https://en.bloguru.com/tochigirekishi/posts/2018/2/ 【栃木県の歴史散歩】 より
吾妻古墳
「畿内には、そんな形の前方後円墳はないな。君、これは手抜き工事じゃないですか」と、小林行雄博士。古い赤レンガ造りの京都大学考古学研究室が、いっそうくすんで見える曇った秋の夕暮れ、栃木県内の変った古墳を下都賀郡壬生町藤井の林の中にある吾妻古墳のことを話していた折りである。手抜き工事―これは面白い表現だと思う。あれからもう6、7年もたったろうか。ふり返ってみると、俊敏な小林博士は、なかば冗談のようにして、ことの本質を鋭く指摘されていたわけである。
細かくいうと面倒になるが、古墳の手抜き工事とは要するに、小さい古墳を大きく見せかける土木技術のことである。話を進める都合上、前方後円墳の形を、ちょっと説明しておこう。
日本独特の形といわれるこの古墳は、円い塚の一方に、扇形の前方部をつけたものである。塚は土盛りで、後円部と呼ばれる円い塚の方に、死者を葬る埋葬施設のあるのが普通である。
細長い塚の周りには、箕を伏せたような、末広がりの形の堀がある。周溝と呼んでいる。
手抜き工事といわれた古墳は、墳丘のまわりがほかのものとやや違う。
大阪府羽曳野市にある清寧天皇陵、茨城県玉造町の三味塚古墳、吾妻古墳である。
清寧陵が、本当に清寧天皇の墓であるかどうか、考古学者の間には疑問視する向きも多いが、この問題はいま取上げない。前方部がやたらに広がった墳形だが、後期の古墳ということだけ指摘して、あとは触れずにおこう。当面の問題とは関係ないから。
清寧陵の周溝は墳丘に接している。周溝の内側の形は、墳丘の外形そのものである声に、注意していただきたい。畿内にある前方後円墳で、周溝をもつものはみんな墳丘のすそがすぐ周溝になっている。
前方後円墳の建前はこのようなもので、これは東国にも、従って本県にもたくさんある。小山市の琵琶塚古墳や摩利支天塚古墳、宇都宮市の笹塚古墳、塚山古墳など大型古墳がそれである。
三味塚古墳も、畿内型の前方後円墳である。墳丘の長さが85mで、外側の周溝の長さが135m、墳丘と周溝のバランスがよくとれた、美しい設計である。
さて、問題の吾妻古墳にとりかかろう。墳丘の長さが84m、三味塚古墳と大体同じ大きさだが、墳丘のまわりに、台地をそのまま利用した平たい壇がある。壇の外側に周溝がある。壇の外側は、墳丘のようにくびれてはいないので、周溝内側の形が、清寧陵や三味塚古墳と違う。
周溝は壇の寸法にバランスをとって、平面形が決められる。壇の外側に堀るのだから、古墳全体はかなり広大な面積になる。
さて、吾妻古墳の墳丘は、三味塚古墳と大体同じ寸法である。にもかかわらず、周溝の全長は、清寧陵とほぼ同じ長さである。
古墳は周溝の外からながめるものだ。中に入れないよう、堀がある。
吾妻古墳と三味塚古墳を、仮に並ばせてみよう。あなたが周溝の外に立って、2つの古墳を比べたら、どっちを大きいと思うだろう。お立合い。ここが手抜き工事の妙味である。
吾妻古墳の手品は、古墳設計の段階で、実に綿密に計算され尽してある。後円部の直径42mの6分の1は7mである。6分の1は、60進法による単位で、これをアールとする。
墳丘全長は12アール、基壇の長さ106mは15アール、周溝の長さ168mは24アール、いずれも6分の1の整数倍になる。
墳丘全長12アールを1とする比率は、1対1.25対2になり、周溝の長さは、墳丘の2倍の長さにびたりとおさえてある。
築造工事の労力を少なくし、しかも大きくみせかける、見事な手並みである。
近ごろ、あちこちで工事の手抜きが摘発されるが、下野の先人の工夫をもう少し見習ったらどうだろう。
大和政権の勢力の範囲を示す鏡
栃木県からは、当時の大和政権の勢力範囲を知る上で、貴重な鏡が2面出土している。いずれも舶載鏡で、三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡とよばれる鏡である。今回は、これら2面の鏡にまつわる話をすることにしよう。
三角縁神獣鏡は神像と獣形とを主文様とし、外縁の断面が三角形をなしている鏡である。同鏡は魏の鏡でわが国では相当数出土している。しかし、不思議なことに、中国における出土例は知られていない。このことは、同鏡が、日本向けの輸出鏡であった可能性が強いということになる。
『魏志倭人伝』によると、邪馬台国の女王卑弥呼が最初3年(239)に魏を朝貢した際、銅鏡100枚を下賜されたという記事がある。そして、同鏡は、正始元年(240)に魏の使者によって邪馬台国にもたらされている。三角縁神獣鏡は魏の鏡であるので、この時下賜されたものではないかと思われる。また、同書に依れば、当時、魏国と邪馬台国とが何回か交渉があったことが知られるので、そのような際にももたらされたものと考えられる。
後述するように、三角縁神獣鏡は各地から出土しているが、同鏡の配布は輸入後しばらくしてはじめられたものであろう。このことは、『魏志倭人伝』をみると、下賜品に関する記事で、「悉く以って汝が国中の人に示し、国家(魏を指す)汝を哀れもを知らしむ可し」とあることからもうかがえるところである。
三角縁神獣鏡には、同笵鏡が存する。同笵鏡というのは同じ鋳型で鋳造した鏡で、同鏡の場合は、5面を一組として幾組も輸入されたものといわれている。
同笵三角縁神獣鏡は、北九州から群馬県までの範囲で出土している。この分布の中核をなすのは、36面以上の鏡を出土した京都府の大塚山古墳である。同墳からは、三角縁神獣鏡だけでも32面出土しており、うち22面は各地の古墳からすでに同笵鏡が発見されている。
小林行雄氏は、三角縁神獣鏡に関する綿密な研究によって、三角縁神獣鏡は大塚山古墳の首長から各地の古墳の首長に、大和政権への服属のしるしとして配布されたものであり、同鏡の分布範囲は、大和政権の支配区域を示すものであろうと考えている。これは、4世紀頃の話である。
最近、栃木県からも、三角神獣鏡が発見された。木鏡は、残念ながら破片となっている。復原径13.3㎝。本鏡には、現在のところ、同笵鏡は発見されていないが、大和政権との関連を考える上で、非常に貴重なものということができる。
本鏡は文珠山と呼ばれる古墳から出土しているが、同墳はすでに消失している。出土地は石橋町上古山で姿川流域の台地末端である。本鏡には銅鏃などが伴出しており、出土遺物によって判断する限りでは、古墳は4世紀末から5世紀前半頃までの間に築造されたものかと考られるところである。
画文帯神獣鏡は神像と獣形を主文様とし、その外側に画文帯、即ち飛禽走獣文がまわっている鏡であるし同鏡は、栃木県では宇都宮市雀官の牛塚古墳から出土している。同墳は前方後円墳の変形をなす古墳である。築造時期は、5世紀末から6世紀初頭頃と考えられている。
画文帯神獣鏡には、同笵鏡が10面存する。宮崎県持田、同県持田24号、熊本県船山、広島県西酒屋、岡山県茶臼山、大阪府西車塚、三重県神前崎、福井県丸山、静岡県岡津、栃木県牛塚の10基の古墳から、それぞれ1面ずつ出土している。このことは、牛塚古墳と各地の古墳との被葬者間には、当時、何らかの関係があったことを物語っている。史家小林行雄氏は、大和政権の支配区域が北九州中央部から栃木県にまで拡大したものと考えている。これは、5世紀の話である。
しかし、残念なことには、画文帯神獣鏡には、その中核となる古墳が知られていない。しいていえば、6面の鏡を出土した船山古墳ということになろうが、それでは不満なところが多い。今後の発堀によって、このような古墳が出現することを期待したい。
以上、述べてきたように、鏡は、単なる化粧道具ではない。鏡は往古の豪族の憧れの品であり、貴重品であったのである。このため、鏡が、このような政治関係の場にまで持ち出されたものということができよう。
中国から渡来した鏡
栃木県からは、珍らしい鏡が数面出土している。これらの鏡は舶載鏡(中国で鋳造され、当時の倭国、今の日本に渡来した鏡をいう)で、どれをとっても貴重なものばかりである。
当時は、交通機関は船しかない時代であり、鏡を輸入することは至難の業であった。このことは、この当時よりは文化が発達した時代においても、遣随船や遣唐船が遭難することなどによっても、うかがうことができよう。
中国から渡来した鏡は、むつかしい言葉だが、夔鳳鏡、画文帯環状乳神獣鏡、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡などと呼ばれるものである。今回は、このうちの二面夔鳳鏡と画文帯環状乳神獣鏡とについて述べてみよう。
夔鳳鏡は、空想上の鳥形を主文様とした鏡である。本鏡は、小川町吉田に所在する那須八幡塚古墳から出土した。同古墳は、4世紀後半のものといわれている。
那須八幡塚古墳は前方後方という特異な墳形を呈する古墳で、現在、那珂川右岸段丘末端に所在している。
現在、那珂川中流域を見渡すと、同川右岸段丘上には、同墳のほかに、上侍塚古墳や下侍塚古墳などの前方後方墳が集中しているのが注目されるところである。
夔鳳鏡には、紀年鏡(鏡を鋳造した時の年号を入れた鏡)は2面存する。1面は後漢の元興元年(105)のもので、もう1面は同じく後漢の永嘉元年(145)のものである。これによれば、夔鳳鏡の鋳造時期は、ほぼ後漢の後半頃と推定される。
わが国では、現在までのところ、夔鳳鏡の出土例は10余面にしか過ぎない。何故少ないかというと、夔鳳鏡の製作された頃は、丁度倭国の動乱時で、更に中国ではその後後漢末の動乱期に入るので、鏡を輸入する機会が少なかったのではないかと筆者は考えている。
このことは、夔鳳鏡と同時期頃鋳造されたと思われる獣首を主文様とした獣首鏡の出土例も同様に少ないということからも、うかがわれるところである。
『後漢書』によれば、倭国の動乱に関する記事は、「桓・霊の間倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主無し」と述べられている。桓帝は147年─167年の間帝位にあり、霊帝は168年─188年の間在位している。また、『梁書』『北史』によると、「霊帝光和中…」のこととなっており、その動乱期は178─183年の間となる。倭国の大乱は何年続いたかは明瞭ではないが、ともかく、それに接する時期に夔鳳鏡や獣首鏡が鋳造されているのである。
夔鳳鏡は、古式古墳からの出土例が大部分を占める。その分布状態を見ると、北九州では、福岡県須玖、同県福吉町、同県漆生、同県沖の島、対馬の大将軍山から出土している。中国では、鳥取県国分寺裏山で出土している。近畿では、兵庫県ヘボソ塚、同県三ツ塚、同県奥の山、京都府美濃山王塚、滋賀県安土瓢箪山から出土している。そして、関東では、本県の那須八幡塚から出土しているのである。以上の例で知られるように、夔鳳鏡の出土例は西に多く、東国では那須八幡塚出土の1面しか知られていない。
このことは、何を物語るものであろうか。当時の那須の首長が直接中国と交渉をもっていたとは考えられないので、夔鳳鏡は間接的な手段でもって入手されたものであろうと思われる。とすれば、那須の里が、当時なんらかの形で中央勢力と結びついていたことがうかがわれる。このように見てくると、那須八幡塚の被葬者の背後には、大和政権の存在が考えられるところである。
想像を飛躍させてみると、本鏡は、大和政権の中央部から服属のしるしとして下賜されたものであろうか。あるいは、弥生時代に舶載された本鏡が、なんらかの理由でもって、長い間伝世した後に、那須八幡古墳中に眠ることになったものであろうか。
画文帯環状乳神獣鏡は神像と獣形を主文様とし、その外側に画文帯即ち飛禽走獣文を配した鏡である。残念ながら、本鏡の出土地は明らかではないが、下都賀郡野木町に存する野木神社付近の古墳から発見されたと伝えられている。
画文帯環状乳神獣鏡は、中国において後漢末から三国頃製作された鏡である。その鏡が、いかなる道程を経て、わが国に渡来し、また、野木神社付近の古墳に埋納されるようになったものであろうか。後漢から三国頃といえば、およそ3世紀前半頃に当り、本県最古式の古墳でも4世紀後半頃であるので、この間にはかなりの時間差があるということになる。
ともかく、画文帯環状乳神獣鏡は、前述した夔鳳鏡と同様な性格を有していたものと思われる。そして、本鏡を所有していた古墳の被葬者は、当時の中央勢力即ち大和政権となんらかの形で結びついていたものと想像されるところである。
弥生・土師移行期の文化
3年ほど前、私たちは弥生時代から土師時代に移る、4世紀初めの土器について、いろいろな角度から話し合っていた。考古学徒にとって、ある文化から次の文化に移る時期の土器は、きわめて重要な研究課題だが、この時期の土器は、とりわけ重要なものに思われた。
というのは―北関東では、弥生時代後期の土器はすでに発見されている。宇都宮市・二軒屋遺跡から出上した土器をモデルとして、「二軒屋式」と呼ばれているものがそれ。
一方、「五領式土器」と呼ばれる土師時代最古の土器もみつかっている。しかし、2つの時代をつなぐ移行期の土器だけが、発見されていなかった。「幻の土器」と私たちは呼んでいた。
問題は尽きなかったが、「これまでに出土している県内外の土器を再吟味しながら、あせらずにじっくり考えよう」というのが、そのときの結論だった。
ところが、48年に、真岡市・井頭遺跡を調査していた大金が、住居跡から弥生土器の伝統を残した古い形式の土師器の破片をみつけた。塙は土器をみて狂喜乱舞した。土器を指さす大金の手もふるえ、興奮のあまりことばが出なかった。
近くで働いていたおばさんたちは、2人の気違いじみた喜びように首をかしげたに違いない。だが、私たちにとって、その土器の破片は、まさに捜し求めていたもの、弥生時代と土師時代の接点を知る貴重な遺物だった。
井頭遺跡からは「二軒屋式土器」も出上している。2つの異なった文化を示す土器が一緒に出土したわけだ。
「移行期をさぐる糸口がつかめた」「台付きかめ、つば、高つきなど、いろいろな種類があるはずだ」「これらをセットで発見できれば……」と、私たちの話ははずんだ。
私たちは、幻の土器をセットで発見することに躍起になった。
私たちはこの年芳賀郡芳賀町教委の主催で、同町西水沼の谷近台にある古墳を掘ることになった。
古墳と周湟=みぞ=を調べていると、周湟の外側から、土師時代の住居跡が発見された。そこから掘り出された数片の土器をみて、私たちは心が騒ぐのを抑えることができなかった。弥生土器の伝統を残した古い形式の土師器の破片だったからだ。
発掘が進むにつれ、古式土師器の台付きがめ、つば高つき、器台などが、ぞくぞくセットで出土した。
―「おれたちは五領式土器だが、弥生時代の土器の文様も部分的に残しておいた。器の形は前の時代のものを踏襲したから、よく調べてくれ」。土器は私たちに、こう語りかけているように思えた。
調査補助員の学生たちに、私たちは「本県では未解決の2つの文化の接点が、これらの土器で一挙に解決できそうだ。調査が完全にすむまで口外するな」と、いい含めた。見学者によって、現場が荒らされるのを恐れたからだ。
谷近台遺跡の土器から、私たちは次のような推論を立てている。
―東海地方東部、南関東で盛んに行われた弥生土器文化が、弥生時代の最末期に本県に波及。いままでの二軒屋式土器文化を駆逐して主流を占めた。この「外来土器」が土師器に移行したのではないか。
土器の形は、弥生時代末期のものと、ほとんど変わっていない。こういった「弥生土器的な古式土師器」は、いままで発見されなかった。今度の発見で、土着の二軒屋式土器文化が、外来の新しい土器文化によって駆逐された、という、これまでの仮説が立証されるだろう。
「幻の土器」はみつかった。土器は文化を知るモノサシではある。しかし、この土器だけからでは、当時の社会生活を復元することはできない。集落の全ぼうと、近年話題をよんでいる、埋葬の仕方などを追及するために、どうしても遺跡の第二次調査を実施したいと私たちは念願している。
それにしても、この3年間の私たちの生活は、まるで「凶悪犯を捜査する刑事」のようだった。「幻の土器」を求めて、県内外を歩き回った。
そして皮肉にも、古墳発掘という〝別件〟で「幻の土器」を〝逮捕〟、未解決の分野を解明した。
この間、休日返上も珍しくなかった。塙は「山か海に連れて行って」という子どもの頼みを振り切って、発掘現場に出かけたし、大金は発掘開始の前日に、母親が大手術したが、看病もせずに現場にとどまった。
全く無責任な話だが、私たちは「自分の子どもには考古学はやらせたくないね」と、話し合った。
だが、考古学という学問は面白い。遺跡や遺物を対象に、未知の文化を追及するのだから、仮説、推理といったものが、なかば許される。仮説や推理を学問的に裏付け、体系化する「考古学の妙味」にひかれて、私たちはまた、遺跡や遺物を求めて、歩き回ることだろう。
どこから来た弥生文化
農耕を主体にした弥生文化が本県に波及したのは、紀元前後のことである。この新文化は、大陸から北九州地方に渡来し、西日本から徐々に東日本に波及したというのが歴史上の常識である。この常識に従えば本県に弥生文化が伝わったルートは、東海地方から南関東に入り、ここから北関東の本県へ、ということになる。もしこれが事実なら、南関東と本県の弥生土器には、似たような文様がなければならない。しかし、2つの土器の間には、何の関連性も見い出せないのである。本県へ弥生文化を伝えた別のルートがあるに違いない。こうした疑間を抱きながら、過ぐる日、静岡県を訪れて私は新しい事実に気づいた。
静岡市丸子遺跡出土の土器─丸子式土器―が、本県の古式の弥生土器とよく似た文様を持っている。東海地方から南関東を経ずに、本県に至るルートとは―というが、私の研究課題になった。
丸子式土器は、日本の中央高地に出土している。長野県岡谷市付近の「庄の畑式土器」などが、それである。条痕文様が施されているのがこれらの土器の特徴だ。
条痕文様の土器といえば、群馬県吾妻町の岩櫃山遺跡や北関東北西部の山ろく地帯に広く分布し、「岩横山式土器」と呼ばれている。本県の葛生町上仙波遺跡からも発見されている。
こういう点から弥生文化は、静岡から長野、群馬を経て本県入りしたのではないか、と私は考える。今後は群馬・埼玉両県との関係を十分考える必要がある。
しかし、上仙波遺跡の土器には、縄文の文様が施されており、この点で庄の畑式土器とは若干異なっている。つまり、本県へ伝わった弥生土器は、土着の縄文土器の影響を強くうけて、北関東特有の弥生土器を発生させた、と考える方がいいようだ。
換言すれば、弥生文化人が本県に移住して来たから新文化が発生したのではなく、今までの縄文文化人が、新文化をとり入れたもので、弥生文化人は縄文文化人の子孫、ということである。縄文文化人が弥生文化人に征服、駆逐されたわけではない。
その証拠に、弥生文化が伝わると、縄文土器の伝統を残した弥生土器が、県内各地で続々と作られ、使用された。
それは野火が広がるような勢いだった。足利市入小屋、佐野市出流原、上三川町仏沼、真岡市城内、宇都官市大谷寺、同市野沢、烏山町八が平、藤岡町富吉、矢板市大槻などからこの時代の弥生土器がたくさん発見されている。仏沼、城内、野沢などの遺跡から出土した土器の底には、水稲耕作が営まれた証拠のモミ痕がついている。
また大変興味深いことは、佐野市出流原の土器と千葉県市川市須和田遺跡の「須和田式土器」は非常によく似ている。県内へ波及した弥生文化が〝南進〟した証拠である。
だが、本県の弥生文化は、神奈川方面にまで南進しなかった。そこには別の弥生文化が、すでに発生していたからだろう。
しかし、本県への文化の波及ルートの問題は、もう一つ大きな疑間が残っている。
藤原町、今市市方面の弥生土器は、縄文と沈線文を施したもので、これまで述べてきた土器とは明らかに別もの。東北南部の会津若松市方面に分布する土器と同系統という点である。
藤原町中三依、今市市中小代、同市岩崎などから出土する土器は、会津若松市の南御山、河原町口、二ツ釜などの遺跡から発見されている土器と同じ仲間である。しかも、会津若松地方の土器は、新潟県北蒲原郡山草荷遺跡の土器―山草荷式土器―の系統をひいている。
結局、北陸地方に伝わった弥生文化が、会津若松地方に入り、山王峠―福島・栃木の県境―を越えて南下し、藤原、今市方面に流布したと考えられる。
そして、この文化は宇都官以南の地には進出していない。中部高地を経て伝わった弥生文化が、すでにひと足早く開花していたからだろう。県南地方には会津若松方面の土器は発見されていない。
私は本県への弥生文化の波及ルートが、2つあることを、紆余曲折しながらやっと探し求めることができた。従来、本県の弥生文化の研究は、常識的な南関東との対比に終始していた。これが本県の弥生文化の研究が他県に比べて遅れた一因である。確かに、未知の訪問客は表門から来るのが常識である。しかし、本県の場合、この常識を破って、裏木戸から入ってきたわけだ。弥生文化の複雑多岐な一面をよく物語っているといえる。
変則的なルートが完成すると、この〝通路〟が、しばしば使われたようである。
弥生文化末期の3世紀ごろ、盛んに作られたとみられ、県全域に分布している二軒屋式土器(宇都宮市二軒屋遺跡)は、群馬県勢多郡の樽遺跡―樽式土器― のものに似ている。この系統を追うと長野県方面にその仲間がある。いわゆる櫛目文様をもった土器である。
しかも、この文様をもった土器は南関東ではほとんど発見されず、茨城県方面に多く分布している。〝通路〟の健在ぶりと、本県の弥生文化の特異性がうかがえるというものである。
思わぬ〝副産物〟発掘
パサパサと乾いたローム層から、白い輪が出た。ポサポサして、まるで朽ちた木切れのようだが、まぎれもなく人骨、白い輪は頭がい骨の輪切りにほかならない。
48年の夏休み、黒羽高校社会部が、黒羽町久野又の不動院裏遺跡を発掘した。
そのときの副産物の一つが人骨の出土である。発掘地の隣に墓地があるので、その懸念が全くないわけではなかったが、不動院の住職から「発掘地は墓地にしたことはない」と聞き、安心して掘っていた矢先だった。
とりわけ、それとは知らずにスコップで人骨を輪切りにしたF嬢は、飛びあがらんばかりに驚き、ジンマシンができるほどの気味悪がりようだった。ところが何の因果か、F嬢は調査中もう一体発見する〝殊勲〟をあげた。
ローム層への埋葬なので、最初はよほど新しい骨と思い、掘るのをためらったが、いずれブルドーザーで整地されてしまうのなら、キャタピラの蹂躙にまかせるよりは、我々の手で掘りあげて再葬した方が仏も浮かばれるであろうと考え、住職に読経を願い、掘りあげた。
一体の方はかなり骨がよく残っており、数珠玉や六道銭の副葬があったし葬法や副葬品からみて、それほど新しいものではないと思われたので、いささかホッとした次第である。
それから1カ月後。発掘地周辺が整地されたという連絡をうけ、数日間追加調査をした。平安時代の住居跡などがみつかり、予想外の成果だったが、人骨の方も5体を掘りあげ、予想外の〝成果〟となってしまった。
最初の調査のときは気味悪がって手出しをしなかった女子部員も、この時には平気な顔で掘った。骨がそれほど新しくないという安心感か、日焼けしてツラの皮が厚くなったせいかは、知らない。いずれにしてもシャレコウペを両手で取り上げている図なぞは、さしずめ縁談破綻のシロモノであった。
計7つの墓からは、きせる5本(うち吸い口と頭たけが各1本)、数珠玉11個、鉄なべ、茶わん各1個、200枚を超す銭があり、なかなかバラエティーに富んでいた。
墓穴の平面規模は、いずれも1平方メートル前後で、とうてい寝棺が納まる大きさではない。人骨は写真のように、屈葬のような姿勢をとっているが、穴の大きさを考えあわせると、竪棺だったことがわかる。
竪棺は、現在当地では、全く使われていないから、ごく近年のものではないということになる。では、どこまでさかのぼらせたらよいであろうか。
それには、副葬品が有力な証拠になりそうだが、案に相違してそううまくはいかない。たとえば鉄なべ。片口とっ手付で、今こんなものは使われていないが、いつごろのものか、となるとはっきりしない。
木棺に使われた鉄くぎも同じである。断面矩形の金くぎ流よろしく頭を折り曲げたもので、これまた現在使用されていないが、明確な時期はわからない。数珠玉やきせるにいたっては、最近のものとの識別さえ困難である。
頼みの綱は、古銭だけである。古銭は総数220枚がみつかった。若干の唐銭や北栄銭を含んでいたが、ほとんどは寛永通宝だった。渡来銭は今考慮外においてよいと思うが、寛永通宝が墓の年代を与える材料になるだろうか。残念ながら、否である。
というのは、寛永通宝は明治以降も一厘として通用し、制度上では昭和28年まで残っていたからである。もちろんそれまで使われていたとは思われないが、年配の方に聞くと、第二次大戦ごろまでは、葬式の時にこうした古銭をまいたというし、墓に入れたともいう。頼みの綱も断たれてしまった。もともと地獄の沙汰に使われるべき六道銭は、現世に戻ってはやはり役に立たぬもののようである。
きせるが示す喫煙の普及は、江戸時代後半である。結局、この墓は第二次大戦前から江戸後期の間というまことにばく然とした時期しかわからない。
7体も人骨(この他に、2つの墓を確認している)がでれば、墓地であったことは疑いない。その墓地が当地の人の記憶にないというのは、どういうことであろうか。山林が水田になるというのとは訳が違う。少なくとも3、4代の経過があったのだろう。
ところで、発掘地のすぐ南に、かつて寺があったという伝承がある。土手に礎石と思われる石があるところからも、信用してよいように思われる。我々が掘った墓は、おそらく伝承の寺に付属したものだろう。
とすれば、言い伝えの中に、寺の崩壊年次が含まれていないのは、いかにも残念である。しかし、人の記憶の消失時間や寺の崩壊から推察すれば、排仏毀釈あたりが当たらずとも遠からずの年代ではあるまいか。人骨は近世末期に生きた人々、いずれにしても庶民であったろう。
いささか冗漫な書きぶりをしたが、人骨諸氏を悔蔑したつもりはない。かつての墓制をじかに知ることができたのは、何といっても得難い経験であったし、人骨を前に多感な部員たちは、おそらく死後の世界をかいま見たことであろう。
骨はあくまで死者のムクロに過ぎないが、我々が教えを受けた時、あるいは何かを感じとったその時、まさに死者は生き返る。何かを感じとることも、人骨をことさら気味悪がることも、結局死の呪縛に過ぎないが、超克できぬ死であれば、死者から感じとった教訓を今生で生かす工夫をすればよい。
袋状土壙の発生・盛行・消滅
黒羽高校社会部が発掘した不動院裏遺跡と浅香内8H遺跡を通して、袋状土壙のあり方とその意味を探ってみた。個々の遺跡を例に、もう少しケース・スタディを続けるつもりであったが、袋状土績の発生・盛行・消滅について、私なりの見解を述べておきたいと思う。もとより、ほぼ日本全域に分布する土壙だから、栃木県だけで埓があく問題ではないが、当該土壙喧伝の地であり、発見例も多い方なので、見通し位はたてておかなければならない。
袋状土壙が縄文時代の前期に発生し、中期に盛行して、後期に消滅してしまうことは、既に紹介した。このうち中期のあり方に関しては、前2回に記したようにかなり判ってきた。しかし、前期と後期の事情につては依然不明瞭である。目下時期比定のできる前期の確実な例は、矢板市後中峙遺跡の諸磯α期の住居址に付属した土壙である。前期には、共同体的なあり方はまだ存在しないようで、住居、恐らく家族に付随するようにみえる。
袋状土壙が貯蔵績であることはほぼ異論がないが、その貯蔵壙が家族によって構築されたのはどのような意味を持つのであろうか。このことは、前期という時代の諸事象の変化の一環として、また食料貯蔵方法の変化の一環として、把える必要がある。食料の貯蔵方法には殊更容器を必要としないものもあったであろうが、貯蔵土器といわれる繊維土器は早期にあり、袋状土壙と断面形の逆な上大下小の貯蔵土壙は前期初頭にはあった。そして、袋状土壙が出現してもこれらは消滅せずに並存している。このことは、貯蔵方法の機能分化として袋状土壙が生まれたことを示唆する。恐らく、増大してきた植物質食料のためであり、上小下大という特異な形態は容量が大きく田部密封がしやすいという要請から生じたものであろう。
こうした土器・土壙という貯蔵方法の発展は、後氷期の温暖化による植生変化によってひきおこされたと思われる。植物質食料の増加はまず家族的な採集と貯蔵を増大させ、家族の自立化を促したであろう。その自立化を示すのが屋内炉の敷設であり、家族へ対応する袋状土壙のあり方に違いない。しかし、家族の自立化はそのままにすれば共同体の崩壊を招くから、無制限の肥大はあり得ない。自立化した家族を再び組織化した共同体が広場集落となって現われたと思われる。
中期になると、共同体的なあり方を示す袋状土壙が顕著だが、他県の例では家族に対応するあり方も知られている。戸と共同体という共同体の二重構造に対応した二重のあり方を示すのが中期的なあり方といえそうである。共同体的あり方を示すものは、集落内に特定の占拠領域をもって構築される場合(多分不動院裏遺跡はこの例)と、浅香内8H遺跡のように集落とは別地域に設けられている場合とがある。いずれにしても袋状土壙に貯蔵される食料が共同体として獲得され、共同体管理のもとに貯蔵され、配分されたと思われる、もちろん、その主たる食料は堅果類であったろう。そして、これ程重要になった植物質食料は単に採集されたのみならず、管理、あるいは原始的農耕の存在を示唆するのである。少なくとも、縄文時代に最も豪華に開花した中期文化の一つの大きな経済的基盤であったことは間違いない。
後期になると、またそのあり方がよく判らない。堀之内1期までの存在は、藤岡町後藤遺跡や西那須野町槻沢・井口両遺跡などで確実だが、その後は目下発見例がない。日本的にもほぼ同様の状況で、この辺で一端消滅しまうとみる他はない。なぜ消滅するのかは、まだ判らない。しかし、前期に発生し、中期に盛行した因として、植物質食料の積極的利用を推定したので、その消滅は論理的には植物質食料の減退と推察することが可能である。それを惹起したのは、やはり気候変化であったろうと思われる。そして後期は漁撈文化へ傾斜して行く。後藤遺跡では堀之内1期という短い期間に二重もの住居の重複があったという。口径・底径比の小さい退化形の袋状土壙は植物質食料の減少を、住居の三転は忍び来る気候悪化の不安を象徴していないだろうか。
袋状土壙は弥生時代以降にもあるが、縄文時代のものは一応前期から後期までが独自の盛衰を辿り、後世のものと一系的に繋ることはなさそうである。その盛衰の詳細は今後の課題に属するが、袋状土壙はともすれば平盤にみられがちな縄文文化の流れに起伏を与ええ、縄文文化の拠ってたつ基盤の復元に一つの視座を与えることになろう。願わくば、考古学に自然史・生態学等が結集して、総合的、構造的アプローチがなされることを。末筆ながら、前回、前前回に続き、資料を使わせていただいた黒羽高校社会部に厚くお礼を申しあげたい。
興味深い浅香内8H遺跡
黒羽町・不動院裏遺跡の袋状土壙の研究から縄文時代の中期から後期にかけて、食糧の獲得、配分、貯蔵は共同で行われたらしいと考えた。そこで今回は、珍しいタイプの黒羽町・浅香内8H遺跡の袋状土壙から、当時の生活の新しい一側面を考えてみたい。
この遺跡は、那須黒羽カントリークラプの敷地内にあり、従来その存在が知られていなかった。昨秋、文財化パトロール員の黒羽高教諭小森浩氏が調査して、遺跡が判明した。8Hとはゴルフ場の8番ホールの意味である。
建設会社の厚意で黒羽町教委が主体となり、県文化課の協力で黒羽高社会部(当時部長 増子美行女史)が緊急発掘した。全山紅葉の美しい11月初旬だった。いま、資料の整理と報告書作りを急いでいる。
遺跡から発見されたのは竪穴住居跡1基、その東側の狭い地域にかたまって10個の袋状土壙、3個のふつうの穴。住居跡と土壙は意識的に配置されたと思われる程のあり方である。土壙から出土した土器は縄文中期のものだった。
不動院裏遺跡の場合、土壙群は集落の近くにあり、集落の食糧貯蔵に使われた、と考えられた。が、「8H遺跡」の場合、近くには1基の住居跡しかない。10個の土壙は、この1軒のものなのか。この1軒は共同体から離れたアウトサイダーだったのだろうか。あたかもサル社会の離れザルのような…。
実はそうではない。竪穴住居は直径4m程の円形で、この時期としては中規模のものだ。しかし、住居内に肝心の炉がない。住居の南に2個所の焼土があり、炉の代わりに使われたらしいが、人が常住した形跡はない。
しかも、土壙からは4個、あるいは8個の完形土器が発見されたものがあるが、住居内からは1個の完形土器も出土しなかった。日常の生活用具が全く見当たらないのである。こうした住居は、一時的なすまいと考えるほかはない。
この住居はおそらく土壙の管理、つまり貯蔵食糧の管理棟だったのだろう。8H遺跡は食糧の貯蔵地だったと思われる。集落の本拠がどこにあったのかはわからないが、 一つの候補地は、近くの鉢木遺跡である。
このように、8H遺跡の袋状土壙は、共同体がその集落の外に食糧基地を持っていたことを示している。このことは、一つの共同体が必ずしも一つの遺跡から成りたっていたとは限らず、いくつかの種類の遺跡から構成されていた可能性を示すとともに、具体的な食糧獲得地域をも示しているという二重の意味で重要である。
では、この食糧基地で何を獲得して、袋状土壙へ貯蔵したのだろうか。残念ながら、この遺跡でも、それを示す直接資料はない。遺跡からみつかった石器から推察すると、やはり、植物質の食糧らしい。
石皿や敲石といった石器は調理用具である。従ってこの場所は、単に食糧貯蔵だけでなく、調理までおこなわれた場だったようだ。
その植物性食糧が、自然のものをそのまま得たのか人間が管理・栽培したものかは、この遺跡でもわからなかった。こうした現状では、この住居が作物の「出作り小屋」の意味もあった、とまで考えるのは早計だろうか。
8H遺跡の規模を数倍したのが9H遺跡である。いくつか面白い事実をつかむことができたが、そのことはまた次回紹介しよう。それにしても土壙の問題は、用途が決定されれば、こと足れりとしたり、袋状土壙が縄文中期に盛んになるのは、中期の繁栄からみて当然だ、とするような議論がある。
こうした姿勢と作業から、いったいどれだけの歴史が復元できるのか、疑間このうえない。おそらく実証ということを、事物から言えることを、絶えずその安全圏内で言うことにすりかえてしまったからに違いない。その打開策は、異なった分野間の共同作業以外にはあるまいと思う。
黒羽町不動院裏遺跡
袋状土壙というのは、口より底の方が広い穴で、典型的なものは、化学実験に使うフラスコのような形をしている。縄文時代の前期に現われ、中期に盛行し、後期に消滅してしまう。
食糧の貯蔵に使われた、とみられているが、なぜ消滅したのか、何を蓄え、その食糧をどうやって獲得し、どう配分したのか、というようなことは、ほとんどわかっていない。
東北日本側に多く分布しているが、ほぼ日本全域にわたっている。栃木県は発見例の多い方で、いままでに20余遺跡から約400個が確認された。
私は黒羽町の3つの遺跡で100個近い土壙を調べる機会に恵まれた。今回は整理を終え、過日報告書を出版した不動院裏遺跡について、袋状土壙が築かれた社会的な背景を探ってみたいと思う。
不動院裏遺跡は、黒羽町の中心部の北約4.5キロ、河岸段丘の上にある。遺物は約3ヘクタールの段丘のほぼ全面に及んでいる。黒羽高社会部(当時部長角田文雄氏)は昨年夏、不動院の雲井定海住職や地元の人たちの援助で、小規模の発掘調査を試みた。
土壙はゆるい斜面から17個発見された。狭い範囲に集中しており、住居跡などとは重複していない。この遺跡は縄文時代中期から後期にかけてのもの。つまり、いくつかの時期にわたって、同じ場所を選んで土壙が作られたことになる。
数年前の開田工事で、土壙のある斜面の西側の平地から、石囲炉などが発見された。おそらく、その辺に集落があったのだろう。集落から離れた一定の土地にいくつもの時期にわたって「食糧貯蔵庫」が築かれたというのはどういうことだろうか。
このようなあり方は個人個人が勝手に作ったのではなく、共同体の意思だった、とみることができる。食糧の貯蔵は共同体管理だったということである。となると、食糧は共同で獲得し共同体のメンバーに配分されたのであろう。おそらく当時の食制全般に共同体の規制が働いていたと考えられる。
では蓄えられた食糧は、何だったのだろうか。遺跡からは、食糧の種類を直接証明する資料は得られなかった。もっとも貯蔵食糧が残っていないのは、この遺跡に限らない。
食べ尽くしてしまうことも考えられるし、食べ残しがあっても、関東ローム層だと、だいたい消滅してしまう。だが、間接的な追及は可能である。
この遺跡からは、多くの打製石斧と石ざら、敲石が出土した。打製石斧は生産用具であり、石ざらと敲石は調理用具である。こうした道具類から、食糧は植物質のものだったことがうかがえる。おそらく、堅果、根茎類といった食糧だったろう。
ところで、こうした堅果や根茎類は、シブや毒があって、そのままではなかなか食べられない。水にさらすか、煮沸しなければならない。根茎からでんぶんをとる場合もそうである。いずれにしても、近くに水が豊富にあった方がいい。
遺跡が河川やわき水の近くに立地しているというのは、単に飲料水を確保するためだけではなく、こうした水さらしと関係があったのかもしれない。
うがった見方をすれば、この遺跡の袋状土壙が、集落の東側にあるのは、土壙群東側の段丘崖に湧水があり、そのすぐ東に松葉川が流れているためとも考えられる。
縄文中期というのは、縄文時代の中で最も豪華に開花した時期である。その経済的基盤の一つは、袋状土壙に貯蔵された食糧だった、と思われる。
その貯蔵食糧は、単に山野に自生したものをとってきただけではあるまい、と私は考えている。しかし、不動院裏遺跡は、こうしたことについては何も語ってくれない。
袋状土壙については、日を追って資料がふえて行くが、その割には当時の意味はわかっていない。この調査で得た興味深い資料をもとに、もっと広く語りあう機会を得たいと思う。共同研究者のご来援を乞う次第である。
宇都宮市大谷寺・観音洞穴の調査
昭和40年3月、私たちは宇都宮市にある有名な大谷寺の観音洞穴を発堀していた。貝塚と同じように、ここでは、土器や石器にまじって、シカ、イノシシ、ムササビ、サルの骨や貝類がたくさん出土した。
動物は当時の人たちの食料である。普通の遺跡では手にはいらない資料。発堀は初めから色めき立ったものだ。
3月といっても、余寒はまだ厳しい。足の裏から、洞穴の湿った冷気が、ジーンとはい上がってくる。一人がシカの門歯を取上げた。「おい、これは人間の歯かい」「シカだよ。人間の歯にそっくりだが、よく見ると違う」。別の一人が口をはさむ。「人間の歯数のって何枚だい。64枚と書いた本があったぞ」
「バカ、それじゃ往復だ。お前の歯は2列か。そのうち人骨が出たら勘定してみろ」
てんやわんやのうちに、最初の人骨が飛出した。が少々おかしい。
人骨の発堀は手間がかかるし、結構むずかしい。まず、人骨ののびる方向を見定めなければならないし、もろくなった骨をあんまりていねいに堀りすぎると、計測に必要な部分を崩してしまう。
出てきた骨は幸い頭蓋である。だが、方向を見定めて堀り広げても、四肢骨が出てこない。ひからびたカンピョウのような頭骨が3つ並び、回りに手足の指の骨や、折れた骨が散らばっているだけである。
頭蓋を持上げてみると、顔面頭蓋も下顎骨もない。顔がないから、歯の勘定などできるわけがない。骨が集っている様子は、人骨のはきだめさながらだ。
土層は縄文式前期(約6000年前)。おそらく改葬のために骨を集めたのだろう、ということで一応おひらきにした。
それにしても変だ。どうして顔面やあごの骨が無いのだろう。手足の骨が足らなすぎる。ほかの骨が腐っても、一番あとまで残るはずの歯もない。
もしかしたら―と疑いもあったが、これは人類学の検査にまかせるのが筋である。写真と図面に収めて人骨はビニール袋にいれられた。
3日ばかりして、この下の土層から、屈葬になった若い男性の完全人骨が出た。ニュースバリューがある。ワッと騒ぎが大きくなった。
このあと、日本列島で一番古いといわれる土器が出た。古い石器も見つかった。相次ぐ新発見の興奮と、新聞社の報道合戦の谷間で、ビニール袋の人骨は、ひっそりと忘れられていた。
それから半年―私たちは新潟大学の解剖学教室にいた。出土した人骨を、小片教授に調べていただくためである。
話題は縄文早期の屈葬人骨が中心である。早期人骨の発見例はまれで、人類学者が興奮するのも、無理はない。
このあと、つけたりで、ばらばら人骨の件をお話しておいた。食人の可能性については「よく調べてみましょう」という返事たった。「ネズミがかじったあとかもしれないな」という教室員もいた。
それからまた半年―― ヨーロッパから帰ってきたばかりの小片さんから、役所に電話がかかってきた。かなりうわずった声である。
「やっばり食人でしたよ。はっきりした痕跡がある。すぐレポートを送ります」。
間もなく送られてきた報文に、拡大写真がついている。後頭骨の大写しで、鋭利な刃でつけた切傷が、横に数条走っている。首の筋の付着部分を切断した跡だ。人を解体した証拠である。
食料にした動物の骨には、関節の周囲や筋の付着部分、肩脚骨の突起の下などに、この切傷のあるのが普通だ。
同じものを、人骨にみた。あんまり気持のよい写真ではなかった。食べられた人は、若い成人の女性3人、乳幼児が2人、とレポートに書いてあった。
先史時代の食人は、世界共通の歴史事実である。東アジアでは、ワイデンライヒの報じた北京人類、アンダーソンの書いた沙鍋屯洞穴人、近世の日本では、天明大飢饉(ききん)の食人を、菅江真澄が記録している。アンデス山中の飛行機事故による食人が、ついこの間報ぜられた。
極限にたつと、人間は、昔から進歩していない一面を、暴露してしまうものなのだろうか。
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