若狭遠敷レビ族のはじまり ②

https://waniguchi0708.exblog.jp/31570515/ 【若狭遠敷レビ族のはじまり 鰐口輝三】より

東の島を目指す失われたイスラエル 10 部族紀元前 722 年、アッシリアの攻撃によりイスラエルの北王国が滅亡しました。そしてイスラエル 12 部族の内、南のユダ王国に住む 2 部族を除く 10 部族が国家を失いました。その後、何十万人ともいわれる大勢の民はどこへ行ったのでしょうか? 彼らが南のユダ王国に移住したという記録も無く、諸外国の歴史の中に捕囚の民として登場することもありません。様々な資料を探ると、歴史から姿を消したイスラエルの十部族の大半が東方へ移住した可能性が非常に高いことがわかります。何故ならイスラエルの地理的条件を見ると、西方は海、北は天敵のアッシリア軍団、南はアラビアの砂漠という過酷な条件下に囲まれており、必然的に東方の山を越えてその向こうの未知の世界に逃げるしか生き延びる道はなかったからです。そのときの人々の想いは聖書からも知ることができます。 当時イスラエルには神からのメッセージを民衆に伝える預言者がおりました。彼らは、神への背信行為に対する裁きのメッセージを人々に語り伝えていたのです。ところがある時、預言者の中心的存在であったイザヤが、突然救いのメッセージを叫びはじめたのです。「東で神をあがめ、海の島々(海沿いの国)でイスラエルの神、主の名をあがめよ」と(イザヤ書 24 章 15 節)。戦争の噂さで人々が不安で恐れ慄いている最中、偉大な預言者イザヤが国家の滅亡を断言すると同時に救出の道を示してくれたわけです。彼の言葉を聞いた大勢の民は、絶望の中にわずかな希望を見つけ出し東の島々を捜し求めて大陸を横断する決断をしたと、考えてもおかしくはありません。 その後のアジア大陸の歴史を振り返ると、このイスラエル民族大移動の軌跡を垣間見ることができます。まずイスラエル民族は元来遊牧民族であり、信仰の父と呼ばれるアブラハムや「主は私の羊飼い」12と歌ったダビデ王のように、天幕で移動しながら羊や馬を放牧して生活圏を築いてきました。そのイスラエルが国家を失った後の紀元前 7 世紀、スキタイ民族が今日の南ロシアに広大な遊牧国家を形成し、時と共に東漸したのは周知の事実です。タイミングからしても、行方不明となった 10 部族の一部がスキタイ民族に同化して騎馬民族となり、最終的に東の「海の島々」、大和の国に到達したと考えても不思議ではありません。実際、紀元前 4 世紀には騎馬民族が「匈奴」として東方のモンゴルで勢力を伸ばして遊牧国家を建設しており、そのルーツが西アジア地区から移住してきた高度な文明を持つ民であることもわかっています。そしていつの間にかスキタイ民族は忽然と姿をくらましているのです。 日本の古墳時代の後期に作られた古墳から発掘された副葬品や装飾品の多くが、モンゴル系騎馬民族の物に類似していることをはじめとして、万世一系を貫いているなど天皇家に関する制度が騎馬民族のものと酷似していること、また日本語の言葉の語源や意味、読み方が、大陸の諸言語と共通していることなどの事実を見ても、騎馬民族が日本に到来し、大和の国の樹立に関わったという可能性をもはや否定できません。国家を失ったイスラエルの民が東の島々に救いを求めて辿り着いた新天地こそ、大和の国ではないでしょうか。そこで天皇家の歴史が幕を開けたのは、イスラエル王国の崩壊後およそ 60 年後のことでした。[n1]失われかけたイスラエルの文化が日本の土壌で再び芽生えたとするならば、日本人のルーツに神の選民と言われたイスラエル民が潜んでいることになります。「弥生ショック」の謎を解く鍵! 国立歴史民族博物館は、2003 年 5 月 19 日、弥生時代前期の始まりをこれまでの定説より 500 年程早い紀元前 800 年前後まで遡ると発表しました。九州北部の遺跡から出土した各種弥生式土器に付着している遺物の炭素同位体による年代測定を行った結果、弥生早期の土器 11 個のほぼ全部が紀元前 800 年頃に集中することがわかりました。炭素の放射性同位体 C14 を使った年代測定は信憑性がかなり高いといわれており、これまでの歴史観が教科書も含めて根底から覆される結果となりました。すなわち弥生時代の始まりは紀元前 4 世紀頃という従来の説は間違いであり、実際は紀元前 8 世紀以前に大陸から日本に渡ってきた人々が新しい文化を日本列島に持ち込んだという結論に達したのです。これで大分県国東半島における前 700 年頃のものと推定される製鉄遺構や、福岡の曲り田遺跡で発掘された前 8 世紀の弥生早期の鉄器等を無理やり縄文文化に結びつけて説明する必要が無くなりました。 しかしここで当然の疑問が生じてきます。それは当時、何故大勢の人々が海を越えるという危険を冒してまで見知らぬ島々に渡ってこなければならなかったかということです。春秋戦国時代と違って中国大陸の情勢も落ち着いていた時期であり、大規模なじん移動の必要性が考えにくい時代なのです。その為、寒冷気候などの特殊な外部要因を想定した仮説などが飛び交うようになりましたが、想像の域を抜け切れません。 大陸における騎馬民族の歴史を振り返ってみても、同様の問題が見え隠れします。紀元前 8 世紀頃まで遊牧民は、主にユーラシア大陸の西南部から内陸アジアの乾燥地帯に暮らしていました。原始農耕文化を背景に、草原で家畜の放牧や水に恵まれたオアシス地帯での農耕に従事し、武具などを持つ必要もさほど無く、生活は厳しくとも平穏な時代を過ごしていたようです。この温厚な遊牧民族がある一時を境に突如として騎馬民族と化し、広大なアジア大陸を東方へと移動し始めるのです。その先陣を切ったのが前 7~8 世紀に突如としてイラン高原に進出したスキタイであり、後に匈奴(きょうど)や突蕨(とっけつ)等の騎馬民族の歴史へと発展していきます。何故、原始遊牧民族が騎馬民族に変貌し、しかも未知の大陸を横断するという大きなリスクを犯してまで、東漸を決行したかということについては謎に包まれたままでした。そして不思議なことに、この騎馬民族が出現した時期と日本の弥生時代が始まっ13た時期がオーバーラップすることがわかったのです。この事実に注目することが日本古代史の謎を解く鍵となります。 もう一つの鍵は、古代イスラエルの歴史に注目することです。紀元前 8 世紀、イスラエルはイスラエル北王国と南ユダ王国の 2 つの国に分裂していました。政治的緊迫感が漂う中、紀元前 740 年頃、予言者イザヤが神から召命を受けて宣教活動を始めます。彼のメッセージは単純明快でした。すなわち国家の滅亡です。事実、紀元前 722 年にまずイスラエル 12 部族の内、10 部族で構成されていたイスラエル北王国がアッシリアに攻撃されて崩壊しました。その後、前 583 年、南のユダ王国がバビロンの占領下に入ったのです。この 2 つの王国が時間を隔てて崩壊していく中で、時を同じくして歴史から消え去ったのがイスラエル北王国の 10 部族と預言者イザヤ、及びその家族と弟子達、そして南ユダ王国の首都、エルサレムにある神殿に保管されていた契約の箱と神器だったのです。 この人類の歴史の謎とも言われているイスラエルの失われた 10 部族と契約の箱の行方や、騎馬民族と弥生ショックの謎を解く鍵が、何と旧約聖書のイザヤ書に書かれていたのです!