http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=186318&pgh=28 【国津神、天津神とは何か】 より
●国津神=縄文人(蛇)×倭人(龍)
>あらゆるモノに神を見た縄文人にとって、大いなる地母神のおぼえ目出たき主神とは、その男根に似た形状と、10時間も絡み合うという交合に見られるたくましい生殖力を持ち、収穫物を荒らすネズミの天敵であり、そして再生=甦りを示す抜け殻を残す「蛇」であった。土器を飾る縄目の文様こそ蛇への賛歌であり祈りであり、再生への願いを込めての呪術であった。
>1万年もの長い間、なに不自由なく平和な生活を過ごしてきた森の民縄文人にとって、驚天動地の事件が勃発した。弥生の民の出現である。最初に日本の地に渡来した弥生人(*前3~4世紀)の多くは、おそらく春秋・戦国時代を制した(秦に代表される)黄河文明の圧力によって国を追われた、江南=長江南岸の人たちを中心とする(竜をトーテムとする)竜神信仰族の人たちであった。
>『魏史倭人伝(三国志・魏書東夷傳・倭人)』に「水に潜って魚やアワビを捕る。断髪しており (顔や身体に)入れ墨をする」と書かれた倭人の風習は、まさに江南人の特徴である。長江流域特に江南は、日本の西半分にも繁茂する照葉樹林地帯であって、中尾佐助の謂う「照葉樹林文化」を共有するところから、共通した基層文化を持つ竜神信仰族と先住の蛇族とは、おどろくほど容易に混血していっただろう。こうして生まれた「縄文×弥生」という混血種族こそ、オオクニヌシに代表される(広義の)「国津神」であった。
●天津神=鉄族(太陽信仰族)
>弥生後期にはより国家統一意識をもった種族が渡来する。彼らこそ鉄という利器を携えた、あるいはいち早く「鉄族」を同化・融合していった太陽信仰族=アマテラスを主神とする「天津神」である。
http://www.geo-yokoi.co.jp/News/Okinosima.html 【沖ノ島の謎(日本古代史の闇)】より
蛇神信仰は古代からユーラシアから新大陸まで広く行われてきた習俗で別に珍しくはない。蛇神信仰の始まりは、蛇は脱皮を繰り返しその都度新しい個体となる。これは死と再生の繰り返し、つまり永遠の生命を物語る。更に一度に多数の卵を産むので豊穣のシンボルともされる。更にネズミやモグラなどの土地作物を荒らす小動物を捕食する。これらの点から一般には蛇神は農業神とされる。
一方脱皮による変身から、これを金属精錬に伴う変成のシンボルと考え、金属神とするケースも多い。例えば蛇はインド錬金術では水銀のシンボルであり、中国では金のシンボルとなる。ギリシアでも金銀財宝、富のシンボルとされる。つまり蛇は財宝神ともなった。今でも大阪では蛇を「みーさん」と呼び、出会うと縁起が良いとされる。
ではヤマトのオオモノヌシはどのタイプだったのか?
先に挙げた箸墓伝説では、オオモノヌシは天地を鳴らして三輪山に帰ったというから、これは雷神である。雷は雨を伴うからオオモノヌシの属性に農業神・・・特に稲作・・・があったのは間違いない。一方、オオモノヌシが鎮座する奈良盆地南部は、先に述べたように、当時東アジア有数の水銀産地だったから、金属神としての属性も捨てきれない。一般に記紀神話で語られる出雲のヤマタの大蛇はスサノオ=天津神に対抗する抵抗勢力の様に語られるが、実体はむしろヤマトと一体化したヤマタ族とでもいうべき部族で、列島に鉄の採掘精錬技術を伝えた集団だろう。その起源はずばり朝鮮半島南部加羅国のあたりのはずだ。そして朝鮮半島南部から済州島にかけては、最近まで蛇神信仰が残っていたのである。
朝鮮南部の伝説に、ある王女が僧と通じたため、箱に閉じ込められて海に流された。ついたところが済州島で、その時王女は蛇に変身し、更に6個の卵がいた。このうち一つは穀倉で飼われて穀倉神となり、一匹を祀ると、家は大いに富栄えたというのがある。つまり、蛇神は農業と財宝の二面性を持っていたことになる。
では大嘗祭とは何か?その起源は古代蛇神信仰にあり、おそらく朝鮮半島からやってきた蛇神を信仰するオオモノヌシ族と、これもその前に中国本土あるいは朝鮮半島から渡ってきた稲作農耕民ヤマト族との一体化を確認する儀式である。儀式後、大嘗殿は取り壊されるがこれは蛇の脱皮を象徴する儀式と考えられる。そう考えれば、日本では伊勢神宮始め、住吉大社、出雲大社等の大手国津神神社では式年遷宮が行なわれる。これも蛇の脱皮の象徴化か?以上は大嘗祭に対するフレーザー流あるいは柳田流解釈。無論、折口民俗学派はこれを受け入れないだろう。(終わり)
(19/11/26)
オオモノヌシの目的はさておき、これが国津神のドンとなったのは事実。ヤマトにやってきた天津神(後にカンヤマトイワレヒコと呼ばれる人物に率いられた集団でとりあえずジンム族*と呼ぼう)は物部氏の支持でヤマト支配権を得たものの、まだまだ祀ろわぬものが多い。それは各地の既存勢力(国津神)である。例えば中国の出雲や吉備族。北陸のコシ族、東海の尾張族等である。その他関東には蝦夷、九州にはチクシや隼人など。
これらを制圧するにはオオモノヌシの支持と援助が無くてはならない。その同盟関係を確認する儀式が大嘗祭だ。その後これが天皇代替わり毎に行われるようになった。これは別に珍しいことではなく、一般に朝貢関係にある二国の内、貢納国が代替わりするとき、両国間で代替わりを確認する儀式は普通に行われいた。
では大嘗祭のもう一つの主人公であるオオモノヌシとは何者か?古事記崇神天皇紀に、王女のヤマトトトヒモモソ姫の下に毎夜一人の貴人が現れた。ある時姫が「あなたは誰ですか?」と尋ねると貴人は「私は三輪山の7オオモノヌシである。人ではない。決して私の姿を見ないように」と云ってカーテンの陰に隠れた。しかし好奇心に駆られた姫がカーテンを開けるとそこには一匹の小さな蛇がいた。するとたちまち元の貴人の姿に戻り「あなたは私に恥をを搔かせた」と云って、天地を鳴らして三輪山に帰って行った。その後モモソヒメは自分の櫛で陰部を突いて死んだ。そんなことで死ねるのかなあ、と思うのは後世の俗人。姫の亡骸を葬ったのが今の箸墓古墳と云われる。
また同武烈天皇紀では、天皇の威に祀ろわぬオオモノヌシを退治しようと、三輪山に棲む大蛇を引きずり出して殺してしまったという。その祟りか応神王朝は武烈天皇で途絶え、20年近いブランクを経て継体天皇がスメラミコトとして即位した。継体が現天皇家の直系の祖先である。この時継体擁立に動いたのが物部氏である。つまりその後の継体王朝の成立には物部氏(=オオモノヌシ)の存在が欠かすことが出来なかった。この関係の確認がその後の天皇代替わりの儀式となったのである。つまり国津神の大ボス、オオモノヌシの正体は蛇である。これは、日本古代史を考える上で、結構重要な視点である。
なお神武東征紀でもヤマト五王はイワレヒコをトップに推戴するには異論があった。しかし最終的に物部がイワレヒコ支持に回って結論がでた。この点が継体帝擁立とそっくりなので、古事記神武東征紀は継体天皇紀のパクリではないかと噂される所以になっている。
と考えると大嘗会で、天皇の前の長い寝台に横たわるナニモノか何かが分かる。ズバリそれは蛇である。しかし現代では本物を使うとは思われず、せいぜい稲わらで作った模造品だろう。例えば今でも京都鞍馬寺では、稲わらで作った大蛇を僧兵が切断するという儀式が行われている。しかし上代では本物を使った可能性は高い。
こんな恐ろしい儀式に耐えられる人間はそうはいない。それに耐えられるからこそ、大王でありスメラ尊と讃えられるのだ、という見方もあるだろう。確かにそうかもしれないが、その後蘇我氏によって物部氏は滅ぼされ、天皇家のイデオロギーが仏教主流になるにつれて衰退していった。
大嘗宮儀式が近づくにつれて、マスコミには深夜の秘儀を天皇とアマテラスとの会話の儀式と云う解説が出回っている。しかし筆者はこの類の解説を全く信用していない。おそらく大嘗祭公開のために、アベの威を汲んでアベ派の学者が苦し紛れにねつ造した与太話である。
まずアマテラスは太陽神であり、真夜中に現れるはずがない。世の中に出ている図像ではアマテラスは常に立像である。寝台に寝そべっている姿など見たことはない。おまけにアマテラスは処女神である。アマテラスの夫は誰か、記紀には何も書かれていない。つまりアマテラスは未婚なのである。
太陽神であるアマテラス(=天津神)に対し深夜に現れる神とは、即ちアマテラスと対立する国津神のシンボルでなくてはならない。それは本来、かつてアマテラスと対立し出雲の国津神と合体したスサノオの役割だったはずだが、ヤマトに来てオオモノヌシに変化したのだ。
深夜男(天皇)と未婚女(アマテラス)が寝台を共用するなど、殆ど不倫の世界である。尤も後世平安期では源氏物語のような不倫小説ができたから、ヤマト世界では不倫は当たり前だったかもしれない。つまり大嘗祭で天皇がアマテラスと会合するという説は明治以降、天皇を政治的に利用するために創作された一神教神話である。
オオモノヌシ神話の根底にあるのは、古代の蛇神信仰である。古代蛇神信仰はユーラシア各地にみられ、新大陸にもみられる。ユーラシア大陸東端の日本がその例外とは考え難い。
*これが結構ややこしい集団で、戦後江上波夫はこれを大陸起源の騎馬民族集団とした。現在では江上説は否定されているが、否定根拠は甚だ乏しい。筆者は江上説を執る。・・・・・・・・(2) (19/11/13)(続く)
大嘗祭に関する解説本は書店に行けばいくらでもあるのでここでは述べない。筆者自身よく分からない。筆者が興味を持つのは大嘗祭の最期に行われるクライマックスと云える大嘗会という儀式である。これは当日深夜、大嘗祭正殿で天皇一人が行なう儀式で、長らく絶対秘儀とされ、天皇以外の何物も見てはならないとされる。皇后以下皇族、百官は正殿外で待機するのみである。
とはいうものの、秘儀の中身はなんとなく漏れ出てくるものである。世間に出回っている情報を総合すると概ねこんなものらしい。
1、正殿の奥に長い寝台があり、そこに”ナニモノ”かが横たわっている。
2、天皇はその前にぬかずき、その年の新米で出来た飯と酒を献上する。
3、ナニモノかと天皇は飯と酒を頂き、これにより天皇は神威を得る。
とされる。
しかし不思議なことがある。天皇はそもそも生れた時から神(現人神)である。そうなら別に別に改めて神威を得る必要もないはずだ。ここに日本の神の二重性が現れる。筆者のコラムでは何度も出てくるが、日本神話の特徴に天津神と国津神の二重性がある。この二重性は現在でも政治特に保守政治に顕著に表れる。つまり本音と建て前の使い分け。関電高浜事件に見られる、国家権力と地方勢力の二重性である。
天津神とはアマテラス大神を主祭神とする勢力で、現在では伊勢神宮を中心とする。但し初めから伊勢にいたわけではなく、元はヤマトの石上神社にいたが、国津神のボスであるオオモノヌシに追い出されて、丹後元伊勢(天橋立の対岸)を経て、伊勢に落ち着いたのである。この眷属を天津神という。
これに対する勢力が国津神である。これは天津神(つまりアマテラスとその眷属)がやってくる前から、列島に住み着いていた先住民の神である。これも一様ではなく、地域時代によって様々なグループがある。
一つは元々列島に住み着いていた縄文人の神々で、これらの多くは河、山、海などの自然現象を神格化したもの。具体的には立山明神とか富士権現、早池峰明神などで、これらは後に日本神話に取り込まれ、更に仏教と混淆して山岳信仰の対象となった。
次に興味が引かれるのが金属神である。この神は多分朝鮮南部に起源を持ち、大陸状勢の不安定化に伴って列島に渡来し、主に鉄の採掘精錬技術を伝えた。彼らはまず出雲に植民し、更に北陸から東北まで伝播していったようである。出雲のヤマタ族や各地にみられる”イ”が頭につく部族がこれに該当する。
もう一つ重要な金属民は水銀族である。奈良県に多くみられる”丹生”という地名は水銀産地のことで、水銀採掘を目的として列島に渡来してきた民族がいる。その神は丹生明神(権現)に当たる。これは重要だから是非覚えておいてください
そして最後にやってきたのが稲作を列島に伝えた神々。その象徴がアマテラスの子で瑞穂の国に降臨したとされるニギハヤヒ。ところがこの子孫がカンヤマトイワレヒコに抵抗したナガスネヒコ。一体どっちがどうなのか訳が分からなくなるのである。
このように国津神と云っても地域によって様々な種類がある。これらが全て一致団結しているはずがない。記紀ではこれらの国津神を統合したボスが大和のオオモノヌシとされる。しかし日本列島は細長い。ヤマトに従わない地域も数多くあったわけで、それらが全てオオモノヌシに従ったとは考えにくい。おそらく奈良盆地とその周辺、せいぜいいわゆる五畿内と出雲、その周辺地域だろう。しかし天津神勢力が列島に広がるにつれ、その地域の国津神もオオモノヌシの支配下に落ちていった。
この国津神に対立するものが天津神である。では天津神(カンヤマトイワレヒコ=神武天皇)は何時頃やってきたのか?筆者はせいぜい4~5世紀頃。まずヤマトに侵攻しヤマトの国津神を支配下に置いたた。この時の大和国津神の代表がオオモノヌシ(=物部氏)。記紀によれば天津神に侵攻に対し抵抗を唱えたのはナガスネヒコのみ。さてどうするかとウロウロしているとき、ヤマト五王の内最も有力だった物部氏が天津神受け入れを表明したため、ヤマトは一気に天津神受容に傾いた。この物部氏の氏神がオオモノヌシだったのである。
ヤマトに侵攻したばかりの天津神は海賊に毛が生えた程度の弱小勢力だった。思はぬ偶然でヤマトの支配者(=スメラミコト)になってしまった。これを維持するにはやはりヤマト国津神(=オオモノヌシ)の支持・援助が無くてはならない。ここに天津神と国津神の権力の二重性と共存関係が産まれた。この関係を象徴する出来事が天津神のトップである神武天皇と大和大神神社の巫女であるホトタタライスケヨリヒメとの婚姻である。大神神社の祭神はオオモノヌシで日本最古の神社とされる。又イスケヨリヒメは摂津三嶋氏(これも国津神)の王女で、母のヤソダタライスケヒメがオオモノヌシと通じて生まれたとされる。この後ヤマトは周辺諸国に支配権を伸ばしていくが、常に国津神の支持・援助に頼っている。例えばヤマトタケルの関東遠征は東海の国津神である尾張氏の援助が無ければかなわなかったろう。
では何故天津神はヤマトに侵攻したのか?またオオモノヌシはどうして他の国津神に対し優位にたてたのか?それはヤマト水銀の利権である。水銀は金鉱石と混合して加熱すると金の水銀アマルガムを作る。更に加熱して水銀を飛ばせば後に金が残る。このように水銀は金の精錬に不可欠の物質だった。古代では水銀は金と同価格で取引されたと云われる。当時ヤマトは東アジア有数の水銀産地だったのである。これを求めて大陸から多くのの渡来人がやってきても不思議ではない。オオモノヌシを氏神とする物部氏は水銀採掘・精錬にも長けた技術者集団で、それを背景にヤマトに大きな勢力を張っていたと考えられる。 ・・・・・・・・・(1)(19/10/23)
いよいよ始まる天皇即位儀式、大嘗祭。果たしてこの祭儀は何を意味するのか?世の中みんな、これを単なるお祭り儀式と思っているようだがとんでもない。これこそ日本人という集団あるいは集合無意識を作り出した密議なのである。以後、この儀式と日本古代史について検討を加える。
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