黒曜石と高天原

http://blog.livedoor.jp/gaogaoshao/archives/58254871.html 【黒曜石と高天原】

あまり結びつける方はいませんが、結構関係があると思っているのです。

黒曜石の代表的産地は、隠岐の島、諏訪、伊豆、秋田、阿蘇などホツマツタエにある地名に関係があるとか、高天原説がある場所が多いように思います。

九州北部や、富士山周辺は黒曜石の産地で、かなり広域な圏域を持っていて、産地と分布が特定されているのです。

そこは、「高天原説」もあるのですが、神社の祭神も古事記にちなんだものが多く、「古代国家の存在の可能性を示唆する物的なもの、伝承的なもの」があるのです。

ホツマツタエでは、秋田あたりで、天照神が教育を受けたとあるのですが、黒曜石の産地でもあり、あながち嘘とは言い切れない。と思っています。

今後の調査の成果に期待しています。

(本州、四国、九州が統一国家で、数千年前(もしかしたら3万年前?)から共通言語と共通文化を持つヤマト国だったことをだれかに証明してほしい。

・・・と願っているのです。日本人として。古事記が語る歴史として。)

同じく日本人の起源からの転載です大陸からも求められた日本列島産の黒曜石

火山列島・日本は、旧石器時代から高品質の黒曜石を産出する場所として、北東アジアに知れ渡っていたのではなかろうか。

石器の原料に拘ったのは、なにも列島のヒトばかりではなかった。

北東アジアの細石刃技術など先端技術を駆使していた集団も、日本列島産の高品質黒曜石を渇望したらしい。

列島内に於ける黒曜石の流通をはるかに上回る規模で、列島産の黒曜石は北東アジアに拡散していたのである。

南サハリンの旧石器時代の遺跡・ソーコル遺跡には、当時陸橋となっていた宗谷海峡を陸路、白滝の黒曜石が届いていたと思われる。

しかしそれ以外の新石器時代の遺跡では、間違いなく舟が使われたに違いない。    

渡海に限らず、サカチアリャンやグロモトゥハの遺跡はアムール川沿いにあり、水運を利用して運んでいたことが明らかである。

しかも、これは列島人のほうから交易品として、大陸の方に持っていったものではあるまい。むしろ、大陸の人々が列島各地に高品質黒曜石を求めてやって来 て、持ち帰ったものであろう。隠岐や男鹿産の黒曜石は、ウラジオストク辺りから日本海を横断して来島し、潮や風向きなどを見計らって持ち帰ったものであろ う。

 以上のように、この列島の祖先たちが、どういう舟乃至は海上交通手段で、どういう操船技術で、黒曜石の塊を海上輸送したのか、実のところ明確には解らない。しかし、黒曜石という当時の最重要物資が、海を越えて運ばれたということは、紛れもない事実である。

 そしてこの事実は、この列島の祖先が、大陸との陸橋の有無にかかわらず、この列島に到達し得たという証でもある。

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諏訪というか信濃国と神津島との関係をいろいろ考えていると、おお、そうだ、黒姫がいたと想い出しました。越後国と信濃国には黒姫山という山が多く点在していますが、一番有名なのは長野県上水内郡信濃町の黒姫山(△2,053m)です。ここの黒姫伝説は中世起源のようです。ところが、越後国側へ行くと、黒姫はヌナカワ姫(奴奈川姫)です。すなわち、古事記の八千矛神=出雲の大国主命の伝説に出てくる糸魚川=姫川を司るのが奴奈川姫です。その糸魚川流域で産出される翡翠の化身の奴奈川姫が黒姫の名前を持っていたことに注目しなければなりません。おそらく、黒姫はその名の通り、黒曜石を意味していたと考えられます。その視点に立つと、信濃・越後の縄文と古墳期が一続きにつながります。そして、産鉄・蹈鞴の出雲文化とも…。

 そして、神津島ともつながっていきます。黒姫の名前は黒曜石から発したと思われます。黒曜石の縄文文化と翡翠の玉造文化は結びつきます。神津島の阿波神も黒曜石のブローチとかペンダントを身に付けていたと思いたくなりました。お土産用に開発しましょうよ!神武天皇のあと第2代天皇になった綏靖天皇(スイゼイ)は神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノスメラミコト)と申し上げますが、神と耳の間はヌナカワです。その母は媛蹈鞴五十鈴媛尊です。そのことを考えると、ヌナカワ=奴奈川と蹈鞴はつながって来る。そして、ここでは多氏がブラックボックスに入っている。

 もちろん、奴奈川姫は建御名方神の御母です。すなわち、タケミナカタが諏訪へ逃げてきたのは、母方の勢力を頼ってきたのでしょう。

 ところで、猿田彦の件ですが、サルタヒコは国津神ながら高天原と地上の境の八衢(ヤチマタ)まで出迎えることができた、すなわち、高天原の関所まで行くことが可能だった神ということになります。その顔貌は異形で、天狗の面で顕わされるのはそのためです。その顔を見たら、大概の天津神は怖気ついてしまう。ところが、その猿田彦を見て、まったく驚かなかったのが、かのアメノウズメ(天鈿女)命。天照大御神が天の岩屋戸に隠れたとき、ストリップもどきのフラメンコを踊った女神です。そのことから鈿女は芸能の祖神と言われています。そして、その八衢の出会いから猿田彦と鈿女は結婚し、その間に生まれた子ども(女系)は猿女氏を名乗り、皇室や名神大社の巫女(本来は鎮魂を担当)になります。ただし、平安時代の初めには猿女氏はどこも壊滅。サルタヒコの男系は続いたようですが、鈿女との関係で芸能を司どります。

 道祖神は地上のヤチマタ(八衢・八街←ヤ〔たくさんの〕チマタ〔岐・巷←チ(道・路)マタ〔俣・叉〕)の神として、サルタヒコを祀っています。道祖神の祠で男女が抱き合っている図像がありますが、これは猿田彦と鈿女と言われています。足柄から相模国の丹沢山系や、さらに武蔵國の秩父山脈や、甲州・信濃国にはこの系統が多いようです。武蔵国でも東京などは道祖神じたいが消えてしまっているため、道祖神・庚申塔・馬頭観音がごっちゃ混ぜというか、一緒くたというか、要するに混然一体となって、辛うじて遺っています。忘れられた、うち捨てられた路傍の神です。そういう中には意外と実は庚申様が多いのですが、石が風化して男根化。要するに、失われているけど、再びの縄文信仰のシンボル!

 神奈川県川崎市宮前区では道祖神が結構あります。宮前区馬絹の「猿田彦之尊」の御神体は石の庚申尊で、ここでは今なお庚申講が続いています。同じく宮前区平3-2-5の道祖神は「土祖大神」として祀られています。小さめのお墓のような、石の四角柱の「土祖大神」と彫られただけのものです。

 ちなみに、古事記によれば、猿田彦はのち伊勢のアザカ(三重県壹志郡)の海へ潜って漁(すなど)りしたとき、比良夫貝(大型のシャコガイ?)に手を挟まれれて溺死しています。

 神津島では道の神、道開きの神、芸能の神、漁業安全の神として祀りましょう。 

                  とほかみゑみため 拍手 菅田正昭