https://09270927.at.webry.info/201612/article_4.html 【那須国造碑と侍塚古墳】
那須国造碑と侍塚古墳(1)
芦野から国道294号線を南下し、那須国造碑のある大田原市湯津上の笠石神社へ来た。
現地説明板より
『 国宝 那須国造碑 昭和27年11月22日指定
総高 148cm
石材 花崗岩
この碑は、西暦700年頃に、那須国造(なすのくにのみやつこ)であった那須直韋提(なすのあたいいで)の遺徳をたたえるため、その息子と思われる意斯麻呂(おしまろ)らによって建立された牌です。
文字の刻まれた碑の上に笠状の石を載せた特異な形をしていることから、この地域では「笠石さま」として親しまれています。
碑には、八行に各19文字ずつの計152字が刻まれており、その書体は中国の六朝時代の書風が感じられます。また、碑文冒頭には「永昌」といい唐の則天武后(そくてんぶこう)の時代に使用された年号が用いられているなど、その当時に大陸や半島から渡来してきた人々の影響が色濃く残されています。
この碑の保存には、江戸時代の水戸藩主、徳川光圀も関わっています。長い間倒れ埋もれていたこの碑を、磐城の僧(円順)が発見し、小口村梅平(現那珂川町)の名主、大金重貞に話し、それが徳川光圀へ伝えられました。
そして、この碑が貴重なものであることがわかったことから、元禄4年(1691)碑堂を建て碑を安置しました。これが、現在の笠石神社になっています。
なお、多賀城碑(宮城県)・多胡碑(群馬県)とともに日本三古碑として知られています。
大田原市教育委員会 』
現地説明板より
『 国宝 那須国造碑
この碑は笠石神社の御神体としてまつられ笠石さまと呼ばれる。笠をかぶった碑であるという意味である。
今から1300年(西暦700年)ばかり前の飛鳥時代に那須の郡長であった韋提という人のために那須の人々と新羅からの帰化人たちが韋提の没後その遺徳をたたえ、報恩感謝して建立したのである。
その後、約1000年たって、碑は草むらに倒れていたが、村人はおそれて近づく者がいなかった。この不思議なことが水戸光圀(黄門さま)の耳に入り、学者を集めて研究がすすめられ、はじめて碑の由来がわかった。
元禄4年(1691)約1ヘクタール(1町歩)を水戸領直轄の地として御堂をつくり、その中に安置して今日の笠石神社となった。
全文152字は六朝の代表金石文字として昭和27年国宝に指定された。
むかし日照りで雨がほしい時には笠石をおろして雨乞いをしたり、再建されてからは子供の虫切り祈願が盛んに行われるようになった。 』
本殿に向かう参道の右側に拝殿があった。笠石神社の御神体が那須国造碑であり、当然祭神は那須國造直韋提命である。
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拝殿の右に社務所があり、そこで縁起書などを頂き説明を受けた。拝観料を払って本殿内にある那須国造碑を見せてもらうことにしたが、撮影はできないというので写真を買った。
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もらった資料には、平成26年度の神奈川県高校入試問題のプリントがあり、問題に那須国造碑が使われたことをアピールするものであった。
頂いた縁起書より
『 笠石神社縁起
一、祭神 那須國造直韋提命
二、神体 右祭神の頌徳碑(8行19字詰、152字)全文左の如し。
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固
那須国造碑文(仮名交文)
永昌元年巳丑四月、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮那須国造、追大壱(ついだいいち)那須直韋提に、評(こおり)の督(かみ)を賜わる、歳庚子に次る(としかのえねにやどる)、年の正月二壬子(みづのえね)の日、辰節(たつのとき)に弥故(もつこ)す。
意斯麻呂等(いしまろら)碑を立て徳を銘すと称云(しかいう)。仰ぎ惟(おもんみ)れば殞公(えんこう)は広氏の尊胤(そんえん)にして、国家の棟梁(とうりょう)たり。一世の中重ねて弐照せられ一命の期(き)連(しきり)に再甦(さいそ)を見る。
骨を砕き髄を挑るとも、豈前恩に報ぜんや。
是を以て曽子の家には嬌子あること旡(な)く仲尼の門には罵る者あること旡(な)し。孝を行うの子は其の語を改めず、夏に銘す堯の心を、神(しん)を澄(すま)して照乾 す。
六月童子意うに香は坤(こん)を助(たす)く、徒を作(おこ)す之(こと)大なり。言(こと)を合せて字を喩(さと)す。故に翼無(つばさな)くして長く飛び、根旡(な)くして更に固る。
三、祭神の略歴
国造(後の郡長に当る)の官職にあって、名を韋提と云った。位階は追大壱(天武天皇の朝に定められた四十八階の中で、此の位は今日の正六位に当る)で姓(かばね)(家柄の尊卑をあらわすもので、直の姓は多く国造に賜った)は直(あたえ)であった。
大化の改新により、那須国が郡に改められたので、永昌元年(唐の則天武后の時の年号で、我が朝、持統天皇の三年に当る)四月、飛鳥浄御原大宮則ち持統天皇より那須郡長に任命された。
そうして葦提は文武天皇の四年(約一千三百年前)正月二日に死去された。依って子息の意斯麻呂が新羅の帰化人(此の碑文の作者)と協力して、此の墓碑を建てた。
韋提は豊城入彦尊の子孫で、博愛の心が深く、新羅の渡来人をいたわって芦野町唐木田村に土着させて、一生安楽に世を送らせた。
それで韋提の歿後、其の恩顧を受けた渡末人等が、此の頌徳碑を立てた。碑文の中には、大学者が研究しても解しかねる隠語の文句(銘夏より助坤まで)があり、又碑文の書体は専門家が見て中国の六朝、主として北魏時代の書風で非常に勝れたものだというから、学者で、かつ、能筆の人が文を書いたのである。
四、碑の発見
日本三古碑中(本碑と、上野国多胡碑、陸前国多賀城碑)一番古く、一番由緒の深い此の碑が、何時の頃よりか草むらの中に埋れて、世に知る人もなかった。
唯、里民は、碑の頭上に笠石があるので、此の石を降したり冠せたりして、雨乞をしたのに効験があったと云う。
然るに貞享四年、水戸黄門光圀が馬頭町梅が平の大金重貞から、該碑の話を聞かれ、保全の恩召を以て、元禄四年に御堂を建立し、現在の如く安置し奉ったものである。
明治四十四年早く国宝に指定され、昭和二十七年新国宝となった。
五、神徳
古くから子供の虫切には神徳甚だあらたかなので、遠方から参詣祈願するものが多い。これには其の子供の肌身につける衣類を持参(郵送してもよい)して神前にささげ 祈祷して貰って持ち帰り、其の子の肌につければ、如何なる強い虫でも、立ち所に全治するという不思議な神徳があるので、参拝者がある。 』
縁起書にあった、「韋提は豊城入彦尊の子孫で、博愛の心が深く、新羅の渡来人をいたわって芦野町唐木田村に土着させて、一生安楽に世を送らせた。」に注目した。
芦野は、ここへ来る前に「遊行柳」があるので寄った場所である。地図で見ると唐木田は芦野でも南に位置し伊王野に近い場所である。また、“豊城入彦”は今日の最後に寄る予定の「宇都宮 二荒山神社」の祭神である。
宮司さんに案内されて、本殿の御神体・那須国造碑を見た。
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那須国造碑は撮影禁止なので、買った写真を掲載する。
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近くに「なす風土記の丘 湯津上資料館」があったので、そこに寄ってから侍塚古墳の見学をすることにした。
入館料100円を払って入館した。那須国造碑のレプリカがあった。頂いたパンフレットに那須国造碑の写真が載っていたので、貧乏な旅人は先に「なす風土記の丘 湯津上資料館」に入館していれば笠石神社で写真を買う必要がなかったなと少し残念に思った。
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掲示より
『 国造碑の石材
那須国造碑に使われた石材は、硬質の花崗岩です。この花崗岩は、白・灰・淡黄・黒色の鉱物結晶がモザイク状に点在しています。こうした石材は、那珂川対岸の八溝山地で産出するものです。 』
笠石神社で那須国造碑を見たとき読みづらい箇所があったが、宮司さんは、「花崗岩は鉱物が一様ではないので、硬くないところは風化で読みづらくなってしまった。」と言っていた。
パンフレットより
『 古代那須国へようこそ 那須国造碑と侍塚古墳
栃木県大田原市湯津上には、日本三古碑のひとつに数えられる国宝「那須国造碑」と、日本一美しい古墳ともいわれる国指定史跡「侍塚古墳」を中心とする、古代那須の遺跡が残されています。
また、那須国造碑と侍塚古墳は、江戸時代、徳川光圀の命により、調査・保護されました。これは日本で初めての学術的な発掘調査といわれています。
日本考古学発祥の地
*那須国造碑の発見
延宝4年(1676)、磐城(現在の福島県)の僧円順が、湯津上村で、草むらに倒れている碑を見て、「この碑は普通の石碑ではなく、高貴な人の石碑かもしれない」と、那須郡武茂(むも)郷(現在の那珂川町馬頭)の庄屋大金重貞に伝えました。
重貞は湯津上村へ出向き、碑の存在を確認します。苔が一面をおおっていましたが、文字らしきものが彫られていることに気付きます。重貞は、息子の小右衛門、佐太郎とともに6度通い、苔を落として文字の判読に努めました。そして、著書『那須記』に「草壁皇子」の御廟碑として書き記します。
*徳川光圀と那須国造碑の出会い
天和3年(1683)、徳川光圀が武茂郷にやってきます。武茂郷は現在、栃木県那珂川町馬頭(旧馬頭町)ですが、近世には水戸領でした。光圀の武茂郷への巡村は、合計9回と考えられています。
天和3年の武茂郷巡村は、那須七騎の居館を上覧するためでした。那須七騎とは、徳川幕府成立に功のあった那須・芦野・伊王野・大田原・大関・福原・千本氏のことで、それらの旧居館を重貞宅に近い小口長峯からご覧になりました。
この時、重貞は那須七騎居館御上覧の案内をするとともに、光圀に『那須記』を献上します。光圀は『那須記』に記された古碑に驚きました。
*日本初の考古学的な発掘調査
『那須記』に記された古碑に深い関心を持った光圀は、古碑の主を解明するために、碑の周囲の発掘調査を行いました。時に貞享4年(1687)のことです。しかし、古碑の主の解明には至りませんでした。
そこで、近くにあった大墳墓、上・下侍塚古墳の発掘に入りました。発掘によって出土した遺物については絵図をとらせ、遺物保護のため原位置に埋め戻し、墳丘についても修復し、松を植え保護させました。
また、碑についても碑堂を建て、周囲を買い上げ、管理人の僧(別当)も配置しています。元禄5年(1692)のことです。
侍塚古墳の発掘と那須国造碑の保護
・延宝4年(1676) 4月 大金重貞、僧円順より湯津上村の古碑の話をきく。重貞、古碑を調べ自著『那須記』に記す。
・天和3年(1683) 6月 徳川光圀、那須七騎居館上発のため3回目の武茂郷巡村。重貞が案内し、『那須記』を献上する。光圀、『那須記』に記された古碑に注目する。
・貞享4 年(1687) 9月 光圀、佐々宗淳に碑主の解明を命じる。 光圀、4回目の武茂郷巡村。那須国造碑堂の建立を計画し、重貞を現地の責任者とする。
・元禄4年(1691) 3月 国造碑堂建立に着工。重貞、佐々宗淳の指示を受けながら、建立の指揮をとる。
・元禄5 年(1692
2月 上・下侍塚古墳の発掘。
3月 古墳からの出土品を松の箱に入れ、墳丘に埋納する。古墳の整備も行う。
4月 国造碑堂建立に関る事業が終了する。重貞、西山荘へ出向き、光圀へ事業完了の報告。
6月 光圀、武茂郷へ5回目の巡村。重貞の案内で、碑堂に参詣する。
那須国造碑の建立とその時代
*那須国造碑
建立の目的:那須国造・那須評督を務めた那須直韋提の遺徳を顕彰するため。
建立者 :意斯麻呂(那須直韋提の息子か?)たち
建立年代 :西暦700年(庚子/文武4年)頃
材質 :花崗岩
総高 :148cm(笠石含む)
※六朝風の書体を残す古碑として、書道史の観点から日本三古碑(那須国造碑・多胡碑・多賀城碑)の一つに数えられ、かつ三古碑中堆―の国宝です。
*国造とは
古代の地方官。ヤマト王権が各地の有力豪族を国造に任命し、地域支配を取り仕切らせました。
国造制|は、6世紀後半から7世紀後半まで、実質的な地方支配体制として機能したと考えられています。
現在の栃木県域には、那須国造と下毛野国造がいたことがわかっています。
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*那須国造碑が示す時代の転換
那須国造婢は、国造である那須直韋提が、永昌元年(持統3年/689)に評督(地方行政組織の長官。評は後の郡にあたる)に任令されたことを示しており、古代の地方豪族が、国造から評の官人へと転身していく過程を具体的に知ることができます。
しかし、この碑文からは、那須における評制の開始時期までは断定できません。評そのものは、これ以前から別の人物を官人として成立していた可能性があるからです。
*那須国造碑にみる渡来文化の受容
碑文中の「永昌元年」は、中国や朝鮮半島で使用された年号です。「砕骨挑髄豈報前恩」という表現は、大般若経の文言とよく似ています。「銘夏堯心澄神照乾六月童子意香助坤」は、孝行で有名な中国の人物を表現しており、孝の考えに基づいた建碑であることがわかります。碑文の書体は、唐風以前の六朝風(北魏風)とされています。
このような中国由来の年号・仏教や孝の観念・書体・造碑技術が那須に受容された背景には、渡来人の関与があったと思われます。唐における永昌改元の翌年、僧侶を含む新羅人が「帰化」しましたが、彼らはその後、下野国に移住したと考えられているからです。 那須国造碑は、彼らがもたらした渡来文化と那須の歴史とが融合して生まれたのではないでしょうか。
碑文の釈文
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固
碑文の大意
永昌元年(持統三/六八九)四月、持統天皇の治世で那須国造を務めた追大壱那須直韋提が、評の長宮に任ぜられた。その後、庚子年(文武四/七〇〇)正月二日に亡くなった。そこで、意斯麻呂等が那須直韋提を偲んで、次のように銘文を刻む。
思い返してみると、亡くなった韋提は広氏の末裔であり、国家を支えた人物であった。一生の内に国造と評督に任ぜられるという二度の栄誉にあずかり、生涯を終えてもその業績は子孫に引き継がれた。粉骨砕身して、必ずや韋提の業績と恩に報いなければならない。孝行の家門に驕る者はなく、孔子の門弟に罵る者はない。孝を重んじる韋提の子である我々は、その格言に背くことはない。孝で知られる堯の心を銘じ、心を澄まして父を顕彰しよう。孝の心ある子は、母を助けるものである。立碑のために多くの者が集い、言葉を紡いで碑文を記す。我々の功績は、翼はなくとも広く知れ渡り、根はなくとも強固なものになるだろう、と。 』
パンフレットに、「光圀、佐々宗淳に碑主の解明を命じる。」とあったが、この“佐々宗淳”とは、佐々介三郎宗淳のことである。佐々介三郎宗淳は徳川光圀の命により、那須国造碑の碑堂建立や侍塚古墳発掘の指揮を執った人物である。
介三郎は、時代劇『水戸黄門』の「助さん」のモデルになっている。本名から言えば「助さん」ではなく「介さん」と言うことになるのだろう。
時代劇の「助さん」は、女性にモテる剣の達人だが、実際の介三郎は、若き日には京都で僧侶となり、後に志を立てて儒学者になった学者で、『大日本史』を編纂した水戸藩の彰考館で総裁を務めたほどの人物だった。
水戸学は水戸藩で形成された政治思想の学問とされ、儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたものとされる。その「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力の一つにもなった。
水戸学の原点は、徳川光圀の『大日本史』編纂のために集まった学者を中心としており、朱子学者が多かったが、あらゆる学派を網羅していた。そんなことを考えると、彰考館の総裁でもあった「介さん(助さん)」は、図らずも歴史を動かした人物の一人なのかもしれない。
パンフレットから私が気になることはいくつかある。
「永昌元年(持統三/六八九)四月、持統天皇の治世で那須国造を務めた追大壱那須直韋提が、評の長宮に任ぜられた。」とあるが、「永昌」は中国の年号(唐の武則天の時の年号)だとされる。武則天は国号を「周」(武周)とし、唐は一時的に「周」と呼ばれた。
則天武后の在位期間は690年~705年であるから、その間が「周」であったが、それ以前から高宗に代わり垂簾政治を行ったので、永昌元年(689)は則天武后が実権を有していた。(永昌元年というが、永昌は689年だけで途中から載初にかわっている)
倭国(日本)は、663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したが、この時も既に唐の実権は則天武后が握っていた。百済、続いて高句麗を滅ぼしたのは則天武后だといえる。
新羅は真徳女王(在位647年~654年)のとき、649年より唐の衣冠礼服の制度をとりいれ、650年には独自の年号を廃止して唐の年号(永徽)を用いるようにするなど、唐との関係を磐石のものとした。以後の新羅では独自年号は用いられなくなった。
持統天皇の在位は690年~697年だが、天武天皇が亡くなった朱鳥元年(686)から称制を行ったとされるので、永昌元年(689)は持統天皇の治世とされる。
新羅の真徳女王の在位は少し早いが、武則天と持統天皇の在位は重なる。7世紀から8世紀にかけて、中国と新羅と日本で女帝が出現していることは注目される。
永昌元年という年号を使ったことから、この那須国造碑に帰化人(新羅系か?)が関わったことは推測できるが、その後の文には、「その後、庚子年(文武4年/700年)正月二日に亡くなった。」とある。
ここでは干支で年を表している。十干十二支、つまり10×12で60年で一周する。永昌元年(689)以降に庚子となるのは700年(文武天皇4年)ということになり、那須直韋提が亡くなったのは700年とされる。つまり、那須国造碑は700年以降の近い時期に建立されたことになる。
なぜ、日本の年号が使われなかったのであろう。
『日本書紀』によれば、大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。
しかし、それは怪しい。『日本書記』には大化、白雉、朱鳥の3つの年号だけが使われているが、
大化 645~649
白雉 650~654
朱鳥 686
とされ、継続していない。
朱鳥元年(686)は、天武天皇が亡くなった年で、天武天皇は道教に通じ、天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能であった。
天皇が崩御したのは686年の9月で、その2ヶ月前に天皇の病気回復を祈って、年号が「朱鳥」と改元された。朱鳥は道教の四霊獣神(四神)の一つで、よみがえりの地と考えられた南方を守る朱雀(すざく)のことであり、天武天皇が信奉した道教の思想に拠ったものだ。
私は、大和朝廷が元号を使ったのは、天武が使った朱鳥だけだったと考えている。実際に元号が普及するのは大宝律令以降で、文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元し、以降継続的に元号が用いられることとなったとされる。
それまでは元号よりも干支の使用が主流だった。主流だったどころか、元号は「朱鳥」しか使われていなかったのであろう。
それ故、那須国造碑を建てるとき、渡来人でなくとも永昌元年という中国の年号を使うしかなかったのである。
那須国造碑がある大田原市湯津上は太平洋側から那珂川を遡る。東山道も那珂川沿いに北上したようだ。那須国造碑の石材は八溝山系の花崗岩(白御影石)であるが、那珂川の東の八溝山系を越えるとそこは茨城県でそのすぐ東は福島県になる。ここには久慈川が流れ、久慈川沿いにJR水郡線が北上する。久慈川の河口近くには大甕倭文神社がある。
那珂川も久慈川も古代の動脈であった。そして、久慈川を遡った福島県東白川郡棚倉町の八槻と馬場には陸奥国一宮の都都古別神社がある。
私は2014年10月に都都古別神社を訪れ、そのブログで『二中暦』について書いたが、『二中暦』は多くの古文書で用いられていて、『二中暦』では、
白雉 652~660
白鳳 661~683
朱雀 684~685
朱鳥 686~694
大化 695~700
となっていて、『日本書紀』とは大きく違う。
『日本書紀』では、大化の改新(645年)に合わせて、大化を645~649とするが、『二中暦』では大化を695~700とする。
( 関連記事 『二中暦』 『旅387 都都古別神社』 )
『日本書紀』では645年の「大化の改新」を大きく扱うが、歴史的事実としては中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺というクーデターに過ぎない。だが、クーデターにより蘇我の宗家が滅亡した意義は大きい。
しかし、これにより「大化の改新」と呼べるような政治改革が進んだかと言えば怪しい。
大化の改新により、「評」が「郡」になったとされるが、この那須国造碑に見るように、永昌元年(689)でもまだ「評」が使われている。これは他の古文書でも多く見られ、『日本書紀』は、大化の改新の時に「郡」(こおり)が成立したと記しているが、当時は実際には「評」(こおり)と書いていたことが分かっている。
このことから、郡郷里制が始まったのは645年ではなく、もっと遅くではないかとの指摘が前々からあった。
私は『二中暦』で大化を695~700とするように、郡郷里制が始まったのは695年頃からではないか、あるいは大宝律令以降かもしれないと考えている。
「那須国造を務めた追大壱那須直韋提」とあることから、「那須」という国があったことが分かる。また、韋提は氏姓制度のなかで姓(かばね)は直(あたえ)であり、直は国造そして後には郡司を賜ることが多かった。
追大壱の位階は冠位四十八階の33位にあたり、今日の正六位に当るというので名はあるが実はない。正六位と正五位の間には雲泥の差があり、正五位は次の代に世襲でき恩恵もあった。 冠位四十八階は8位ずつ6段に分かれているが、追大壱の一つ上が務広肆となり段も上がり、服色も深蒲萄(のち深縹)から浅緑にかわることからも、その差がよく分かる。
冠位四十八階は、天武天皇14年(685年)、冠位二十六階を改訂し制定されたものである。
天武朝は旧い氏姓制度から律令制度による官僚制度への過渡期であり、碑文に「一生の内に国造と評督に任ぜられるという二度の栄誉にあずかり、生涯を終えてもその業績は子孫に引き継がれた。」とあり、一生の内に二度も任ぜられるのは稀という説もあるが、地方の豪族が、国造から評督にスライドしたのは過渡期の処置としては当然であった可能性もある。明治維新での廃藩置県への移行期に旧藩主が知藩事になったことと同様であったのではないだろうか。
大宝律令でも中央から派遣される国司よりも郡司のほうが俸禄が高いことをみても、中央集権国家への移行において、実権を持つ地方豪族への配慮は細心を払ったことがうかがえる。
永昌元年(689)4月、持統天皇の治世で那須国造を務めた追大壱那須直韋提が、評の長宮に任ぜられたということは、この頃には朝廷が地方の役人を任命する制度がかなり進んでいたことがわかる。東北の北部はともかく、関東の北部までは大和政権の権威が及んでいたことは確かなようだ。
奈良時代に入っても、720年(養老4年)九州南部に住む隼人の反乱があり、大伴旅人を征隼人持節大将軍として派遣している。また、平安時代に入っても坂上田村麻呂などの蝦夷地遠征があることから、7世紀の末において大和朝廷の支配が日本全国に及んでいたわけではないことも確かである。
また、「永昌元年(持統三/六八九)四月、持統天皇の治世で那須国造を務めた追大壱那須直韋提が、評の長宮に任ぜられた。」ということから、それまで国として独立していた那須地方が、このころ下毛野国(しもつけぬのくに)(後に下野国(しもつけのくに))に組み入れられたのではないかという説もある。
碑の文字が六朝の書風であることや、また当時『日本書紀』には下毛野国に帰化した新羅人が移住したという記述があることから、那須国造碑の建立に帰化人が関与したことが推測される。
那須国造碑と侍塚古墳(2)
「なす風土記の丘 湯津上資料館」には「国造碑の時代」という掲示があった。
掲示より
『 国造碑の時代
・645年(大化元) 大化の改新がはじまる。
・660年(斉明6) 唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす。
・663年(天智2) 白村江の戦いがおこる。
・668年(天智7) 唐、高句麗を滅ぼす。
・670年(天智9) はじめての戸籍、庚午年籍がつくられる。
・672年(天武元) 壬申の乱が起こる。飛鳥浄御原宮に都を移す。
・676年(天武5) 新羅、朝鮮半島を統一。
この頃、尾の草遺跡(馬頭町)・浄法寺廃寺(小川町)に仏教寺院が建立される。
・681年(天武10) 山ノ上碑が建てられる。(山ノ上碑)
・684年(天武13) 八色の姓を定める。
・687年(持統元) 帰化した新羅人14人を下毛野国に移住させ、田と食糧を給する。(日本書紀)
・689年(持統3) 那須国造那須直韋提、評監を賜る。(那須国造碑) 帰化した新羅人を下毛野に移住させる。(日本書紀) 飛鳥浄御原令を施行する。
・690年(持統4) 帰化した新羅人を下毛野国に移住させる。(日本書紀) 武則天、皇帝となり、国号を周とする。
・694年(持統8) 藤原京に都を移す。 藤原京跡から、この頃の木簡「下毛野国芳宜評……」
・700年(文武4) 那須直韋提が死亡する。 このころ意斯麻呂ら、那須国造碑を建てる。
・701年(大宝元) 大宝律令が完成する。
・708年(和銅元) 和同開珎を鋳造する。
・710年(和銅3) 平城京に都を移す。
・711年(和銅4) 上野国に多胡郡が置かれる。(多胡碑)
・726年(神亀3) 金井沢碑が建てられる。(金井沢碑)
・762年(天平宝字6) 多賀城碑が建てられる。(多賀城碑) 』
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「なす風土記の丘 湯津上資料館」の見学を終えた後、国道294号線を横断し下侍塚古墳を見学した。
現地案内板より
『 国指定史跡 下侍塚古墳
墳形 前方後方墳
全長 84.0m
後方部 長さ48.0m 幅48.0m 高さ9.4m
前方部 長さ36.0m 幅36.0m 高さ5.0m
下侍塚古墳は、那珂川右岸の段丘上に位置する前方後方墳で、那須地方の6基の前方後方墳のなかでは上侍塚古墳(114m)に次ぐ規模である。
本墳は、元禄5年(1692)、徳川光圀の命により小口村(那珂川町小口)の庄屋であった大金重貞らが上侍塚古墳とともに発掘調査を行っている。鏡・鎧片・鉄刀片・大刀柄頭・土師器壺・同高坏などが出土したが、これらは、絵図をとるなど調査結果を記録したうえで松板の箱に収め、埋め戻している。
さらに墳丘の崩落を防ぐため松を植えるなどの保存整備も行われた。これらの調査と調査後の遺跡の処置は、日本考古学史上特筆されるものである。
昭和50年には土地改良事業にともなう周濠調査が湯津上村教育委員会により行われた。その結果、古墳の規模、周濠の形状や葺石などが確認され、墳丘から崩落したと考えられる土師器壺などが出土している。
古墳の築造は、出土遺物や墳形の特徴などから4世紀末頃(古墳時代前期)と考えられている。
(昭和26年6月9日 国指定) 大田原市教育委員会 』
この古墳の被葬者と7世紀末の那須国造直韋提とが結びつくのかは分からないが、私は前方後円墳ではなく“前方後方墳”であることに注目する。
私が訪れた主な前方後方墳は、長野県松本市並柳にある弘法山古墳と福島県郡山市田村町大善寺字大安場にある大安場古墳である。
弘法山古墳を築いた豪族は木曽川か天竜川を遡って東海地方から入った一族ではないかと考えられ、大安場古墳を築いた豪族は阿武隈川を遡るか久慈川を遡り阿武隈川に出た一族ではないかと考えられる。
この下侍塚古墳にしても、弘法山古墳、大安場古墳にしても太平洋側から進出した氏族が造ったのではないかと予想される。
3世紀前半期の墳丘墓について次のような資料がある。
上の図で空白になっている北九州について、考古学者の森浩一氏は、弥生時代を通じて遠賀川流域(北部九州東地域)と福岡平野から佐賀県唐津市にいたる地域(北部九州西地域)とでは文化の内容が異なるという。
『魏志倭人伝』の国名が現在の地名に残り、死者を大型甕棺に葬り、銅鏡や青銅製武器類を副葬しているのは北部九州西地域で、この地域は対馬・壱岐を経て朝鮮半島とも密接な交流があり、南は筑後川下流の有明海沿岸地方に連なっている。有名な吉野ヶ里遺跡もここにある。
これに対して北部九州東地域は、大型甕棺は少なく、青銅器製品も貧弱であったが、宗像神社・沖の島遺跡を含み、出雲との交流もある独特の地域だったようである。
北部九州西地域は、弥生後期には弱体化し、3世紀の中葉を境として、日本の歴史は舞台を大和盆地に移し、ヤマト王権の時代に入っていく。
3世紀前半期の墳丘墓は各地で独特な形態に発展している。特徴的なのは山陰に始まる四隅突出型方墳が北陸まで分布を伸ばしていることである。
吉備を中心にする中部瀬戸内海には墳丘の両側に突出部を持つ特殊な墳丘墓が見られる。また、尾張氏の地盤である中部東海を中心として前方後方墳が、近畿地方には前方後円墳が出現する。そして大和盆地の東南、三輪山の山麓、纏向の地に最初の巨大前方後円墳である箸墓古墳が出現する。そのころヤマト王権が成立したようである。
私は海人族でもある尾張氏に関係した氏族が太平洋側を北上し、河川を遡り築いた古墳が下侍塚古墳や大安場古墳などの前方後方墳ではないかと考える。
継体天皇の妃に尾張氏の女性がいるように、尾張氏は日本海側の海人族とも繋がる。古墳のプロトタイプが単純な円墳と方墳であると考えると、日本海勢力と東海地方の勢力は“方墳”という共通点で結ばれる。
上侍塚古墳には行かなかったが、近くの侍塚古墳群は見学した。
現地説明板より
『 大田原市指定史跡 侍塚古墳群のご案内
昭和41年2月15日指定 大田原市湯津上地内
下侍塚古墳のすぐ北側には侍塚古墳群と呼ばれる古墳群が展開しています。現在確認できるのは8基ですが、かつては10基ほど存在したものの戦後の開田等により、消滅したといわれています。
前方後円墳である1号墳、方墳である8号墳を除く6基は円墳とみられています。5号墳と8号墳については、部分的な発掘調査によって、ある程度古墳の状況が把握されています。
それ以外の古墳については、平成10年(1998)から平成13年(2011)にかけて、墳丘の測量調査が行われ、墳形と大きさが確認されています。
大田原市教育委員会 』
ここに古墳を造った人々と那須国造直韋提とは繋がるかは分からないが、那須国造碑が草むらに倒れて苔むしていたことを考えれば、那須直韋提の末裔はこの地で続かなかったのであろうか。
多胡碑は、多胡郡の建郡碑として711年に建てられたと推定されているし、多賀城碑は多賀城改修の記念碑として762年に建てられたとされる。
多胡郡がなくなったり、多賀城が廃城になれば、それに関わる碑がなくなっても仕方ないだろうが、那須国造碑は個人の墓碑であり顕彰碑でもあるから、その末裔たちにとっては大切なものだったのではないだろうか。その碑が草むらに倒れて苔むしていたということは、那須国造の一族は滅びてしまったのか、この地を去ったのか興味のあるところだ。
無縁墓は墓石だけが残り、供養することもなくなればその墓石も倒れ、やがて苔むしていく。石材として転用されることもあるのだろう。この那須国造碑にも無縁墓と同じような哀れを感じる。ただ、無縁墓と違い那須国造碑は徳川光圀により救われ、神社の御神体として保護される幸運に恵まれ、国宝にまでなった。
古代に建てられた日本の石碑のうち、現存するのはわずかに20例ほどだという。
那須国造碑と多胡碑と多賀城碑が日本三古碑と呼ばれるのは、おそらく保存状態が良好だからだろう。多胡碑も多賀城碑も保護されてはいるが自由に見ることができた。那須国造碑だけは自由に見ることが出来ない。それは国宝だからであろう。
しかし、なぜ那須国造碑だけが国宝に指定されたのであろう。ちゃんとした理由はあるのだろうが、その史料としての信憑性に雄藩であり徳川御三家の一つ水戸藩の威光が少しは関与しているのではないかとゲスの勘ぐりをしてしまうのは、私がゲスだからだろうか。だが、“ゲスの極み乙女”よりもマシだと思う。少しかわいそうなベッキーも所詮はゲスの極み乙女だったのだろうか?
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