若狭遠敷レビ族のはじまり ①

https://waniguchi0708.exblog.jp/31570440/  【若狭遠敷レビ族のはじまり 鰐口輝三】より

蘇民将来の起源はイスラエルの過越祭か! 8 これまで祇園祭とユダヤの関連性について、ノアの洪水神話に共通点を見出し、山車及び牛頭等、特殊な宗教用語のヘブライ語源を検証しながら解説してきました。類似点はまだ多数あり、特に祇園祭とイスラエルの「過越の祭り」との関係には八坂神社の関係者も含めて多くの学者が注目しているようです。その理由は共に厄病よけの行事として繋がりがあるからに他なりませんが、実際はそれ以上に深い係わり合いがありそうなのです。 そもそも「祇園祭」は平安時代に疫病が流行し、その祟りを鎮めるためにスサノオこと牛頭天王を祀ったことに由来していると言われています。この牛頭天王信仰が始まるきっかけとなったのが「蘇民将来」という厄病よけの行事です。『釈日本紀』 にある 『備後風土記』によりますと、スサノオが困っている時に裕福な蘇民将来の弟は宿を貸すことを断ったが、貧しい兄の蘇民将来は宿と栗飯を提供したとあります。それを機に、スサノオは後の日に疫病が流行しても、蘇民将来の子孫で茅の輪を持っていれば難を逃れることができることを約束したのです。この伝説を発端として、いつしか全国各地で「蘇民将来之子孫也」という護符が付けられた注連縄が住宅の玄関上に飾って置かれるようになりました。この護符は京都の八坂神社では今でも祇園祭の最中に授けられています。 この「蘇民将来」の伝説は、イスラエルの「過越の祭り」と内容が酷似していることに気づかれる方も多いと思います。「過越の祭り」は、イスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦しめられていた時、神がモーセに対して羊を屠ってその血を家の入り口の柱に塗ることを命じ、その教えに従ったイスラエルの民のみが神の裁きを逃れることができたことを祝したことに起因しています。その神の救いを記念して「過越の祭り」が、イスラエルの祭日として祝われるようになったのです。 大変興味深いことに、日本とイスラエルという 2 つの異国で長年に渡り継承されてきたこれらの宗教儀式は、単に厄除けとしての共通点が在るだけでなく、蘇民将来の伝説では茅の輪を持つこと自体が救いの条件であったはずの護符が、「過越の祭り」のしきたりを吸収したかのごとく、いつの間にかそれが玄関の門柱に貼り付けられるようになったのです。更に祇園祭では竹や柳の木の枝を振りかざして歩き巡る光景が見られますが、同様にユダヤ教の祭の中にはスコット祭のように民衆が多くの木の枝を持って行列に参加するものが見られます。そして祇園祭で使われる香炉はユダヤの神殿で使われているものと形が類似しているのです。もしかすると「過越の祭り」で 2 つの柱にヒソプをつけることにちなんで、日本でも正月に玄関の両脇に門松を立てる慣習が生まれたのかもしれません! ここで当然ながら一つの疑問が生じます。例年、夏に開催される祇園祭のルーツが旧約聖書の洪水神話にあり、ノアの一族が箱舟によって救われた7月 17 日が大切な暦であることは前述した通りです。しかし蘇民将来の話では今度はイスラエルの過越しの祭りにちなんで正月が話の中心となっています。この一見矛盾した暦の相違を解明する手がかりが、古代イスラエルのシオン祭にあります。祇園祭の前身とも言えるシオン祭は、複数の祭りを祝うイスラエルの複合祭であったということを理解することによって、一挙に解決できるのです。暦の類似点から祇園祭のルーツに迫る! シオン祭りを初めとする様々なイスラエルの宗教文化に、祇園祭のルーツがあることをこれまで解説してきましたが、その根拠として特に暦の類似点からは目が離せません。祇園祭は例年 7 月に開催されますが、他の祭りとは異なり開催される期間が 1 ヶ月と大変長く、山鉾巡行がピークを迎える 7 月 17日が祭りのハイライトとなります。イスラエルでは、この日がノアの箱舟が山の頂上に漂流し神の救いを確認した祝日となっており、その前後に合計で 3 週間という期間をかけて新年祭という宗教行事が毎9年執り行われていました。この新年祭の原点にある「シオン祭り」は、神の天地創造を祝福すると同時に、ノアの箱舟による神の救いや、イスラエルの王の即位、そしてエルサレムに契約の箱が運ばれたことを記念する、国家をあげての大きな祭りでした。シオンとはイスラエルの首都、エルサレムの近隣に位置した山で、預言書によればメシアが再臨する際に降り立つ場所と考えられた聖地でした。そのため、壮大な祭りを催すには最もふさわしい場所であったといえます。しかし前8世紀、イスラエルが国家を失った際、シオン祭りは首都エルサレムの崩壊と時を同じくして消滅し、その後、収穫祭や仮庵祭等、旧約聖書に記載されている各種祭りにその名残を残すに留まりましたが、実はその延長線に祇園祭があったのです。 それ故、イスラエルの新年祭と祇園祭の暦に類似点が多くても不思議ではありません。イスラエルでは 7 月 1 日よりロシュ・ハシャナと呼ばれる新年礼拝がありますが、同じ日に祇園祭は吉符入と呼ばれる祈願式から始まります。イスラエルではそれから 7 月 10 日のヨム・キプールと呼ばれる贖罪日まで断食を行いながら神の御前で悔い改めをする神聖な日となりますが、祇園祭では同じ時期に清祓いとばれる祈願式をもって、山鉾ごとのお祓いと清めが行われます。 また中旬の 15 日から 7 日間、イスラエルでは旧約聖書のネヘミア書に基づいてテントで寝泊りをし、エジプトにおける奴隷からの脱出を祝福する仮庵祭が催されます。仮庵祭の終盤では会堂の祭壇に水を注ぐ清めの儀式と、律法の集会であるホザナ・ラバと呼ばれる祝福の儀式が行われます。この儀式は、神の救いに預かったことを祝して祈りつつ、草木を振りかざしながら祭壇の周りを 7 回巡り歩き、神に感謝を捧げます。同様に祇園祭では山鉾を造り、7 月 17 日より始まる神幸祭では、神輿が八坂神社から巡行して四条御旅所にて 7 日間留まります。また御輿を神事用水で清める「御輿洗」と呼ばれる儀式が執り行われ、神主が祈りを捧げた後、祭壇に玉串を捧げ、周囲の人々がお神輿の周りを 3 回巡り歩き、山鉾に草木が添えられるのです。 牛頭天王と蘇民将来の説話に基づく祇園信仰がイスラエルの過越の祭と類似していることは前述した通りです。更に祇園祭の山鉾とその装飾方法がイスラエルの仮庵に酷似していること、またどちらも収穫物を神に捧げることから、祇園祭には仮庵祭と収穫祭としての側面もあるようです。イスラエルのシオン祭りは元来複数の祭りを集合した総合祭として催されていました。だからこそ、シオン祭りが日本の地において継承され土着化する過程において、これら複数のイスラエルの祭りの要素が吸収されていきながら、今日の祇園祭に至ったのではないでしょうか。つまり、祇園祭は今でこそ日本の文化として根付いていますが、イスラエルの宗教文化が息づく民族祭なのです。 10第2章 イスラエル 12 部族の行方失われたイスラエル 10 部族と皇室の謎! 「イスラエル民族と皇室との間に、なんらかの接点がある可能性が高い」ということがわかれば、イスラエルの歴史に疎い日本人でも興味が沸いてくるのではないでしょうか?イスラエル史を学ぶ一番良い資料は、創世記からマラキ書まで 39 巻からなる旧約聖書です。創世記では紀元前 20 世紀頃、信仰の父として敬われたアブラハムの話が登場します。彼の孫、ヤコブは別名イスラエルとも呼ばれていました。このヤコブに 12 人の子供が与えられ、この子供たちの子孫がやがてイスラエル 12 部族を形成することになるのです。その後イスラエルの民はエジプトで生活を始めるのですが、いつの間にかエジプト人の奴隷となってしまいそのまま 4 世紀以上経ちました。紀元前 13 世紀にモーセが登場し、イスラエルの民をエジプトから約束の地と呼ばれるカナン(今日のイスラエル)へ向けて脱出させます。そして紀元前 1050 年頃、ダビデ王の統治下で国家が成立し、黄金時代と呼ばれるほど栄えました。ソロモン王の時代に至って、その名声は世界に響き渡り、エルサレム神殿が構築されただけでなく、タルシシ船を使って世界中の国々と貿易を行いました。 ところがソロモン王が没した直後、早くも国家の崩壊が始まり、紀元前 931 年、イスラエルは 10 部族から形成される北のイスラエル王国と、2 部族からなる南のユダ王国に分裂してしまうのです。神への背信行為、及び、金と権力によって腐敗した王政が原因となって国家の弱体化が急速に進んだあげく、紀元前 722 年、まず北のイスラエル王国が崩壊し、アッシリアによって滅ぼされてしまいます。その結果、大勢の民が国を失い各地に逃げて行きました。それからおよそ 140 年後の紀元前 586 年、今度は南のユダ王国がバビロニヤ帝国の手によって滅亡し、住民は捕囚としてバビロン(現在のイラク)に連れ去れてしまったのです。それから 50 年近くたった後、南王国の 2 部族のみが再びエルサレムに帰還してくるですが、北の 10 部族の行方はいまだわからないままです。それ以降、1948 年の国連決議を経て今日のイスラエルが再び建国するまで何と 2,500 年もの間、国を失ったまま他国の統治下におかれてしまったのです。しかも今日のイスラエル国民は、南王国 2 部族を構成するユダ族とベニヤミン族の子孫とユダヤ教に改宗した 12 部族外の人々で占められており、北の 10 部族は含まれていません。 この行方がわからなくなった北の 10 部族が、古代日本史と大きく関わっている可能性が高いと思われるのです。日本には歴代天皇年表もしくは皇歴と呼ばれる天皇家の年表が存在し、紀元前 660 年、神武天皇が 1 月に即位した時点から今日まで 125 代にわたる天皇家の歩みが暦として記されています。確かに万世一系の立証は難しく、この年表の中には学問的な見地から、その存在さえも疑問視せざるを得11ない天皇が記載されているという指摘もあります。しかしここで大切なことは、暦が語る数字の因果関係に注目することなのです。 紀元前 722 年イスラエルの 10 部族が国家を失い、行方がわからなくなりました。その直後といってもよい紀元前 660 年、巨大なアジア大陸を経て日の出ずる島々では日本国の皇室史が幕を開けたのです。古代日本文化とイスラエルの文化が酷似するのは偶然とは言えない理由がここにあります。