山村の貧しい食事から代表的日本食へ

https://www.fujiclean.co.jp/fujiclean/story/vol20/part101.html 【山村の貧しい食事から代表的日本食へ】 より

まるで雪でも降ったかのように、一面が真っ白い花で覆われた蕎麦畑。

蕎麦の産地では、蕎麦畑そのものが観光名所となっています。

それらの地方には、蕎麦畑の背後に高い山がそびえています。こうした風景は植物としての蕎麦がもつ特徴と同時に、食料としての蕎麦の担ってきた歴史を表わしているのです。

稲よりも古い蕎麦

蕎麦と聞くと、ザル、モリ、カケといった蕎麦屋のお品書にでてくるものが思い浮かびます。しかし、こうした麺状にした食べ方は江戸時代以降に発達した調理方法で「蕎麦切り」というのが正確な呼び名です。かといって、蕎麦はけっして歴史の浅い食べ物ではありません。各地の縄文時代の遺跡から蕎麦の花粉や種子が発見されています。しかも縄文時代初期の約9,000年前の地層からも蕎麦の花粉が見つかっています。これは日本へ稲が伝わったとされるよりも古い時代です。

蕎麦の原産地は、中国南西部の高原地帯です。ここから世界中へ広まっていき、各国で食べられるようになりました。ただし、麺にして食べているのは日本、朝鮮半島、中国、ブータンくらいです。フランス、ドイツ、イタリアではパスタやクレープに使い、ロシアではお粥にしています。

ところで、蕎麦の字には麦の字が使われています。そのため麦と同じような種類の植物だと思われがちですが、イヌタデ、ギシギシ、イタドリ、日本のアイなどと同じタデ科の植物です。蕎麦は、古くは曽波牟岐(蕎麦ムギ)、九呂無木(クロムギ)などと呼ばれていました。蕎麦粉が麦粉に似ているからだといわれています。こうした表現は、蕎麦よりも麦の方が重要視されていた結果だといえそうです。つまり、蕎麦の方が弥生時代に日本へ伝来した麦よりも早く日本に伝わったにもかかわらず、それほどポピュラーな食べ物ではなかったということでしょうか。

フランス語で蕎麦のことを「ブレ・サラザン」(サラセンの小麦)と呼び、英語ではブナの実の形をした麦という意味の「バックホィート」と呼んでいます。ブナの実はトチの実などのようにアク抜きをしなくても食べられます。実の形も三角形で蕎麦の実に似ています。いまも各地に蕎麦粒山と呼ばれる山があります。いずれも、かつては鬱蒼としたブナに覆われた山でした。ブナの実が貴重な食料であったことを考えれば、そこに蕎麦の名前が付けられたということは、蕎麦も貴重な食料であったと考えられます。

蕎麦の実

三角形をした蕎麦の実。子実を取り除いた一番外側の殻は、昔から蕎麦殻枕として利用されてきました。

蕎麦の花

茶の伝来が蕎麦に与えた影響

 蕎麦はもともとどのようにして食べられていたのでしょうか。まず考えられるのが、籾殻(もみがら)を取り除いた粒状のまま、粥にしたり他の穀物と一緒に煮るという方法です。もうひとつが粉に挽いて調理する方法です。例えば蕎麦粉に熱湯を注いでよく練り、醤油などを付けて食べる「蕎麦がき」というものがあります。あるいは団子状にして雑炊にしたり、蕎麦の焼き餅といった調理方法もあります。ただ、粉にして食べるには製粉技術が必要です。古くからある製粉機といえば石臼がありますが、回転式の石臼は鎌倉時代に製茶用として中国から伝えられたものです。これによって、蕎麦の食べ方にバリエーションが生まれたのです。

ところで、蕎麦は石臼で挽いた方が、高速回転する製粉機を使ったものよりもおいしいといわれ、わざわざ「石臼挽き」を謳っている蕎麦屋さんがあります。高速回転する機械で蕎麦を製粉すると、発生する摩擦熱により蕎麦粉が変質して本来の味を損ねるからです。そのため、最近は摩擦熱の発生を抑える工夫をした機械もあるようです。この他、蕎麦が石臼の中に閉じ込められた状態となるので、粉も香りも逃げないとか、角が取れた丸い粒子になるなど、石臼には蕎麦粉の品質を一定に保つ働きがあり、おいしい蕎麦ができるといわれています。

蕎麦は黒っぽいほどおいしく、白いのはつなぎの小麦粉を沢山使っているためと思っている人がいます。籾殻を取り除いた蕎麦を玄蕎麦(げんそば)といいますが、これは外皮(甘皮)と子実で構成されています。この外皮も一緒に挽くと黒っぽくなるのです。木曽の開田村では玄蕎麦をすべて一緒にして挽きますが、同じ信州でも戸隠村では、更科粉、一番粉、二番粉などと挽き分けます。そのため、更科粉は見た目には小麦粉と同じように白い色をしています。


https://www.fujiclean.co.jp/fujiclean/story/vol20/part102.html 【蕎麦文化を築いた信州】より

蕎麦といえば信州が連想されます。信州が蕎麦で有名になったのは、生産高以上に蕎麦食文化と大きく係わってきたからです。

粉に挽かれるようになった蕎麦はいろいろな調理方法が考案されていきます。中にはいまでも郷土食として食べられているものもあります。信州の北を中心とした地方で「おやき」というものがあります。蕎麦粉をこね、中に野菜やあんこなどを入れて焼いた食べ物です。一方、信州の南部の開田村では、蕎麦粉だけで焼いた「へいもち」というものが3時の「おこびり」として食べられていました。これは、蕎麦粉を練って直径15センチ、厚さ2~3センチほどにして、囲炉裏の灰の中で焼き、醤油をつけて食べるものです。「おこびり」とは小昼という意味で、夕方までお腹をもたせるためで、おやつではありませんでした。山仕事のときも、へい餅を弁当として持って出かけたりしていました。

蕎麦には米や麦より良質なタンパク質をはじめ、ビタミンB1・B2、疲労回復を助けるパントテン酸などが含まれています。さらに高血圧、脳溢血、狭心症、動脈硬化、糖尿病などを予防するルチンも含まれています。ルチンは水に溶けやすいので、蕎麦湯を飲むことは、栄養の面からも大変良いといわれています。蕎麦湯を飲む習慣も信州から始まったといわれています。

蕎麦は山村における食料というだけでなく、貴重な栄養源でもあったのです。ただし、現在のような蕎麦のイメージではありませんでした。あくまでも、山村の日常的な食べ物であり、地域によっては主食として、あるいは稗(ひえ)や粟などの主食の増量材的なものであったのです。

蕎麦の地位を上げた蕎麦切り

蕎麦を麺状にした蕎麦切りにして食べるようになったのは、いつ頃からでしょうか。江戸時代の初期だというのが一般的で、現在の長野県塩尻市にある旧中山道の本山宿が発祥の地だとする説や、山梨県の東山梨郡大和村にある天目山栖雲寺だとする説があります。ところが、徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年よりも30年ほど前に、蕎麦切りが存在していました。場所は長野県木曽郡大桑村の定勝寺です。ここで発見された古文書に「そばきり」の文字が明記されていたのです。いずれにしても、蕎麦切りは信州と深い関係があるようです。

ところで、そうめんは奈良時代に、うどんはそれより少し遅れて食べられるようになりました。いずれも、蕎麦切りよりもかなり古くから食べられていたのです。蕎麦は小麦よりも前から栽培されていたのに、なぜ蕎麦切りは作られなかったのでしょうか。小麦粉にはグルテンという成分がたくさん含まれています。グルテンは粘性があるので小麦粉ならそうめんやうどんに加工することができます。一方、蕎麦にはあまりグルテンが含まれていないので、蕎麦粉だけでは麺状にしたときに、ぶつぶつと切れてしまうのです。そうした中で、練った蕎麦粉を平らに延ばし、きしめんのように幅広く切り、醤油などにつけて食べていたのが、やがて工夫を凝らし、細くしても切れないようになっていきました。江戸時代中頃までは100%蕎麦粉だけの生蕎麦でした。やがて、つなぎとして小麦粉が使われるようになってきます。しかし、小麦粉は蕎麦粉よりも高価でした。農山村ではつなぎとして、ヤマイモ、クズ、山ゴボウの葉、フノリ、トロロアオイなども使われました。