https://kobayashihideo.jp/2018-08/%E7%B6%9A%E3%83%BB%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E3%81%AB%E3%81%AF%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B/ 【続・諏訪には京都以上の文化がある】 より
下諏訪温泉のみなとや旅館を出立しようとした際に、女将さんに、「是非見学しなさい」と勧められた諏訪大社前宮と上宮の間にある歴史資料館とは、正式な名称を神長官じんちょうかん守矢もりや資料館という施設であった。茅野市宮川の地に建っており、下諏訪からは諏訪湖をぐるっと反対側に回りこんだ方向で、中央自動車道の諏訪インターの裏側の山麓に位置している。上社本宮と前宮を繋ぐ県道の中間よりやや前宮よりになろうか。しかし、それを目指して意識していないかぎりほとんどの人間は資料館の存在には気付かないで通過するだろう。私たちも本宮参りの後、前宮へ向かいつつ「このあたりのはず」と探していたのでなんとか見つけることが出来たと思う。「神長官守矢資料館」という案内板こそあるものの、県道から山側へ入るところにクルマ5台分ほどの駐車場らしき空地があるのみである。そこから山へ向かう細道をしばらく歩くと右手に資料館らしき建造物が見えてくる。それほど大きくはないが、片流れ屋根が2階から1階へ大きく広く設置された、やや奇抜なデザインである。入ってみて建築家・藤森照信氏の設計になることと知った。氏は茅野市内の生まれという縁で依頼を受け、その基本設計にはこの敷地の主、守矢家の長大な歴史を踏まえたイメージから発想されたというものである。
まず、資料館に入ってみる。入口で履物を脱ぎ、スリッパで館内へ進むと学芸員の方が説明してくれる。誰もいないので暇なのだろうか、しかし、今日は土曜なんだがな、と思いつつ説明をお願いする。展示物は入口から奥へ拡がるロビーとその奥の部屋のみとそれほど広くないが、入った右手の壁面を見ると一驚せざるを得ない。壁の下から3メートルほどの高さまで、一面に牡鹿の頭と猪の頭がビッシリと据え付けられている。往年の狩猟愛好者とかハンターが、自らの獲物の首から角の生えた頭部を剥製にして飾り付けているリビングの装飾品のあれだ。 動物愛護が通念となった今からは、悪趣味極まりないかもしれないが、その鹿、猪の頭部がズラッと20ばかり並んでいる。その手前には串刺しにされた兎が立てられ、その横にはなにやら妙な串焼き肉のような黒ずんだ物体が何本か立っている。説明を聞きながら解説板を読むと、黒ずんだ物体は、鹿の脳みそ、猪の頭皮や鹿肉。レプリカではあるが、供え物として陳列されている。鯉らしき魚類もある。
つまりこのグロテスクな陳列物は総体としてなんなのか。「なんだと思われますか」と聞かれたってこちらは圧倒されてため息くらいしか出ない。で、聞いてみると、これらはすべて生け贄であり、諏訪大社上社の祭である「御頭祭おんとうさい」の時に神前に捧げられる供物を再現したものだという。そして、その祭についての説明が始まる。本来は旧暦3月に行われた祭祀だが、現在は4月15日に行われており、上社前宮の祭祀として位置づけられ、上社にあっては御柱祭に次いで重要な神事であること。資料館の復元展示は、江戸後期の紀行作家・菅江真澄が当地の祭礼を見て描き残した絵と祭の様子の記事を元にしているらしい。その記事によれば、神への供物は鹿の生首75頭分が並べられており、足りない場合は猪の首で補ったなどかなり詳細な内容を持っており、つまり江戸期に行われていた「御頭祭」の祭事内容が髣髴とするものだという。なぜ75頭かは不明というしかないが、少なくとも例年の祭祀に臨んでその数の鹿を狩っていたということにはなり、他の動物、魚類の生け贄なども含めれば、相当大がかりな狩猟をこの祭祀のために繰り広げていたわけだ。また、奥の部屋には鎌倉期から伝承されている古文書類や、この地に幾つか発見されている遺跡の出土品などが展示されている。しかし、もうこちらは「御頭祭」が頭から離れない。さすがに現在は3頭ほどの鹿の剥製頭部を捧げるくらいにされているそうだが、こんな祭があったことはまったく知らなかった。諏訪出身の友人もいるが「御柱祭」以外の祭について聞いたこともないし、相手から話してくれたこともなかった。四社参りの経験がある者には分かるが、上社本宮は下社秋宮に匹敵するか、それ以上の広さと拝殿などの神社としての設備が整っている。それに比べれば、上社前宮という社は本当に小規模なもので、山内に御柱4本がそびえ立つものの、あとは小ぶりな本殿(諏訪四社のうち唯一の本殿)とその手前の拝殿くらいしか目につかない神社である。しかし、諏訪四社の内もっとも古い社とされ、ある意味ではこの神社本来の原始自然信仰を伝えているような佇まいとも言えるかもしれない。ご神体である守屋山へ向かう登山路の中腹に鎮座する前宮のそこここに古びた遺物、遺跡が散在しており、その一つ一つを丁寧に見て歩くとすると、半日くらいは要するのではないかと思われるほどだ。それだけに現代風のお宮参りを提供するのは本宮へ譲っているようにも見える。本殿前から踵を返して、急な階段と坂路を降っていくと、思いのほか近くに、八ヶ岳がパノラマのように浮かんでいる。蓼科山、天狗岳、横岳、少し奥に赤岳の頂が見えている。かつて何度も登った山々をこうしてしばらくの間、見渡しているとしみじみとしてくるものだ。
それでは「御頭祭」とはなにか。この祭祀において祭られている神とはなんという神なのか。
神長官守矢資料館の復元供物の壁横にその由緒が掲示されていた。
守矢家について
(守矢氏は)今から千五・六百年の昔、大和朝廷の力が諏訪の地におよぶ以前からいた土着部族の族長で、洩矢神と呼ばれ、現在の守屋山を神の山としていた。しかし、出雲より進攻した建御名方命タケミナカタノカミに天龍川の戦いに敗れ、建御名方命を諏訪明神として祭り自らは筆頭神官つまり神長官となった。中央勢力に敗れたものの祭祀の実権を握り、守屋山に座します神の声を聴いたり山から神を降ろしたりする力は守矢氏のみが明治まで持ち続けた……
これはおそらく守矢家に伝わる物語をまとめたもののように思われるが、つまり、現在の諏訪信仰の核としてある出雲系建御名方命信仰以前の神が、守矢氏が祭ってきた「洩矢神」であったという説明である。こうした経緯を踏まえて前宮こそが諏訪信仰発祥の地とも言われることになったようだ。さて、資料館での説明を聞き終えて外へ出て引き返す途中、資料館の入口を出た右手奥に大きな屋敷があり表札には「神長官 守矢」とある。ここが現在の守矢氏の住居であり、守矢家の祈祷殿もその前までは入ってよいようである。そして、もう一度資料館入口へ戻り、資料館を過ぎて山へ向かう小道を上がっていくと開けた草地に出て、そこに小さな社が見つかる。ここに祭られている神が「ミシャグジ神」とあり社殿は御左口神社と立て札がある。社殿の四隅には小さな御柱が立てられている。茅野市教育委員会の説明板もあった。
神長官邸のみさく神境内社叢
……みさく神は、諏訪社の原始信仰として、古来専ら神長官の掌る神といわれ、中世の文献「年内神事次第旧記」・「諏訪御符札之古書」には「前宮二十の御左口神勧請・御左口神配申紙は神長の役なり」とある。このみさく神は、御頭(おんとう)みさく神ともよばれ、諏訪地方みさく神祭祀の中枢として重んじられてきている。
ミシャグジ神、ミサク神、洩矢モリヤ神、そして祭主としての守矢氏、しかし、現在の御頭祭を掌っているのは上社前宮であり、祭神は八坂刀売神ヤサカトメノカミすなわち建御名方命の妻となっているのである。そして、上社前宮、本宮ともにご神体は守屋山となっている。特に本宮には拝殿はあるが本殿は存在しない。これは下社春宮、秋宮も同様である。
はてさて、摩訶不思議というか奇怪な信仰形態が残存するのがまさしく諏訪という土地なのだといまさらながら思いながら帰途についたが、中央道をドライブしながらも諏訪信仰の複雑なイメージが頭から拭い去れない。そう言えば、新田次郎が故郷(上諏訪・角間新田)の想い出としてどこかで書いていたが、上諏訪から霧ヶ峰の方へ上るとやはり諏訪大社の祭祀の遺跡という場所があったという。八島ヶ原という土地で御射山ミサヤマ祭マツリが大規模に行われ、中世からは北条氏など武士が中心になって御狩の神事が行われたという。もちろん現在でも上社、下社の両社とも御射山祭が執り行われているが、ミサヤマという名称もまた気になるところなのである。「諏訪にまつわる神名には、なんとなくアイヌ語に近いような語感が漂っている気がするね」などと話しつつ諏訪の旅を終えた次第。
さて、この信仰の対象となった神の名について思い巡らすと、ミシャグジシンという音からは、シャグジ、シャクジンを連想するのは自然だろう。シャクジンとは「石神」であり、柳田国男の最初期の論考『石神問答』(明治43年)で説かれたもので、村々の土地、領域の境目に祭られた神、「塞の神」すなわちサイノカミ、サエノカミと言われ、外来する悪霊や疾病を防ぎ止める防災神を想定していた。これはまた、いわゆる道祖神信仰の源流をも示唆していた。また、このシャグジ、シャクジン、ミシャグジと呼ばれる神のほぼ関東一円の分布状況を指摘しており、事実、現在においてもこの神の社は読み方の多少のズレはありつつも、広く定着しているようだ。しかし、こうした神の性格に基づけば、境界にあって守護をするという位置づけを重視することになり、この神に生け贄を捧げて大がかりな祭祀を行うというのもちょっと考えにくい。また、石、岩という特定の自然物が神の降臨地、顕現地を示すことも連想するならば、磐座イワクラとしての信仰という側面も見いだせないこともない。
それでは、ということで諏訪信仰に関わる文献を幾つか繙いてみると、ミシャグジ神に隣接、関連する神名が次々に現れてくる。漢字表記で、御左口神、ソソウ神、チカト(千鹿頭)神、ますます謎は深まるばかり。諏訪周辺に散在する考古学的遺跡、古墳の数々とその出土品の特徴などから古代諏訪地方の信仰を考察する研究もあり、その時間的空間的な拡がりは日本列島内にとどまらない様相を呈している。たとえば縄文期の遺跡としては八ヶ岳周辺から出土される黒曜石で作られたヤジリなどの製品類、これはこの山域に豊富な黒曜石の鉱脈が存在したところから有力な生産地(採掘跡の遺蹟もある)として他地域とのさかんな交流を跡づけるものとされ、諏訪湖を巡る高台には多くの縄文期の遺跡が発掘されている。また、諏訪湖から天竜川が流れ出る地、岡谷市の周辺では、弥生期の集落遺構や、5~7世紀にかけての古墳群が分布する。その中にはいわゆる前方後円墳の形式を持つものも見受けられ、大和朝廷に属する有力な豪族の墳墓と考えられてもいるようだ。これは長野県の地図を開いてみれば一目瞭然とするが、岡谷から辰野、そして伊那谷にかけては天龍川に沿って緩やかな平地が拡がっている。そこは豊富な水資源に基づいた稲作の好適地とみなされたはずで、同様に塩尻峠の向側から松本、大町に到る犀川から、姫川に沿って拡がる平地もまたそうである。つまり山岳近辺には縄文期の遺跡があり、大きな河川に開かれた平地には弥生期の遺跡が見られるわけだ。そこに狩猟民族と稲作民族との時間的な前後関係から、そのどこかで接触、葛藤、そして融合という二元的かつ重層的なあり方が長大な歴史の流れを経て、現在の同一空間内に併存している状態が考えられることになる。
特定の氏族が先祖代々の居住地を移動するということは、現在の我々にはなかなか実感が湧かないが、たとえば北アルプス上高地、大正池から遙かに望む穂高岳連峰の穂高とはもと穂高見命ホタカミノミコトという神の名であり、大綿津見命オオワタツミノミコトの子とされる。つまりもともと海人、海洋民族の神であり、その子孫が安曇氏である。もと北九州、志賀島を本拠としていた氏族とされ、天龍川を遡って塩尻峠を越え、松本の北方、安曇野にその名を残している。もちろん穂高神社をこの地に祭り、上高地には奥社、奥穂高岳山頂には嶺社を祭っている。その海洋民族としての記憶は例大祭の「御船神事」、船型の山車に残存していると言われる。そして、この民族も諏訪に関わっているという説もある(穂高見命の妹が、八坂刀売命=諏訪下社の祭神)。
また一方で『古事記』、『日本書紀』に登場する「州波」、「須波」=「スワ」の地名が現れる文脈、『古事記』の建御名方神の諏訪地方封印の物語もさることながら、『日本書紀』持統天皇五年六月の記事に注目する金井典美氏の論考を紹介したい(注)。当該記事に見える「須波」は、この年四月から続いた長雨の被害について、公卿、役人たちに酒肉禁止の精進をさせ、都と畿内の寺々の法師には経典朗唱をさせて降雨の沈静化を祈ったということの後に、
辛酉に、使者を遣して、竜田風神、信濃の須波水内等の神を祭らしむ。
と記す箇所に金井論は注目して、「信濃の須波水内」とは、現行の註釈書類に説かれている「須波」と「水内」の二箇所の信仰地名ではなく、「スワノミズチ」、つまり諏訪湖の蛟ミズチ=蛇神を示すのではないかという推測を展開している。つまり、持統紀五年の記事において古代諏訪神の蛇神(水神)としての神威が、時の権力者からも崇敬されていたことを読み取ろうというもので興味深い。
さらに『常陸国風土記』の「行方郡における夜刀ヤツノ神カミの説話」の記述内容を紹介して次のように述べる。
ヤハズノマタチという豪族が西の谷のアシの繁る湿地を水田に開墾したので、そこに生息していた蛇は追い払われる結果となった。しかし、蛇はその谷水田の周辺にしきりに出没したので、人々が耕作するのに邪魔になったし、その蛇を見た人の家は絶えてしまうという迷信もあって、何かと障害になった。豪気のマタチは怒って、蛇を剣で打ち殺し、谷水田の最奥部、わずかに堤を築いて池になっているところへ出て行って山に向かい、ここから上は神のすみかとして、これ以上土地を奪うことはしない。しかしここから下は人間の領地であることを認めよ。そうすれば……
以下は原文の訓読文を引用しよう。「今より後、吾、神の祝はふりと為りて、永代とこしへに敬い祭らむ、冀ねがはくは、な祟りそ、な恨みそ」と言って神社を作って祭ったという説話である。
この説話が意味しているところは、もうお気づきのようにいわゆる「蛇退治」(ヨーロッパ風に言えば、ドラゴン退治のアンドロメダ型神話)、すなわちスサノオとヤマタノオロチの物語を強く連想させるものがあるが、その前に、水田耕作地の拡充に関わる土地、特に山間部の湿地帯の侵略、略奪と、土地の神、すなわち山の神=狩猟民族との闘争と和睦、そしてその後の契約に関わる歴史を想像させるのである。
してみると、この山の神としての蛇神を斎き祭る場所は文字通りの「境界」であって、柳田国男が指摘した「塞の神」という性格もここにうかがうことが出来よう。どうやら山の神=土地の神(地霊)と水田耕作に関わる神をいったんは二元的に分離してみることによって、錯綜的かつ重層的な諏訪信仰のアウトラインは浮び上がって来るように思える。
そして、金井論では、先の引用に続けて以下のように結論づけている。
諏訪神社も祭神タケミナカタは元来出雲系の神であって、高天原の武神タケミカヅチに追われ、諏訪に入ったという神話を背負っているだけに、タケミナカタ以前の地主神への慰霊祭祀が、神社の神事・縁起のなかにはっきりあらわれている。いわゆる諏訪でいうモレヤノ神というのがそれであるが、元来は人格神化する前の土地神なのである。
このモレヤノ神の末裔こそが代々の神長官・守矢氏の一族であるようだ。神長官守矢資料館の手前にある守矢氏邸の主は、「オミシャグジさま」を斎き祭り続けて七十八代を継承する守矢早苗氏であり、『諏訪信仰の発生と展開』には早苗氏の文章「祖父真幸の日記に見る神長家の神事祭祀」が寄せられている。この守矢氏が担って来た祭祀の数々は代々一子口伝という掟が守られ、親から子へ一対一の「口碑伝授であって古代から代々先祖の歴史を、順を追って暗記させる口伝」であったという。しかし、明治五年の神官世襲制廃止に伴い明治三十年に逝去した七十六代守矢実久氏で途絶え、その一部を伝授されたのが早苗氏の祖父真幸氏であり、真幸氏の遺言により孫の早苗氏が七十八代となったが、口伝自体は伝えられなかったという。それにしても近代が喪失せしめたものの大きさを今さらながらに思い知る他にない。
前稿に記した通り、ふとした思いつきから下諏訪温泉へ足を留めたこと。みなとや旅館に残されていた小林秀雄の言葉。女将・小口芳子さんの一言。これらの偶然の連続がなければ諏訪信仰の源流を考えようとも思わなかったろう。しかし、このいくつかの偶然から展開した私の想いを先へ先へと促していた力は、小林秀雄の「諏訪には京都以上の文化がある」という言葉そのものの力に他ならない。白洲正子とともにみなとや旅館を訪れた小林秀雄がそう語ったのは、昭和55年5月とある。それは「本居宣長補記」を終了したかどうかの時と重なり合うはずである。その「補記」の終わり近くに伊勢神宮の外宮の祭神が、御食津神ミケツカミとして「食穀」を司る豊受ノ大神であることについての宣長の考えを紹介し、これを敷衍していること、それと下諏訪来訪の所感としての小林秀雄の言葉とが、私の想いの中で結びついていく。もちろん偶然かもしれないが面白いことである。
日本列島に稲作、水田耕作が伝わったのは縄文晩期と言われるが、九州から中部、関東へ伝播するのには500年ほどかかったという説もある。おそらく、自然の湿地帯への種蒔きから、人為的な湿地の耕作へと進んだのであろう。天龍川、姫川などの河口から遡っていった稲作民族の神が狩猟民族の神と出会っていく気が遠くなるほどの歴史が、現在に凝縮して一枚の巨大な壁画のように見渡せるのが諏訪大社にまつわる多様な祭祀群と考えたい。そして、宣長の述べる通り、「食穀」には、つまり、なにを主食とするかには、およそ人間生活のすべてがこれに関わっており、その神への信仰と表裏一体をなしつつゆっくりと動いて来たのであろう。こうした人間生活のすべてについて「文化」という言葉を発するべきなのだと、あの小林秀雄の言葉は、私を、強く、激しく促し続けている。
(注)金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷」(『諏訪信仰の発生と展開』古部族研究会編 1978年10月 同書は現在、人間社文庫・日本の古層④として再刊されている)また、同氏の単著である『諏訪信仰史』(名著出版 1982年4月)からも多くの教示を得た。付け加えれば、諏訪大社の祭祀や信仰に関わる書籍や研究論文、果てはインターネットサイトなど枚挙に暇がないが、噴飯物も溢れるほどあり、歴史を調査し記述するという作業にも当事者の想像力の確かさが試されるものだと痛感した次第。これは今回のささやかな作業の副産物だった。
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