そば切り発祥を探る その6

http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/12-7.html  【そば切り発祥を探る その6 】

国替・などに伴う蕎麦文化の拡大  

  1.江戸初期百年間  信濃諸藩からの国替

そば切り発祥の年代や地域はわかっていないが、そば切りの記録の初見地である信濃は、江戸時代を通じて「そば」に関する先進地帯であったということについての異論はないと思われる。

江戸幕府は各地大名の国替を頻繁に行ったが、それらは各種随員の移動も伴ったために、旧地の食習慣や生活様式までもが新任地へ移入され、各地に影響を与える役割を果たしたと考えられる。

仮に信濃を基点にしたとして、江戸幕府が始まってからの百年ばかりに限って信濃諸藩から他の地域に異動した国替を追ったのが下表である。(領主・大名に限定:一部例外を除き信濃国内での国替は除外:他からの入封についても割愛している)

①②「出雲蕎麦」と「皿蕎麦で有名な出石蕎麦」は、どちらも国替によってそば切りが伝わったとされている代表例であろう。

 出雲そばは、「松本藩から松平直政公が入封した時に伝わった」とされ、出石そばについては、「宝永3年(1706)に信州上田藩から仙石政明公が国替の時に始まる」とか「その時に、そば職人を連れてきたのが始まり」だといわれている。

さらに出雲そばの場合はもう一つの説があるそうで「石見銀山の初代奉行になった大久保石見守が信州更科からそば職人を連れて着任して広めた」というのだそうだ。

年表で見るとおり、松平直政公の出雲入封は寛永15年(1638)である。但し、もう一つの大久保長安説があてはまるとすれば、活躍年代は慶長6年(1601)から10年間のことになり、慈性日記のそば切りよりも古い出来事だとしなければならないのだが・・・。

③二代将軍・秀忠の四男・保科正之は7才で信濃・高遠藩に入り20才で藩主(3万石)になる。秀忠の死後、家光によって寛永13年(25才)に20万石で出羽山形に入り、七年後の寛永20年(32才)に会津藩23万石に入封している。幼少から育った「高遠のそば習慣」を「山形」や「会津」に伝える役割を担った可能性が高い。

④他に山形の出羽鶴岡(庄内)藩に元和8年信濃・松代から酒井忠勝が元和8年に入っている。この地域には(つなぎを使わずそば粉だけの)生粉打ちで黒くて歯ごたえのある太い蕎麦が大きな秋田杉の板に乗って出される板そば{そね}の伝統があるが関連はわからない。

 実際に近年、山形周辺のそばをみると洗練された江戸そば系の蕎麦を出す店が中心になっているがこれは後世のものであろう。

もともとの山形の蕎麦は粗野で香りの強い田舎蕎麦が身上で、いまでも山形市内を外れると県内の所々でこの手の蕎麦に出くわすことができるのである。

⑤会津地方の中央部は盆地で水田率も高く米の産地であるが、多くは山国である。特に檜枝岐村や山都町などは高冷地で米が実らず昔からソバを主食とした歴史をもっている。檜枝岐地方の「裁ちそば」は、切れやすい生粉打ちの生地を何枚も重ねて布地を裁つように切る。いうまでもなく後の時代の小間板などは存在しないのである。

また、会津地方には全国でもめずらしい「そば口上」が伝わっている。「祝言そば」とも言われる「婚礼の祝い口上」や、宴席などに添えられる「そばのほめ口上」が座を盛り上げる。いまでも機会に恵まれるとそば口上を見る(聴く)ことができる風習である。

 さらに、この地域には「大根をすり下ろした汁に焼き味噌を溶いたつゆ」で食べる「高遠そば」が伝わっていて、大根おろしや大根のことを高遠と言うところもある。

   「大根おろし汁」で蕎麦を食べる地域や蕎麦につゆをかける地域がある。

福井県には「越前蕎麦、越前おろし蕎麦」といって蕎麦汁に大根のおろし汁を加える郷土そばが残っている。福井や武生の風習で、小浜では「からみそば」というそうだ。

⑥越前松平家は家康の二男結城秀康に始まる徳川家筆頭の名門であった。三代藩主の松平忠昌は元和2年(1616)松代藩に入り、元和4年に越後国高田藩に入った後、寛永元年(1624)に越前に入封している。越前のそば文化はこの時代に発している可能性も否定できないと思うのだが。

 最近、越前のそばについて新たな説がいわれていることを知った。要約すると『結城秀康の付家老・本多富正(越前府中藩主)が京都伏見を経由して入封する際、京のそば師・金子権左衛門を連れてきたのに始まる。』というのである。関連する史料でも見いだされたのであろうか。

⑦「高遠そば」と同じ食べ方は、寛永13年 中山日録に書かれた木曽・贄川宿の記録「蕎麦切ヲ賜、・・・蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ、鰹粉・葱・蒜ヲ入レ・・」とも共通しているので、広く信濃諸国での古くからのそばの食べ方といえる。

そして、さらにこれが他国に伝播したと思われる事例も存在する。

丹後(京都府)、但馬(兵庫県)、丹波(京都府・兵庫県)は三丹地方といわれるが、明和4年(1767)小浜の町民学者・板屋(津田)一助が著した「稚狭考」に「大根の汁にて麺を喰うを丹後、但馬、丹波にて若狭汁といへり」とある。

 昔、信濃では、辛みの強い大根にネギを挟んで下ろし、これを味噌に加えて延ばし蕎麦つゆとした蕎麦の辛味汁があった。高遠の「蕎麦の辛味汁」と、会津の「高遠そばの食べ方」さらに三丹地方の「若狭汁」や越前の「そばの食べ方」もすべて大根の絞り汁という古い時期の共通性が窺える。

 その丹後(京都)へは享保2年に信濃・飯山藩から青山幸澄が入封しているが、尚、それよりも以前の事例もあって、文禄2年(1593年)から信濃飯田藩主であり、東軍に付いて戦功のあった京極高知が慶長5年(1600)関ヶ原役の後に、丹後宮津に加増転封された歴史を持っている。

稚狭考(第七)をみると、大根について『西津は淡し、勢井は辛し、熊川は煮て宜しからず、青井は辛くて甘く煮て殊によろし、比三村の大こん麪に用ひてよし。大根の汁にて・・・若狭汁といへり。など、時代や地域によっては、必ずしも辛い大根だけにこだわっていないことも窺える。([用薬須知]蕎麦を黒児といへり、・・。や、第八に「そはきりは今に盛んなり」』ともある。

⑧そばの伝播との関連は定かでないが新潟・越後長岡には元和2年という早い時期に信濃・飯山藩から堀直寄が入封している。中越地方は「ふのり」と「へぎそば」で有名なことで知られる。「ふのり」や「へぎそばの手振りの盛り方」などは後の時代のことかも知らないが、案外古い時代にそば切りの手法が入っていた可能性も考えられる。

⑨播磨明石には元和3年松本藩から小笠原忠政が、播磨竜野藩に寛永10年に同じく松本から戸田康直が入封している。

2.「郷土そば」という観点からその伝播の痕跡をみることもできる

 そばの打ち方にはいろいろの手法があって、それぞれの土地に受け継がれた打ち方で打たれていたが、現在では「江戸流のそばの打ち方」が主流になってしまった感がある。

江戸流の打ち方が普及したのは江戸の人口増加と消費拡大という背景があって、狭い場所でもいっ時に多くのそばが打て、効率良く無駄の少ない、しかも細くて長いそばが打てるところにあって、その代表的な特徴は「延し」の手法に見ることができる。

 捏ねたそばの玉を、「丸く大きな円に延していく従来の麺棒一本の丸延しの手法」に対し「○を□にして、その□を長方形に長く延ばしていく手法」が大きな相違点である。

これらは、「そば打ち」技術が誕生して普及していく過程という観点から考えると、前者がそば打ち誕生初期の手法であることは言うまでもなく、今もって丸延しは信州そばの特徴であり、戸隠そば、富倉そば、山形の板そば、出石そば、出雲そばなどがこの手法を現在に受け継いでいるといえる。

3.異なる伝播経路が考えられる郷土そばの例

⑩戸隠そばについて、戸隠神社の公式ホームページによると『戸隠のそば切りの歴史は江戸時代に始まった。記録によれば、江戸の寛永寺の僧侶に教えられて広まったもの。戸隠寺の奥院が別当をもてなす際、特別食として用意したのがそば切りだったと書かれています。』とある。

 歴史的事実としての戸隠神社は、中世最盛期には俗に戸隠三千坊と言われた修験信奉の大道場として栄えた。(当然、それに見合った独自の食文化も栄えたと考えられる。)

その後、家康は戸隠山法度を定め、天台宗の宗教行事を執り行うように定め、家光の寛永2年(1625)寛永寺の創建がなる。戸隠神社(戸隠寺)を東叡山寛永寺の末寺とし、以降、寛永寺が任命する別当を派遣するが、この時の立て役者は天海僧正である。まさしく慈性日記に登場する天海をとりまく天台宗の世界である。江戸でそば切りが振る舞われたと考える東光院も同様に多くの末寺を伴って末寺頭となっている。

 もし、素人の推論が許されるなら私は、次のような説を持っている。・・・信濃の諸国と同様にもともと戸隠にも古式のそば切りがあったが、天台宗・寛永寺の支配によって食の作法にも影響を受ける。江戸から派遣された別当からは天台僧流のそば切りが随時伝えられた。そしていずれかの時点で別当をもてなすための「そば切りの作法」が戸隠固有のそばとして確立し、現在に伝わる(公式ホームページの)そば切りになったと考える。

⑪対馬の対州そば・・・江戸時代の対馬は、対州そばの産出が多くて朝鮮地方に輸出していたともいう。また、対州そばの特徴は生粉打ちそばを甑(こしき・大せいろ)に盛って重ね、温水をかけてそば櫛で整えたという初期の頃に伝わったままの姿を維持している。(寛政6年創業といわれた中村屋は閉店)

 対馬藩宗氏と慈性日記の慈性が深くつながっている意外な歴史事実がある。

対馬藩は長く朝鮮外交を独占してきたが、寛永8年(1631)、徳川家光の時代、日朝間の国書改竄などの不正が発覚して幕府外交上の大問題になるが、家光の裁断により宗家には累が及ばなかったが、幕府が介入する体勢が強化されていく。元々、日野家との交流はあったが慈性の妹「福」が宗義成に嫁ぎ、さらに正保4年(1647)、慈性自らが厳原・萬松院(宗氏の菩提寺)を兼帯して臨済宗から天台宗に改宗させている。(日野家並びに慈性とそば切り、天台宗とそば切りの関係は既に見たとおりである。)

4.菓子屋に作らせた京の蕎麦切

⑫京都には江戸時代以前とか江戸時代創業という菓子屋が多く、そば粉で作る蕎麦菓子も有名で、総本家河道屋の「蕎麦ほうる」、本家尾張屋の「蕎麦板」と京都井筒屋の「如心松葉」などがある。なかでも本家尾張屋は寛正6年(1465)に菓子司として始まり、そば処としても有名になって江戸時代には宮中の御用蕎麦司をつとめた。御所に手打ちのそばを届け、ときには寺院や宮家へそばをつくりに行くこともしばしばだったという。

 京都では、「その昔、菓子屋には寺院や宮中から蕎麦切の依頼があるので、どの菓子屋も蕎麦が打てなければならなかった。上手く蕎麦を打つ菓子屋が良い菓子屋ということになり、蕎麦打ちの技量によって菓子屋の評価が左右された。」という。これは、京都の老舗そば処「晦庵河道屋」で河道屋15代主人から実際に聞いた話である。この店は、比叡山延暦寺は5月17日に桓武天皇御講をおこなうが、河道屋の当主が毎年登山して手打ち蕎麦を献供することになっているという。河道屋は享保年間(1716~35)創業の菓子職「総本家河道屋」である。