五穀にも数えられない蕎麦が大切にされてきた理由

https://www.fujiclean.co.jp/fujiclean/story/vol20/part201.html 【五穀にも数えられない蕎麦が大切にされてきた理由】 より

古事記では五穀を稲、粟、小豆、麦、大豆としていますが、他の書物や地域では、稗、黍、いも類、大根、胡麻などが含まれることもあります。

つまり五穀とはその地域や時代での重要な食料を指していたようです。

ところが、蕎麦だけは古くから食べられているにもかかわらず、なぜか五穀には加えられていないのです。

蕎麦の産地は厳しい気候条件で痩せた土地

信州には「蕎麦の自慢はお里が知れる」という諺があります。米を作ることのできない寒冷で、痩せた土地で蕎麦が作られてきたからです。蕎麦の産地として知られるところの多くは、火山灰で覆われ、気温の低い土地です。しかし、痩せた土地でなければ育たないというのではなく、痩せた土地でも育つということです。もちろん、全くの痩せ地で肥料を与えなければ育つことはできません。ただし、旱魃(かんばつ)にはかなり強い植物です。中国南西部の高原地帯が原産地だということからも、気温の低い土地の方が栽培に向いていますが、霜や風には弱い作物です。一方、種を蒔いてから60~70日ほどの短期間で収穫できるという特性をもっています。また、蕎麦は他の植物の発芽と育成を阻害する成分を根から出すため、他の作物を植える前後に栽培することによって、除草効果も期待できます。

かつて日本各地で行なわれていた焼き畑農業では、最初に蕎麦を植えて雑草の発生を抑える役目をさせていました。また、近世になると、凶作に備えて穀物を貯蔵しておく郷蔵が各地に作られましたが、そこに貯蔵されていたものは粟、稗、大豆、麦、蕎麦などでした。これらは、飢饉のときに村人の食料としたばかりでなく、例えば稗は30~40年貯蔵しておいたものでも発芽するので、翌年の栽培にまわすことができるためでした。そして蕎麦は短期間で収穫できるので、いざというときにはすぐに種を蒔いて食料とすることもできたのです。

蕎麦は、主食として栽培されるというよりは、水田耕作のできない厳しい土地で、主食を補う食料といった面が強かったようです。

修験者や忍者にとっても大切な食材

蕎麦で有名な地域は全国にたくさんあります。その中の一つに信州の戸隠村があります。ここではかつて麻と蕎麦の二毛作が行なわれていました。麻は麻布を織るための原料です。麻は5月のはじめに種を蒔けば、8月の上旬には収穫できます。そのすぐ後に蕎麦を蒔くのです。夏が短く稲作に不向きな山国では、麻は現金収入として、蕎麦は食料として農家の重要な作物であったのです。

戸隠を有名にしているのが平安時代に開山され、修験者の山として栄えた戸隠神社です。戸隠神社は比叡山の裏庭とまで呼ばれ、全国から多くの修験者が集まりました。かれらが修行のため山に入るときに携行したのが蕎麦でした。他の穀物のように、煮る必要がなく、水さえあればそのまま食べられる上、栄養価も高く、修行には最適の食料であったのです。しかも蕎麦は五穀に含まれておらず、年貢として取り立てられることもありませんでした。当然、密教の修行で五穀断ちをするときも、蕎麦は食べることが許されていました。そこで、盛んに蕎麦がつくられるようになったともいわれています。

戸隠は戸隠忍者の里でもありました。特異で急峻な山容の戸隠連峰が、修験道や忍者を生み出したのでしょう。忍者の非常食にも、蕎麦は重要な食材となっていました。


https://www.fujiclean.co.jp/fujiclean/story/vol20/part202.html 【条件の悪いところに蕎麦畑】より

信州蕎麦の産地として、御嶽山の麓に広がる開田村も有名です。高原の村の夏は短く、年によっては9月初旬には霜が降りることさえあります。真夏でも沢の水は手の切れるような冷たさです。水が冷たいということは、苗が育ちにくく、稲作には不利な土地柄です。村内には3か所に「稗田の碑」というものが建てられています。いまから200年以上前に、水田を拓いた人を称えたものです。稗田ということからも分かるように、水田といっても最初は稗の水田であったのです。その後、低温に強い稲の品種改良をしながら、徐々に米の水田を広げていきました。それでも、育った稲の背丈は普通の半分ほどしかなく、収穫量も半分ほどでした。収穫された米を精米しても、いわゆる屑米に近いものでした。商品としての価値はなく、米は自家消費に回されました。それでも米だけでは食料として十分ではなく、稗、粟、麦も食べられていました。

開田村でも戸隠村と同じように、換金作物として麻が作られていました。しかし、戸隠村では麻を収穫した後の畑に蕎麦を植えたのに対し、開田村では麻を収穫した後の畑にカブや野沢菜が植えられました。蕎麦は栄養分が少なく条件の悪い別の畑で作られていたのです。開田村では蕎麦の作付け面積は少なく、収穫量もそれほど多くはなかったため、蕎麦が主食の地位を得ることはありませんでした。

水があっても使えない地域

蕎麦の歴史を辿っていくと、過酷な自然条件の中で、必死になって生きる山村の人々の暮らしが思い浮かびます。 開田村の場合、50~60年前までの交通手段といえば険しい山道を徒歩で行くか森林鉄道を利用するくらいしかありませんでした。また、当時の農作業はもっぱら人の手によるものでした。もっとも、程度の差はあるにせよ、それは日本中の山村で見られた光景です。

蕎麦は痩せた土地でも育ち、旱魃(かんばつ)にも強い作物です。あえて水を撒かなくても、雨や霧からの水分だけで育つ作物です。となると蕎麦の産地は水そのものも少ないのでしょうか。

戸隠村には、親鸞聖人が訪れた際、聖人の唱えるお経に合わせて砂を舞い上げながら水が噴き出したという「念仏池」がいまも残っています。また、村内にある種池の水は、それを地面に着けずに持ち帰り、戸隠神社に雨乞いを祈願するとその里には必ず雨が降るといわれ、日照りの年には、いまも県外からも水を汲みに訪れる人がいます。しかし、村そのものが水が得られずに苦労したという話しはありません。開田村も年間降水量は全国平均より多い約2,300ミリです。そして御嶽山に降った豊富な雨や雪によって、幾筋もの沢が流れています。

信州には「蕎麦と水がうまいは自慢にならぬ」という諺があります。たしかに信州は日本の屋根ともいうべき3,000メートル級の山々が連なっています。量としての水は豊かなはずです。しかも、その多くは山から湧きだしたばかりの、汚れを知らない水です。信州では蕎麦や水がうまいのは、当り前のことです。

ところが、蕎麦の産地では水に苦労していたのです。蕎麦の産地は寒冷な気候の土地が多く、水は豊富でも水温の低い水ばかりです。そのため、米を作ることができず、蕎麦を作っていたのです。美しい水が豊富にあっても、使えない水というものもあるのです。


https://www.fujiclean.co.jp/fujiclean/story/vol20/part203.html 【蕎麦切りだけは特別な料理】より

蕎麦は日本の山村での主要な食べ物のひとつでした。しかも、必ずしも高級な食事ではなかったのです。地方によっては、三度の食事がすべて蕎麦であったところもあるようです。

戸隠村では、主食であった蕎麦は収穫して蔵に保存して、毎日その日に食べる分だけを水車で挽いて粉にしていました。開田村では主食ではありませんでしたが、やはり、その日に食べる分だけを水車で挽きました。玄蕎麦のままなら保存が利くのですが、粉にするとすぐに品質が落ちてしまうからです。蕎麦を主食としない地域では、蕎麦は主食となる稗や麦、米などと一緒に煮込んで、主食の量を節約するのに使われていました。

蕎麦は匂いを吸収しやすいため、塩素の入っている水道水で打ったり茹でたものはおいしくありません。また、蕎麦には、油物がよく合います。そのため、多少味の良くない蕎麦でも、てんぷら蕎麦にすると、おいしく感じられるといいます。蕎麦を主食としていた戸隠村では、60~70年前には焙烙(ほうろく)鍋でエゴマを煎り、そこで蕎麦を焼いて食べていたそうです。決して蕎麦は高級なものでもおいしいものでもない、ごく日常的な食べ物であったのです。

ところが、開田村では来客をもてなすときは蕎麦を打ち、蕎麦切りとして振る舞っていました。この場合の蕎麦はご馳走だったのです。蕎麦切りを作るのは手間がかかったのです。冬の夜などは、囲炉裏にかけた鍋の中へ秋のうちに収穫し、乾燥させておいたキノコなどを入れてダシを作り、そこへお椀一杯分づつの蕎麦切りを入れた「投じ蕎麦」を振る舞ったのです。おそらく大切に保存している食材を入れることによって精一杯のもてなしをしたのでしょう。

蕎麦の歴史から見えてくる水との係わり

 いまでは高級料理にも使われる蕎麦ですが、もとはといえば米を作ることができなかったため、止むを得ず食べていたという地方も多いのです。日本全国誰もが米を日常的に食べられるようになったのは、ほんの半世紀くらい前からにすぎません。ところが、水田が増えると同時に、皮肉にも食文化の多様化などによって、米食離れが起きてしまったのです。さらに減反政策もあって水田は減少していきました。

蕎麦畑の一角に立つと、彼方には雄大な山容が望めます。清らかな流れのすぐ向こうには、刈り取った稲を干すための稲木(いなぎ)の間を通して、澄み渡った青空と太陽の光、その向こうには古びた農家の納屋も見えています。蕎麦の産地として有名な、といわなければ、ここはどこにでもある、日本の原風景のひとつともいうべきありふれた農山村かも知れません。蕎麦畑が点在し、その周りに野菜畑や田んぼが広がっています。しかし、ここにある田んぼの歴史はそれほど古いものではないはずです。おいしい蕎麦を食べるには、おいしい水を使うのは当り前です。その一方で、米を作りたくても適温の水が得られなかったがために、蕎麦しか作れなかった地域もたくさんあったのです。そして、やっと手に入れた水田が今度は不要のものになろうとしています。おいしい蕎麦には、水を巡る人々の様々な歴史や思いも込められているのです。