http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/12-4.html 【そば切り発祥を探る その4】 より
石臼による製粉の革新
現在の製粉方法は、異なる速度で高速回転しているローラー(鋳鉄製ロール)で穀物を製粉するロール製粉が主流で、このほかに石臼製粉とごく一部でおこなわれている胴搗製粉がある。
「粉」は古来から、搗(つ)き臼と杵を使って穀物を粉砕し、粉を篩い分ける方法がとられ、臼も杵も木製であったがやがて石臼がもたらされることになって、「製粉の効率と粉の品質」が飛躍的に向上した。
石臼は、奈良時代にはすでに日本にもたらされていたとされるが、保持できたのは極めて限られた階層だけであった。先年(00年11月)、東大寺の旧境内から奈良時代の大型建築物跡が見つかり、礎石四基と礎石を抜き取った跡が二ヶ所あって、文献から、写経の資材などを収めた倉庫か、製粉して食材を作った「碓殿」(製粉所)の可能性があると奈良県立橿原考古学研究所が発表した。
同時にこの場所から碾磑(テンガイ)と呼ばれる製粉用の石臼の破片も出土したことについて、「東大寺要録(平安時代)」に載っている「碓殿」(製粉所)とも考えられるという。
奈良東大寺には転害門(建造物は国宝で町名は手貝町)が残っているし、九州福岡では、太宰府の観世音寺の講堂前に、「天平石臼」「鬼の石臼」とも俗称されている直径1メートルもの花崗岩の碾磑が現存している。
江戸時代初期までの石臼は、その当時としては相当の権力と財力を持ち得た限られた階層でなければ保持し維持する事が出来なかった。
この点について【日本文化 民具が語る :粉の文化史から見た民具・三輪茂雄・河出書房新社】には下記のようなことが書かれている。
日本の場合、石臼の普及は、一般的には江戸初期以降からと言われている。
ただ、これは一般的な普及であって、極く限られた層は例外であった。鎌倉末期の頃、文化の担い手であった禅僧や貴人のあいだで「茶磨」という抹茶専用の石臼が用いられ、なかには一般の粉を挽く石臼も現れていた。また戦国期から武士のあいだでも茶磨や石臼が普及していったとある。
これから見ると14~16世紀のまだ一般に石臼が普及する以前にも、一部の限られた階層では製粉のために石臼が使われていたと考えるのが自然である。
さらに三輪氏によると「中世の西洋では小麦製粉が重要であったから、水車や風車を動力とした石臼製粉工場を領主や教会が占有した」り、中国・唐の時代に、「貴族や寺院がその荘園に水力利用の碾磑(テンガイ)を設置して利益をあげた」とあって、限られた階層の間だけで独占的に使われていた例が示されている。
当然のこととして、わが国においても、石臼が一般的に普及する江戸初期よりも以前に、支配力・財力・組織力をもって早くに石臼を保有し、製粉設備を稼働させることができた勢力はいくつかの地域で存在した。
例えば、素麺やうどんが普及した背景には、京都の禅寺院や奈良の大寺院が果たした小麦の製粉についての役割が大きかったことをみてもわかる。
素麺は、南宋帰りの禅僧が持ち帰った製法を伝えたのであるが、その製法を受け入れて普及させたのは、やはり支配力と財力などを備えた寺院であった。
京都の東福寺では、鎌倉時代(~1243~)に円爾弁円(聖一国師)が宗より持ち帰った水力による石臼の製粉技術と製麺を伝えたとされ、今でも素麺を供える行事が残っている。建仁寺でも室町時代から素麺が作られている。
奈良では興福寺の素麺座が力を持っていたし、安土桃山(16世紀末)の頃には三輪神社の神主によって三輪素麺が始められている。
これらを支えたのは、良質の小麦を確保する力と製塩と胡麻や菜種の製油にも影響力を持ち、さらに専門的な技術者集団まで有していたからではあるが、なによりも石臼による進んだ製粉技術があったからに他ならない。
初期の蕎麦切り誕生に至る背景を考えるときも、石臼による製粉技術を持ち、後背には米や麦では他より劣ってはいるがソバではどこよりも上質のソバ生産地を有し、多くの調理人がいてソバ粒やソバ粉を食材として熟知しているということが大切な要素であった。
「庶民の日常生活のハレの食べ物」としての蕎麦掻きなどの粉食から、麺食へ自然発生的に進化したと考えるのではなくて、先んじて品質の安定した上質の粉を挽くことが出来て、多くの人達に振る舞う「ある種の階層での儀式などの際のハレの食べ物」として、「財力と伝統の食文化」を背景に誕生したと考えられる。そして当初は限られた範囲だけで食されたが、人々の嗜好にも合って普及し、やがて上方や江戸を始め全国に伝播していったのであろう。
「素麺」の場合は外国の製法技術が伝わったが、蕎麦切りの場合にはすでに素麺やうどんという麺の形が普及していたし、蕎麦掻きなど蕎麦粉の澱粉質を糊化させる経験などもあって、新しい良質の蕎麦粉の出現にも触発されて工夫されながら初期の蕎麦切りが誕生したのである。
http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/12-5.html 【そば切り発祥を探る その5 】 より
仮説
さらに仮説を進めると、信濃には、平安時代末からの修験信奉の大道場で中世最盛期には俗に戸隠三千坊と言われた山岳信仰で栄えた戸隠神社がある。その後は、奥院十二坊 中院二十四坊など五十三坊ともいわれたが、隆盛を極めた。 また、この一帯には善光寺信仰が普及し、門前町だけにとどまらず宿場町としても活発な商業活動を営むなどの発展地域も控えている。
当然のこととして、ここには他の地域に先駆けてその時々の先端技術や文化がもたらされ、その中に早くから石臼も含まれていたと考えられる。
そして、良質のソバの産地という観点からみても、古くからソバの栽培に適した戸隠高原・妙高・黒姫といった一帯を後背地に持っていた。
さらに観点を変えると、蕎麦は修験道修行とは密接な関係にあった。
修験道の修行で行う五穀断ちは、主食を蕎麦粒や蕎麦粉に頼ることが多く日常的にもソバ(粒・粉)との関係が深かった。
例えば、天台宗比叡山の「千日回峰」は12年間の籠山の行中、五穀を断ち、塩も断って主食は蕎麦粉だけと言われる。 比叡山・無動寺の「回峰行記」(元和元年~万延元年:1621~1860)によると、「蕎麦は六根清浄にて峰々を廻りし後に谷清水にて溶かし これを食す」と記されている。
戸隠の修験者も、山中で五穀を断ち、わずかな野菜とソバの実を持ち歩き、粉にすりつぶし水でかいて食したと伝わっている。
修験道と蕎麦は古くから特別のかかわりを持ち、常に蕎麦粒や蕎麦粉に接して扱い慣れた集団であったことも、蕎麦切り誕生の重要な要素であったと考えられる。
戸隠神社の公式ホームページによると『戸隠のそば切りの歴史は江戸時代に始まった。記録によれば、江戸の寛永寺の僧侶に教えられて広まったもの。戸隠寺の奥院が別当をもてなす際、特別食として用意したのがそば切りだったと書かれています。』とある。
一方、歴史事実では、家康が戸隠山法度を定めて、天台宗の宗教行事を行うように定め、家光は寛永2年(1625)寛永寺が創建されると戸隠神社を寛永寺の末寺として別当を派遣する。この時の立て役者は天海僧正で、まさしく慈性日記に登場する天海をとりまく天台宗の世界である。
仮説は、信濃・戸隠にはもともと古式のそば切りがあったと考える。しかし、寛永寺の支配で食の作法にも影響を受け、天台僧流のそば切りが随時伝えられた。そして別当をもてなすための「そば切りの作法」が戸隠固有のそば切りに加わって、現在に伝わる(公式ホームページの)そば切りになったと考えるのである。
また、奥院に残る宝永6年(1709)の「奥院燈明役勤方覚帳」には祭礼時に蕎麦切りが振舞われたと記されているのも同じ作法によるものと思われる。
さらに、戸隠は傾斜地を流れる水路の多い地で、昔から水車を利用した石臼で蕎麦を挽き、修験者が集う宿坊などでは細切りの上品な蕎麦切りが振る舞われ、一方農家などでは太くて色の濃い山家蕎麦が打たれてきた土地柄と聞く。
仮に、細切りの上品な蕎麦と太くて色の濃い蕎麦と対比して考えたとき、いうまでもなく前者からは、江戸から派遣された別当をもてなすための天台僧たちの流儀で打った蕎麦切りの流れをくむものであり、後者は、戸隠本来の古式の蕎麦切りが脈々と伝わったものではなかろうか。
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