Facebook・清水 友邦さん投稿記事
アマテラスが生まれたのは伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)が「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」(つくしのひむかのたちばなのおどのあはきはら)で禊祓(みそぎはらい)をした時と古事記と祓詞(はらえことば)に記されています。
小戸の阿波岐原(おどのあはきはら)は現在の宮崎市阿波岐原森林公園の江田神社あたりと見られています。
全国の神社を回っているうちにアマテラスに関わる人物が三人いることがわかってきました。
ヒルメノムチ(大日女貴)とニギハヤヒ(饒速日命)とセオリツヒメ(瀬織津姫)です。
2019年7月に屋久島を訪れた際に宮崎の江田神社を参拝してきました。
おかげで宮崎市と都城市はアマテラスと関係が深いことがわかりました。
都城市には神武天皇が生まれた狭野(さの)神社があります。
神武天皇の最初の妃の日向国(ひむかのくに)の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)の出身も南九州でした。
神武天皇の父親のウガヤフキアエズが生まれた鵜戸神宮(うどじんぐう)も宮崎県日南市にあります。
薩摩藩が編纂した三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)によると都城の地は、神代の時、皇都があった場所とされています。
高原町の霧島東神社の泉は忍穂井(おしほい)と呼ばれています。
伊勢神宮に上御井神社(かみのみいのじんじゃ)がありますがここの井戸は高天原の忍穂井(おしほい)から水を移したと伝えられています。
伊勢神宮と霧島東神社の忍穂井(おしほい)はアマテラスの長男のオシホミミ(天忍穂耳)を連想させます。
オシホミミ(天忍穂耳)とタカミムスヒ(高皇産霊)の娘の栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)命の間に生まれたのがニギハヤヒとニニギです。
ニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズの親子三代は皇室の祖先です。
オシホミミの母親はアマテラスですが父親が記紀では不明です。アマテラスが父親なしに一人で産んだことになっています。
オシホミミの父親の名前を出すことは王位継承の正統性に都合が悪かったのでしょうか。それとも古代は母系だったので父親は重要ではなかったのかもしれません。
ニニギと日向一族は最初、南九州に勢力を持っていたようです。
ニニギとコノハナサクヤ姫(木花咲耶姫)、ホホデミとトヨタマ姫(豊玉姫)の婚姻関係はどちらも子供ができると別れてしまいました。
母系の先住民と父系の天孫族の結婚は、子供をどちらの親の家で育てるのかといった伝統が異なり、現代のような婚姻の継続が難しかったのでしょう。
ウガヤフキアエズは自分の乳母で母の妹のタマヨリ姫(玉依姫)と結婚して神武天皇が誕生しました。
母の妹と結ばれるのは現代からすれば奇妙な話ですがトヨタマ姫とタマヨリ姫の実家のワタツミ(綿津見神)は九州の有力豪族でした。
日向三代は地元の有力先住民と婚姻関係を結んで徐々に勢力を広げて行ったのです。
詳細な考察した古代史の専門家によると皇室の先祖アマテラス(天照大神)は特定の政治的理念に基づき、皇室の祖先として造型された神、あるいは元来、太陽神であったのが、やがて大和朝廷とかかわりを持ち皇祖神に格上げされたという説が大勢をしめています。
信仰の形態は血族による村落が形成されると自然崇拝から祖霊信仰に変わり、先祖を部族の守護神として大切に祀るようなりました。
靖国神社に祀られているミコトは戦争で亡くなった方々です。神社に祀られているミコトはすべてかつて日本列島に住んでいた先祖の名前です。
先祖は全てミコトなのです。
勢力を拡大した首長の祖先の霊廟となったのが神社だったのです。
弥生は国津神のアマテラスと天津神のアマテラスの二重構造になっています。
部族の権力構造が変わるたびに太陽神の神格を権力者の祖先神が受けついでいったのです。
https://www.webbanana.org/goroku/2017/02/15/213.php 【縄文と弥生そして天皇と有力者の二重支配の原点について考えてみる】 より
普通に考えれば、次のような区分けになる。
<縄文> <弥生>
文化センスが高い 稲作、養蚕
国津神 天津神
スサノオ、大国主 アマテラス
関東 関西
出雲(島根県) 日向(宮崎県)
長頭 短頭
弥生人に滅ぼされた?天皇家の祖先?
最後の項目にあるように、一般的には大なめ祭など天皇が行う儀式を見ても稲作が豊作になることを祈願するものが多く、普通に考えれば天皇などの皇室は弥生人と思われる。
しかし、写真画像が残る明治以降の天皇家の人々の横顔を見ると、縄文人の大きな特徴である「長頭」が多いことがわかる。
日本列島がユーラシア大陸と地続きだった頃(2万年より前の時代)に日本で暮らし始めた縄文の人々は人数が多かった。
三千年前に船で日本にやってきた弥生人はその人数が限られていた。
寒冷化によってユーラシア大陸を旅立つことを選択した弥生の人々は、穀物のタネをもって、温暖で暮らしやすい日本にやって来た。
日向などの海岸近くの平野を耕作して穀物を作っていた弥生の人々を見て、縄文の人々は羨ましかったに違いない。
そのタネをもらい耕作方法を学ぶ中で、弥生人が「上」で縄文人が「下」という上下関係ができた。
弥生の人々が大多数の縄文の人々を平和裡に従属させるために行ったこと、それは、その三千年後に日本国で内乱やゲリラ活動が起きないように、米国人が日本人を占領するために用いた方法と全く同じ手法だった。
縄文の人々が信奉する縄文の長を王としてそのまま担ぐことで、縄文対弥生の戦いをせずに実権だけを弥生の人々が担うことを選んだ。
弥生時代の弥生人 飛鳥時代の蘇我氏 奈良時代・平安時代の藤原氏をはじめとする貴族と呼ばれた人々 鎌倉時代の源氏・北条氏 室町時代の足利氏 安土桃山時代の織田氏・豊臣氏 江戸時代の徳川氏 明治時代の薩摩藩長州藩による政府 大正時代の大正政府 昭和時代の昭和政府・自由民主党政府 平成時代の自由民主党政府
弥生時代以降、天皇家はアイコンとして君臨していただけで、実権はその時代時代の有力者が政治を行って来たのである。
その権威と権力を分離した二重支配とも言える構図は、縄文の人々から弥生の人々に有力者が変わった、いわゆる「国譲り」と呼ばれている有力者の変化から始まった日本独特の文化そのものなのである。
二重支配構造が他の国々には全く見られない日本独特の仕組みなのは、人々が暮らす日本列島が1億2千万もの人々が平和に暮らすことを許容する環境だったことがもたらしたものなのである。
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