり、段顎と曲線顎の双方がみられ、出土する瓦の量も多い。またあとになって、近在の寺院の瓦にこの203型式の文様が実に多くの影響を与えている。
つまり、下野において202型式のが実に短命なのに対し、同じ瓦工集団によって製作されたであろう203型式の瓦は前者が去った後も、下野の地にとどまり、引き続き製作が続けられ、その優美な唐草の文様はやがて付近の諸寺(国分寺、同尼寺、上神主廃寺、多功廃寺、那須官衛、下総結城廃寺)の屋根を飾るのである。
国分寺以前に建立される寺院は畿内およびその周辺に多く、地方寺院、特に東国においては極めて限定された地域となる。しかも、このように遠距離に同笵瓦が発見されることは唯一の例であり、当時の地方寺院の造瓦組織の多くがそうであったと明言できる資料は少なく、実際の資料操作の面で今後に期する部分が多い。
下野薬師寺の瓦
大化改新以後、わが国は律令制の確立を目指し、全国統一の歩を急進して行くが、特定の地方にあって、その歴史的な過程を直接的にうかがえる資料は極めて少ない。ところが、下野薬師寺から出土する瓦の中から、律令制時における中央と下野の関係の側面を知る興味ある資料を発見した。
去る48年度に、それまで6回にわたった下野薬師寺跡の発堀調査の報告が県教委から公刊され、出土瓦の系譜も大和川原寺、平城宮などの畿内諸大寺の造技術に極めて接近していることが指摘された。その後奈良国立文化財研究所の知人から、播磨国溝口廃寺(兵庫県)の瓦の中に下野薬師寺と同笵の宇瓦(軒平瓦)があることを知らされた。
屋根の軒先を飾る鐙瓦、宇瓦は文様を彫り込んだ木版に粘土をたたき、瓦当面(文様面)を作成する。従って、同じ木版から製作される瓦は全く同じ文様を構成することになる。これらの瓦を同笵瓦と称している。この場合の比較には、かなり厳密な認識が必要とされ、他に使用される単なる「同系」「同様式」などの意味とは区別して考えなければならない。
問題の瓦は、下野薬師寺202型式と呼んだもので、外区(周囲)に珠文、内区(中央部)に中心飾りから左石に三転する唐草文を配している。しかし、極めて特徴的なことは、三転目(外側) の唐草は互いに文様が異なり、正確には均正(左右対称)を保持していない。さらに特異なことは、このことが同笵を認定する契機となったのであるが、瓦当面の左端部(三転目の主葉)に割れ傷をもっている。この傷は長期間使用するうちに何かの原因で木版に割れが生じた結果もたらされるもので、「笵割れ」は、その使用の経過によって、傷の深さを増して行く。従って笵割れの大小によって、その瓦の製作の時間差がわかる。下野薬師寺の中で最初は極めて小さい傷であり、気をつけてそれを確認しないと見逃すほどであるが、次第に傷は大きくなって行く。
溝口廃寺の瓦も、基本的には下野薬師寺と全く同じ文様を構成するが、全て笵割れの大きいものばかりである。つまり、両寺の瓦の製作時間の先後が明白となる。
また、双方の瓦の顎(文様面の下の部分)の造りは、下野薬師寺の瓦が全て段顎なのに対し溝口廃寺の場合はすべて曲線顎となり対照的である。
こうしてみると、瓦の顎の製作技法においても時間的変化が求められそうである。つまり、段顎から曲線顎への変化である。
この現象は下野薬師寺の他の瓦の中でも明確となるが、先述の両寺の瓦と文様構成が極めて類似する平城宮の瓦においても興味ある結果が得られる。
平城宮におけるこの種の瓦は「平城宮6682型式」と呼ばれる瓦で、基本的には先述の2寺の瓦と同様な文様を構成するが、全体の造りがやや大きく、文様も左右対称の均正唐草文となっている。
しかし、珠文の数や文様の深さをはじめ細部にわたって極めて類似したデータを得ることができる。平城宮の歴史的な性格、下野薬師寺との距離等を考慮するとき、両瓦のもつ、驚くべき共通性は研究者に何らかの興味を引かせないではおかない。
平城宮のこの種の瓦は、顎の製作法に段顎と曲線顎の二者があり、現在までの調査結果から、これ以前に製作される瓦は段顎で、この瓦を境に以後は曲線顎となるという。つまり、この6682型式の造瓦期に顎の製作技法の転換がみられるようであり、この点でも重要な意味をもつ瓦でもある。奈良国立文化財研究所では、この瓦の製作時期を神亀末年から天平末年(728-748)という年代観を与えている。
ここで同笵現象が発生する理論的な事例を考えてみよう。
① 一つの造瓦所(窯場)から複数の寺に供給された(笵不動)。②造瓦所の移動により、供給寺も変わる(笵移動)。③ 一方の寺が廃絶後、他の寺に再利用。①③の場合は瓦の運搬によってもたらされ距離的にも限定されるのが一般的であろう。時代は後になるが、愛知県の渥美半島や、四国から東大寺に瓦を供給する例はある。
②の場合は笵の移動であり、前二者の場合よりも距離的な移動は容易だ。しかし、この場合、笵そのものの単純移動か、氾と共に工人集団全体の移動かが問題となろう。つまり、笵を携えた人、集団の性格、さらに笵の所有関係などにも問題が派生する。
出土の瓦は百済様式
那須国造碑の研究から、那須地方の帰化人は新羅人だったように考えられているが、果たしてそれだけだったろうか―というのが、前回の問題提起だった。
那須官衛跡(小川町)のすぐ北隣にある浄法寺廃寺跡から7世紀末(白鳳期)の瓦が出土する。この瓦の模様は百済様式である。那須地方には、百済からの帰化人が住んでいたのではないか。
というのは―わが国の瓦造りの技術は、仏教伝来と同時に、帰化人がもたらしたものである。大和飛鳥寺の百済様式の瓦が、最も古いものとされている。
7世紀末といえば、地方に建立される寺は極めて少なかった。浄法寺跡から出土する瓦は、下野薬師寺の瓦とともに、関東地方で最も古い瓦である。
この時期、わが国の瓦の生産は極めて少なかった。半島3国(百済、新羅、高句麗)から渡来した少数の工人が、それぞれ違った模様の瓦造りの技術を伝え、それが地方に少しずつ広がり始めた時期である。
8世期中ごろ、各地の国分寺造営などが始まるころになると、瓦の需要は急増した。日本人が直接、瓦造りに参加し始める。この結果、半島3国の模様の違いはなくなり、日本的になってくる。
浄法寺の瓦は、大量生産が始まる以前のもの、ということになる。中央と非常に距離のある下野国で、これだけの瓦が造られた背景には、百済人の造瓦技術の介入が強く感じられる。
さらに渡辺竜瑞氏らの研究によれば、朝鮮でよくみられる鋳造の小仏像が、那須郡内から三体出土している。祖国で盛んだった仏教思想と共に、帰化人が運んできた渡来仏ではあるまいか。さらに渡辺氏は、渡来仏が出土した付近に、唐木田(唐来)、新久(新羅)などの地名が現存していることにも注目している。
以上のことからも、那須地方に帰化人の集団が住んでいたことは十分推定できる。
そこで、これらの帰化人政策を許容した歴史的な背景、つまり政治的側面についても考えてみる必要があろう。
東国の開拓は、7世紀中葉以降のわが国政治体制(律令制)の中で、特別な懸案だったことは先に述べた。したがってその中心となる帰化人の配置には、中央政府との間に、何らかの協議があっただろう。
異民族を配置する場合、言語、風俗、習慣の違いをめぐって、さまざまの問題が心配のタネとなる。
ところが碑文をみると、帰化人にとって那須は、〝安住住の地〟であり、国造を強く思慕していることがわかる。つまり、那須国の為政者は、帰化人が農業技術や文化の面で有益であることを、十分知っていたのではないだろうか。
そう考えてみると、小川町、馬頭町、湯津上村一帯の那珂川、箒川の沿岸に、4世紀末から特異な古墳文化が発達していたことを思い起こしてほしい。
古墳文化の中心、大和からは遠く離れた地域である那須八幡塚、駒形大塚、上下侍塚を中心とする前方後方墳の分布、馬頭町の特殊な横穴墳。これらは前方後円墳を中心とするわが国古墳文化とは、質的にも違ったものだ。
この地域には、早くから大陸文化、つまり、帰化人の文化が流入していたのではないか、と考えることはできないだろうか。
碑文にもあるように、韋堤の祖先、「広氏」は、荒田別命、豊城入彦命である。この氏族は、朝鮮半島との交渉に深く関係した一族。こうみてくると、渡来人が古くから那須を訪れていた、と考えるのは、不自然ではあるまい。
こうした文化的背景があったから、帰化人の配置の政策を、スムーズに受け入れることができたのではないだろうか。
国造碑文には為政者「韋堤」の温厚な治政をたたえて「一命之期連見再甦…」(一命の期ふたたび再甦を見る…)ときざまれている。
祖国は戦争にあけくれ苦しい毎日だった。ここへ渡ってきて生き返った思い、というのである。
那須地方の帰化人は、農業技術による東国開拓の任務を負わされていたが、寺院の建立、瓦造り、産金などの技術も伝えた。那須地方の学問、文化にも大きな足跡を残している。
那須国造碑―ここにきざまれた152文字は、遠いむかし、那須の地にくり広げられた開拓と豊かな文化の息吹きを今に伝えてくれる。
多くは新羅人原野切り開く
那須郡湯津上村にある「那須国造碑」は7世紀末ごろの那須地方の様子を知る第一級の資料である。碑文の解釈や碑そのものの信ぴょう性について、これまでさまざまの議論があった。
しかし、現在、碑造立の時期については疑問はなく、碑が那須国造を慕う帰化人によって造られた、という考え方も一般に認められている。
碑が建立されるからには、那須国造の統治国内に、多くの帰化人が住んでいたに違いない。古代東国の帰化人はどこから来たのか。那須地方の帰化人は―などについて、考えてみたい。
古代の日本で「帰化」という言葉は、どんな意味に使われていたのだろうか。
「日本書記」をみると「化帰」「来帰」「投化」「化来」などもみな同じ意味に使われていて「マウク」「マヰオモムク」などと読ませている。大宝令(701)、養老令(718)など古代法令の注釈や見解を集めた「令義解」(りょうのぎげ)、「令集解」(りょうのしゅうげ) をみると「欽化内帰」することであり、天皇の徳をしたって渡来してきた人々を「帰化人」と呼んでいる。
つまり、古代法では、わが国にやって来た外国人をすべて帰化人と呼んだわけではなく、日本国家の秩序―天皇の徳が国土を平らげていくという思想を受け入れた渡来人だけが、帰化人と呼ばれていたようである。
もっとも、こうした解釈が生まれてきたのは、税制などの上で国家的な色彩が強まってからで、それ以前の「古事記」の世界では、もっと素朴な解釈だった。「古事記」では「渡来」(わたってくる)という、極めて素朴な表現が使われている。
自分の意志でわが国に渡来してきた場合、奴婢(ぬひ=奴隷)でも、主人がいなければ居住の地を与え、暴風などで流れついたものでも、その意志があれば帰化人として戸籍に組み入れていたようである。
しかし、実際には、「日本書記」雄略天皇9年の吉備大海韓奴の場合のように、「みつぎもの」として送られて来た技術者や略奪で連れてこられた人々もあったようである。
「日本書記」などの文献では、天智天皇あたりから8世紀中ごろまでの間に、東国の帰化人に関する記載が急にふえてくる。たとえば、
「日本書記」
天智天皇5年(666)冬
東国に百済の男女2000余人
天武天皇13年(685)5月
武蔵国に百済の僧尼及び俗人男女23人
持統天皇元年(687)3月
常陸国に高句麗人56人、下野国に新羅人14人、同4月武蔵国に新羅の僧尼及び百姓男女22人
同3年(689)4月
下野国に新羅人
同4年(690)2月
武蔵国に新羅人12人
同8月、下野国に新羅人等
「続日本紀」元正天皇霊亀2年(716)5月
下野、常陸等東国七国の高麗人1799人を武蔵国に遷し、高麗郡を設置
聖武天皇天平5年(733)6月
武蔵国埼玉郡の新羅人53人に金姓を与う
淳仁天皇天平宝字2年(758)
新羅人僧尼及び男女を武蔵国の閑地に移し、新羅郡を設置、などである。余談になるが、武蔵国分寺跡、あるいは同瓦窯の調査では、高麗郡や新羅郡を表示する文字がわらが出土している。
このように長期にわたって帰化人が、東国に配置された日的は何だったのだろうか。
7世紀中葉は、国家統一の機運が高まっていたが、対外政策は行きづまっていた。このため、中央政府にとって未開な原野の多い東国の開拓と支配は大きな政治目的だった。そこで、高い農業技術をもつ帰化人を投入し、農業を中心とした東国の開拓を図った、と考えられる。
この点で、東国の帰化人は大和を中心にした帰化人とはかなり性格を異にしている。中央の帰化人は、厚遇され、政治、経済、学芸、技術の面で大きな任務を与えられていた。
一方、東国の場合、原野の開拓と農業技術を中心とした生産の拡大がおもな目的だった、
これらのことを頭に置いて、那須地の帰化人について考えてみよう。
「永昌元年」という碑文で始まる那須国造碑は、帰化人の手で造られたとみられることはすでに述べた。では、彼らは果たしてどこの国から渡来して来た人々なのだろうか。
文献によれば、大勢の新羅人が下野国に配置されていることがわかる。那須国は持統天皇元年(687)に下野国と合併されており、那須国造碑の造立者が、新羅人だった、という推理もできる。
しかし、こう考える場合、「永昌」という年号が新羅の年号ではなく、唐の年号である点がひっかかる。
当時の朝鮮半島はどういう政治情勢だったろうか。新羅が勢力を拡大し、唐と結んで百済を滅ばし(660)、高句麗も唐に併合された(668)。つまり、新羅と唐は当時、極めて密接な関係にあった。現存する当時の新羅の金石文には、しばしば唐の年号が使われている。
こう考えれば、新羅人が関係した那須国造碑の碑文に、唐の年号が使われているナゾも、いちおう解ける。しかし、文献には、東国に百済人を配置したとか、下野国などの高句麗人を武蔵国に移すとか「新羅人等」の表現も使われている。
那須地方に住んだ帰化人が、新羅人だけだったとは考えにくい点もある。
直韋堤(那須国造)の墓を探る
那須国造(くにのみやつこ) 「直韋提」(あたいいで)。直が姓、韋提が名。いま風にいえば「那須県知事」に当たるこの人物が死んだのは文武天皇4年(700)正月2日辰の時刻(午前8時ごろ)である。
「あ、そう」なんて簡単に思われては困るのである。1200年以上前の、地方の一豪族の名前から死亡時刻までわかっている、というのは実に珍しいのだから。
高松塚古墳の主をめぐる論議が盛んだが、主のはっきりしている古墳は、天皇陵を除けば、ほとんどないといってもいい。というのも、実在の人物の名前が伝わっていないためである。とくに地方では、古墳時代の文献は皆盤いに近い。
そういった現状の中で韋提の名が残っているのは「那須国造碑」と呼ばれる石碑が残っていたため。それは当時の住民が韋提の善政をたとえ、死をいたんで建てたもので、大学の考古学の授業には、最初に出てくる貴重な資料だ。
碑文からみて、韋提の生きていた時期は7世紀末とみる。この時期、大和飛鳥の地では伝来の仏教文化が開花、国家統一の機運がみなぎっていた。が、地方ではまだ盛んに古墳が造られていた。
本県も例外ではない。切り石を使った巨大な石室を持った古墳が多く、下都賀郡壬生町の車塚がその好例県内の古墳の9割以上が6世紀以降に築造されたといってもいい。
とすると、那須国(韋提在世中に下野国那須郡)の為政者、韋提も古墳に埋葬された可能性は極めて大きい。韋提の古墳はどれか?
それを考えてみよう、というのが本稿のねらいだ。
遺跡の分布状態からみて、那須国の中心は那珂川と箒川の合流点付近、現在の那須郡小川町、湯津上村付近といえる。この地域に点在する主な古墳の築造年代を検討してみると(裏付け経過は割愛)―。
6世紀末から7世紀にかけて造られたとみられる古墳は銭室塚(円墳、那須郡黒羽町)。以下いずれも前方後円墳の小舟戸1号墳、富士山古墳(以上湯津上村)、川崎古墳(馬頭町)、梅曽大塚墳(小川町)などである。
一方、各地の実例からみて、国造に関係の深い地域には、しばしば古墳群や寺の遺跡が残っている。そこで小川町にある7世紀末建立といわれる浄法寺廃寺と南隣の那須官衛(かんが=役所)跡が問題になる。後者は昭和42、3年に調査され、出土した古がわらなどから七世紀末以後のもの、と推定できる。
つまりこの地区が、7世紀末以降、那須郡の官庁街だったのである。従って韋提は、ここで政務をとっていた、と考えられよう。韋提の墓も、この付近にあった、と考えるのが妥当だろう。
地理的にも、時間的にも「直韋提」の墳墓とみられるのは―最右翼は官街跡の北東の近距離にある梅曽大塚古墳だろう。
もっとも、那珂川との合流点に近い等川右岸の台地にあった同古墳は、開田工事でくずされ、現在はみることができないが、工事に先立つ昭和39年、発堀調査が行われ、2つの横穴式石室が確認されている。
長さ約50m、周浬=みぞ=を持ったものだった(「小川町文化財要覧」より)
ちなみに百済(くだら)様式をとどめる浄法寺廃寺のかわらは、7世紀末という時期では、幾内はともかく、地方では非常に類例が少ない。しかし、この寺のことは、わが国の文献のどこにも発見できない。
同じころ、建立された下野薬師寺が、国立の寺として、「六国史」などの文献にしばしば登場するのと比べると、極めて異質だ。ともあれ、この古い寺の存在は、ユニークな古墳文化を築き上げた那須国勢力が、中央の仏教文化をすみやかに受け入れたことを示している。また、わが国の仏教文化の地方への普及を物語るものでもあろう。
韋提について語るとき、どうしても触れなければならないのは、江戸時代に、韋提の古墳を探そうとした人がいたことである。水戸藩主、徳川光圀(水戸黄門)がそれだ。
延宝4年(1676)。磐城の僧円順が彼の地を訪れ、多年草に埋もれていた古碑を見つけ、梅平村の大金重貞にそのことを話した。
重貞は馬頭村(当時は水戸藩)に視察にきた光圀にこの古碑について報告した。光圀は「昔の君長の墓碑であるから大事にしなければならない。その修理と保存の費用は藩が負担する」と命じた。同時に藩の学者佐々宗淳に古碑の詳細を調査させ、修理、保存をする一方、近くに古墳があるのを見て、碑文の正確な資料をつかむため、元禄5年(1692)上下車塚(侍塚)の発堀調査を行った。
しかし、鏡などの出土品はあったが、墓主を語る文字などは発見できなかったため、出土品を松板の箱に納め、再び元の位置に埋め戻した。わが国における最初の学術発掘であり、現在にまさる保護理念である。
光圀が発掘させた侍塚と梅曽大塚古墳は、だいぶ離れており、古碑のあった地点との位置関係が問題になる。が、この地区には「古碑を何度も移転させた」という伝説があり、こんごの解決が待たれる。
ともかく那須国造碑は、わが国金石文史上の優品であり、現在笠石神社の祭神として、手厚く保護され、年間の拝観者も多いという。
0コメント