若狭遠敷レビ族のはじまり ⑤

https://waniguchi0708.exblog.jp/31570533/  【若狭遠敷レビ族のはじまり 鰐口輝三】

大和民族の魂の故郷「高天原」の謎!

日本の古代史を正しく理解するためには、イスラエル史を含むアジア大陸の歴史と地理を理解することが不可欠です。特にヘブライ語や古代シュメールの文化への理解を深めるだけで、今まで考えもつかなかった新しい歴史観が浮かび上がってくることがあります。

紀元前8 世紀、イスラエル国家が崩壊し民族が歴史から姿を消した数十年後、大陸を越えた東の島々で天皇家の歴史が始まり、アジア大陸では騎馬民族の台頭と共に西アジアから東に向かって民族大移動が始まっていました。そして、旧約聖書のイザヤ書には国家を失った民が東の海の島々で神を讃えることが書かれており、その救い主のシンボルとして登場する「イザヤの子」とヘブライ語で同じ意味を持つイザナギが、日本の神話で島々を生んだ神として登場することはすでに述べました。また日本神道の総本山ともいえる伊勢神宮の奥宮が「いざやの宮」と呼ばれ、その紋章がイスラエルと同じダビデの星であることなど、これだけの事実を振り返って見てもイザヤ一家が何らかの形で日本国家の創立、すなわち初代天皇の即位に関わったという仮説が十分に成り立ちます。

もしイザヤの子がイザナギに象徴される人物であったとするならば、日本書紀や古事記に書かれている神話は単に七世紀の宮廷知識人が複数の神話を織り込んで創作した物語ではなく、むしろ新天地を求めたイスラエルの民がイザヤの子をリーダーとして故郷の西アジアの地を離れ、様々な困難を乗り越えてアジア大陸を横断し、やがて日本列島を発見し大和の国を建国するまでの様々な体験談を長年語り継いで行く過程で神話化された可能性の方が高いのではないでしょうか。

古事記が単なる創作神話ではないことを思わせるキーワードが「高天原」です。高天原とは、日本神話では天上の神々のいる場所とされています。天地ができる最初、天つ神々は高天原で相談しあい、イザナギとイザナミに矛で海をかき回させて地を固め日本の島々を作らせました。これが古事記の冒頭にある「国生み神話」です。驚くことにこの高天原という場所がアジア大陸に実在するのです。

聖書に登場するアブラハムという人物は、今日でもキリスト教やイスラム教を含む多数の宗教において「信仰の父」として崇められておりイスラエルの先祖にあたります。そのアブラハムの出身地が西アジアのタガーマ州にあるハランという町、すなわちタガーマハラなのです。アブラハム一家が神の命に従いハランから約束の地イスラエルに移住して12 世紀の後、国家を失ったイスラエルの民は新天地を求めて東へ旅する際、最初にアブラハムの故郷であるタガーマハラに戻って来たのでしょう。そこで民族のルーツを再確認し、祖先の発祥の地としてタガーマハラの地名が神話化されていったのではないでしょうか。また古事記では天つ神が高天原で育てた稲を苗裔である天皇に与えたため、天皇が地上を支配するようになると書かれています。なんとタガーマ州の地域は大麦とエンマ麦の驚異的な収穫量を記録したことが遺跡から発掘された記録に残されていいました。そこで、麦や高度な稲作技術がこの時点で日本列島に輸出され始めたと考えれば、弥生時代の色々な謎が解けてきます。古代日本史は、アジア大陸全体を広い視野で見渡した上で高天原を捉えるとますます面白くなるのです。

スメラミコトに潜む天皇家の謎(その1)

日本の天皇は古代よりスメラミコトと呼ばれ、その漢字表記として「天皇」という文字が使われています。天照大神より三種の神器を授けられ、高天原より葦原中国へ降って国を治めるようにとの詔を受けて日向の高千穂に天下った天孫ニニギのミコトの子孫にあたる神武天皇は、45 歳にして天下統一を目指し瀬戸内海を東に向かって大和へ攻め入り、紀元前660 年「ハツクニシラス・スメラミコト」として正月元日に即位しました。

これらは単なる神話というよりもむしろ、前722 年に国家を失ったイスラエルの民がイザヤの予言に従って先祖の故郷タガーマハラ(高天原)を経由し、大陸を横断して大和の国に安住するまでの出来事を神話化した可能性が高いことは前述した通りです。おそらく預言者イザヤの子を中心とした精鋭部隊がまず東漸し、その後大勢の民が時間をかけて東方へ移住していく過程において、イスラエルの民は徐々にアジア大陸の原住民と同化しながら遊牧騎馬民族と化していったのでしょう。言い方を変えれば、天孫降臨の話というのは、イスラエルの民が西アジアから日の出ずる島々、日本を目指して東方へ移住するプロセスが神話化されたものと言えます。

遊牧騎馬民族の時代において、アジア大陸では既に「天王」と名乗る国王が五胡十六国時代を中心として存在し、中国の最高主権者である「皇帝」という称号に対抗して使われていました。それ故、大和の国の主権者を天王(天皇)と称することは、単なる表意文字の組み合わせでは無く、イスラエルに共通のルーツを持つ騎馬民族の「天王」が語源になっているとほぼ断定できます。そして古事記、日本書紀が書かれた8 世紀においては天皇家がアジア大陸からの移民であることを隠蔽するために、天王の漢字表記を意図的に天皇と書き換え、読み方も全く違う「スメラミコト」という称号にあてたと考えられるのです。

さて、古代日本語「スメラ」は天皇に敬意を表する接頭語として「皇」の読みとなりましたが、一般的には「統べ治める」という言葉から、統治者が「スブル」ことを意味すると考えられています。柿本人麻呂は万葉集で天皇を「スメロギ」と呼び、同様に「スメラキ」という名称も古くからあったため、統御(スメ)る君(キミ)の意ではないかという説もあります。また梵語では蘇迷虜(スメル)が「至高」を意味している故、「神聖な」という意味と解釈されたり、アラム語においてサマリアを意味する「shamrai」がスメルに訛ったと解釈するといった説もあります。

しかし一番自然な答えは、スメラをその発音とほぼ同じスメル(sumer)と発音するメソポタミアに世界最古の文明を築きながらも消えていった謎の民族「シュメール」として理解することではないでしょうか。戦前までシュメールはスメラとも表記されていた程、原語の発音はスメルそのものです。このシュメールの文化圏から、信仰の父と崇められているイスラエルの先祖アブラハムの家族も生い立ち、そのシュメール文明の末裔としてアブラハムの子孫であるイスラエル、そして日本があるのです。それ故「スメラミコト」には、世界最古の文明と神の選民の血が皇族のルーツに息吹いていることを証しようとする意図が見え隠れしているようです。そして天皇をスメラと呼ぶことにより、天皇のルーツがイスラエル及びシュメールまで遡ることを暗示しつつも、その事実を上手く隠蔽したのです。すなわち「スメラミコト」とは日本古代史の根底に潜むイスラエルとの関係をカモフラージュする為の考え抜かれた手段だったのです。

スメラミコトに潜む天皇家の謎(その2)[n3]

古代日本史は渡来人の影響を多々受けている為、その史実をより深く理解するには古代文献を日本語の知識によって解釈するだけでなく、アジア史全体の流れを汲み取りながら諸外国の言語や文化も含め、様々な角度から検証することが重要です。特に、紀元前8 世紀にアジア大陸を東方へ移動開始したイスラエル民族の強い影響力は見逃せません。彼らの一部は、シュメール文化の発祥の地である西アジアを経由して日本を訪れ、天皇家の歴史や大和国家の設立に深く関わったと考えられます。その際、独自の文化だけでなく、先祖の発祥の地域を囲む古代シュメール文化や様々な大陸文化も一緒に携えてきました。例えば天皇家の家紋である十六弁八重表菊紋は、バビロンのイシュタル門に複数描かれており、今日でもその遺跡をイラク国内で見ることができます。また西アジアにおいては、離散したイスラエルの民が遊牧民族に同化して騎馬民族となり、長い年月を経て大陸を東漸した集団も少なくなかったと考えられます。そして最終的に日本へ渡り、古代日本の政治や宗教史を塗り替えたのです。

さて「東の海の島々」を目指したイスラエルの先行部隊一行は、アジア大陸の果てに日本列島を発見します。その結果イスラエル北王国が崩壊してからおよそ60 年後、日本において神武天皇の即位をもって天皇家の歴史が幕を開けました。神武天皇を初めとする諸代天皇の尊称は「スメラミコト」と呼ばれていますが、古代バビロニアのセム語やラテン語ではシュメール(sumer)がスメラと全く同じく発音されるため、天皇家がシュメール文化、及びその文化を列島にもたらしたイスラエルと当初から深い関わりを持っていた可能性が高いことは前述した通りです。ではスメラミコトの「ミコト」とは一体何を意味するのでしょうか?

ごく一般的にはミコトは尊い人という意味で使われ、神話でも「ミコト」の表記に「尊」や「命」が当てられています。しかし語源に関しては学者の意見もまとまらないまま今日に至っています。例えば聖書のロゴス神学と同様に、言葉には始まりと想像力があり、神の想いが「みことば」「記命」「詔」「尊」、すなわち「ミコト」と相成ったという考え方があります。そして天皇は御言葉を祈りとして唱えられることからイノリ、またはナノリ(名乗り)の語尾を付けてミコトノリになったと解釈します。またセム語系のシリア語で皇帝の意味を持つ「malkioto」という言葉が訛ってミコトになったという学説もあります。もう一つ興味深い説は「ミコト」が以前より「ミカド」、または「ミガド」と読まれていた事実に注目し、ヘブライ語で「ガド族の」という意に解釈する説です。ヘブライ語では接頭語の「ミ」は「~

に属する」という意味を持つため、天皇は国家を失ったイスラエルの12 部族の一つであるガド族に属すると考える訳です。

最も説得力がある解釈は、「ミコト」の語源を古代バビロニアのセム語で天降る者、開拓者、神のような存在を意味する「migad」(ミガッド)とすることです。その「ミガド」が更に転化して「ミカド」や「ミコト」になる訳です。発音の転化に何ら違和感が無いだけでなく、「スメラミコト」の意味が大変分かり易くなります。「すなわち「スメラミコト」とは、人類の歴史において最も古く由緒あるシュメール文化に由来する開拓者」という意味で捉えることができます。しかし、古代日本に渡来したイスラエル人をルーツとする学者が、考えたとするならば、やはり自らの故郷と神への信仰をストレートにヘブライ語で表す内容であった方が素直に解釈できます。ヘブライ語で(sum,スム)は「~を置く」、「~を設置する」、そして(el,エル)は「神」です。よって2 つの言葉合わせると (スメル)となり、神を置く、すなわち「神を奉る」、「神を祀る」となります。また、(migad, ミガド)は「栄光」を意味する言葉です。そして「スメラミコト」はヘブライ語で (スメルミガド)と書くことができ、「栄光在主」という言葉になるのです。

大和を平定した偉大なリーダー「神武天皇」![n4]

神武天皇は45 歳の時に天下統一を目指して日向国から船で瀬戸内海を東方に向かい、その後大和を平定したと言われています。そしてイスラエル北王国が滅びてからおよそ60 年後にあたる紀元前660年の旧正月、太陽暦では2 月11 日に初代天皇として即位しました。その年が皇紀元年となり、明治時代以降では2 月11 日が紀元節、すなわち今日の建国記念日として祝われることになりました。天皇は日本の君主として、それ以外にも多くの呼び名を持っています。その中には帝号、御名(ぎょめい)、追号等があります。また、天皇には、人々が直接口にすることが避けられた天皇の実名である御名があり、それは「いみな」とも称されています。例えば神武天皇の御名は、神倭伊波礼比古命(カムヤマトイワレビコノミコト)ですが、この名前の意味は不可解なまま、今日まで至っています。この御名に、天皇家のルーツに関するメッセージが含まれていたのです。

まず、代々の天皇は「スメラミコト」と呼ばれていることに注目です。「スメラ」はヘブライ語で「置く」という意味の言葉で、その語尾に神を意味する「エル」を付けると「スメル」という発音になります。

すると「スメラ」は神を置く、つまり「神を奉る」、「神を祀る」という意味になります。また、migut(ミガッド)は同じくヘブライ語で「栄光」という意味を持ち、「エル」の神を形容していると考えられます。それ故、「スメラミコト」とは、「栄光の神を奉る」、「栄光在主」の意味となります。よって、神武天皇の御名である神倭伊波礼比古命(カムヤマトイワレビコノミコト)も、栄光の神に関連する意味を持つ名前であると推測できます。

日本人なら誰でもお馴染みの「ヤマト」という言葉ですが、大言海にも「此語源ハ古来種々ノ説アレド、スベテイカガナリ」と書かれている通り、日本語では殆ど意味を見出すことが出来ません。またヤマトに対して「大和」、「日本」、「倭」など複数の漢字表記があること自体、ヤマトという言葉が先行して使われ、後日漢字に宛てられたと考えるのが妥当でしょう。実はこの「ヤマト」も、ヘブライ語聖書の後半で使われているアラム語で解釈できます。「ヤーウェーの神」の頭文字である「ヤ」は神の称号として今日まで数千年に渡り世界各地で使われており、不思議なことに日本の民謡や囃子言葉にも「ヤ」という言葉が多用されています。また、語尾の「マト」、「ゥマット」をアラム語で検証すると、「umato」

が「人民」の意味を持つ言葉であることがわかります。すなわち、「ヤマト」とは、「神の民」を意味する言葉だったのです。

次に、ヘブライ系ユダヤ人のことをアラム語では「iwaraa」(イワラ)と呼び、ヘブライ語では「yehudi」(イフディ、イワデ)と呼び、それが「イワレ」の語源であると考えられます。ユダヤとはイスラエル南ユダ王国の民を象徴する言葉であり、イスラエル王系であるユダ族を中心とする部族の集まりです。その「イワレ」と呼ばれる「ユダヤ人」を形容する言葉が「ヤマト」です。「ヤマト・イワレ」は、合わせて、「神の民であるユダヤ人」を意味します。

そしてヘブライ語には、群れを大量に集めるという意味を持つ、「kum」(カム)、という言葉が存在することに注目です。すると「カム・ヤマト・イワレ」は、「神の民であるユダヤ人を結集する」という分かりやすい意味に解釈できます。つまり、「神の民」である大勢のユダヤ人が、或る日、結集したことの意味だったのです。そしてその場所が日本であり、そこに神の民が大勢、集まることを象徴する言葉であったと理解できます。

またヘブライ語の「bekor」(ビコ)という言葉には、「最初に生まれた子供」、つまり初子という意味があります。よって、例えば「イワレ」に「ビコ」を組み合わせて「イワレビコ」とすれば、「ユダヤ人の初子」となります。すると、「カム・ヤマト・イワレ・ビコ」とは、神の民であるユダヤ民族が結集して誕生した子供、新しい国家を意味することになります。前述した通り、「ミコト」はヘブライ語で「栄光」を意味する「ミガッド」がそのルーツにあると考えられることから、新しい国家の栄光を称える言葉として、共に用いられています。

これら全ての文字を組み合わせると、神武天皇の御名の真相が見えてきます。「カムヤマトイワレビコノミコト」をヘブライ語やアラム語等の古代西アジア言語で解釈すると、「神の民であるユダヤ人が結集して誕生した栄光」ということになります。言い方を変えれば、「神の民、ユダヤ人の結晶として創設された栄光」ということです。「カムヤマトイワレビコノミコト」は、ユダ族が、新天地である日本においてもその王系を継承し、君臨することを宣言した大胆な御名であったのです。

つまり、国家を失ったイスラエルの民は、イザヤの予言に従って西アジアより日本に移住を開始し、神武天皇のリーダーシップの元に大和の地に結集し、日本の歴史を築く礎になったのです。もはやイスラエルを無視しては日本の古代史を考えることはできません!