若狭遠敷レビ族のはじまり ③

https://waniguchi0708.exblog.jp/31570522/  【若狭遠敷レビ族のはじまり 鰐口輝三】より

イザヤ書に潜むイスラエル部族の行方

紀元前8 世紀、国家の崩壊を目前にしたイスラエルの10 部族と南ユダ王国2 部族に対し、預言者イザヤはユダ王国の首都、エルサレムから南北の同朋に対して警告のメッセージを投げかけていました。

66 章からなるイザヤ書の前半39 章にはこの緊迫した時代を背景に大胆な予言が綴られており、その殆どが国家の崩壊に象徴される神の裁きについての記述です。しかし所々に希望と救いのメッセージが書かれている点も見逃せません。アッシリア帝国による侵略の恐怖にさらされる中、神の御告げを信じ、救いを求めた民がイザヤの言葉をどのように受け止めたのでしょうか。

まず救いのメッセージが「遊牧」と関わっていることに着眼してみました。イザヤの子供は、神は私たちとともにおられるという意味を持つ「インマヌエル」(7 章14 節)とも呼ばれました。この名前は救世主の代名詞としてよく用いられている言葉です。この「インマヌエル」が、幼少期に「凝乳と蜂蜜を食べる」と記されているのです。更に7章21~22 節には、神の救いに預かった残留者の群れが牛と羊の乳に恵まれる予言が書かれています。当時の食料事情が困窮を極めていたことから察するに、イスラエルの民は国家を脱出した後、東方の遊牧地帯を目指して進み、そこでインマヌエルが育まれたと考えられます。

またこの子供には、「速やかな略奪と捕獲」という戦争における勝利の略奪を示す名も与えられました(8 章1 節)。無論この名前は聖書に解説されてある通り、被征服者である北イスラエル王国がアッシリアによって早急に占領されることを意味しています。しかし同時に、イスラエルの救いを実現するための方法論を説いた言葉でもあるのです。「国々の民よ、打ち破られてわななけ!」(8 章9 節)とあるように、インマヌエルの群れは行き着く所どこでも速やかに相手を征服することができると信じられたのでしょう。その結果、国を脱出したイスラエルの民は遊牧民族として牛や羊を飼いながらイザヤの予言に従って略奪と捕獲を繰り返しながら東進し、その後騎馬民族に変貌していったものと考えられます。

「速やかな略奪と捕獲」にはもう一つの意味がありそうです。前述した通り国家が崩壊する直前、エルサレムの宮殿で仕えていたイザヤは、東の国々、海の島々(24 章15 節)に救いがあることを悟り、自分の子供をイザヤの家来と共に旅立たせたと考えられます。その際、国家の崩壊を事前に知していたイザヤは、国宝である契約の箱と神器をエルサレム神殿から密かに持ち出して一行と共に移動させた可能性が高いのではないでしょうか。だからこそ「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな」(8章12 節)と記述されているのであり、この事実は隠蔽されてしまったと推測することができます。(8章16 節)。

北のイスラエル王国の壊滅後、大勢の民は周辺の遊牧民族に同化して騎馬民族の歴史を造っていきました。その結果、イスラエルの10 部族は前8 世紀に歴史から消えてしまいました。しかし、もしインマヌエルに同行した精鋭部隊が、本当に日本の地までイスラエルの国宝と共にたどり着いたとするならば、イスラエル民族の軌跡を日本の文化の中にかい間見ることができるはずです。その謎を解く鍵がイザヤの子供にあったのです。

消えたシュメール人の行方

メソポタミアと言えば、おそらく誰もが学校で一度は耳にしたことのある人類最古の文明であり、古代4 大文明の一つでもあります。メソポタミアという言葉には「川の間」という意味があり、地理的には中東にあるティグリス川とユーフラテス川と呼ばれる著名な大河に挟まれた地域をさします。この地域はちょうど今日のイラクがある所で、紀元前4000~5000 年の原始時代においては既に部落スタイルの集団生活が始まっており、小神殿が建築されていました。紀元前3500 年には村落が発展し始め、都市国家が形成されていきますが、その仕掛人、すなわちこのメソポタミア地域に優れた古代文明を築きあげ、ウルやキシュ等、多くの都市を設立したのがシュメール人です。彼らは元々メソポタミア地域の原住民ではなく、どこからともなくメソポタミアの南部に移住してきたと言われており、そのルーツを探る手がかりは無いようです。このシュメール人の手により紀元前2100 年にはウル第3 王朝が栄え、シュメール文化の繁栄は頂点を迎えます。

シュメール文化の特色は、まず高度な天文学の知識にあります。今日カレンダーで使われている週7日という暦はシュメール文化から生まれたものです。また灌漑の技術を持っており、当時から水路を張り巡らして農地に水を引き、牛を使って地面を耕しました。大麦を始めとした各種穀物を大規模に栽培し、牛や豚等の家畜も飼育されました。また青銅器や彩文土器等を製造する技術も有し、楔型文字を用いていたことでも有名です。この楔型文字は、メソポタミア地域において言語を表記する手段として長年用いられ、ウル第3 王朝時には最古の法典まで書き上げられたのです。

ところがこの偉大な古代文化を築き上げたシュメール人は、紀元前2000 年頃ふと歴史から姿を消してしまいました。確かにアモラ人等による他民族の侵入もシュメール人の失踪に影響を与えたかもしれませんが、何故メソポタミアから突如として消え去ってしまったのでしょうか?その謎を解く鍵は、旧約聖書に登場するアブラハムの一家にありそうです。

アブラハムは紀元前2000 年頃、シュメール文化の中心地、首都ウルで生まれました。両親と住みながら、そこで彼はシュメール人のサラを妻に迎えます。すなわちアブラハムとサラの間に生まれてくる子供にはシュメール人の血が流れているのです。アブラハム自身はセム系ですが、西アジアの文化圏においては母方の血縁が人種を決定する最終の判断基準とする場合があるため、アブラハムの妻、サラから生まれた子孫はシュメール人と言うこともできます。

さて、アブラハム一家は、神の祝福が宿る富豪としてその名声はウル全体に知れ渡っていました。ある日、父、テラは家族全員を連れて遥か北方の彼方にあるタガーマ州のハランに移住する決断をします。

繁栄と恵みの象徴である彼らが、突然ウルを去る事を知って動揺したシュメール人の同胞は少なくなかったに違いありません。そして、運命を共にするため人望の厚いアブラハム一家を追ってタガーマハラへと移住した人々も大勢いたことでしょう。その結果、短期間で大勢のシュメール人がメソポタミア南部から消え去ることになったのかもしれません。

そのタガーマハラでアブラハムは神と出会い、神からの啓示を受けて約束の地、カナンへと旅立ちます。そこでアブラハムの孫にあたるヤコブから、イスラエルの12 部族となる12 人の子供が誕生し、後のイスラエル国家へと発展していったのです。すなわち古代日本史にイスラエルが絡んでいるということは、日本のルーツにシュメール文化が潜んでいるということに繋がるのです。

天皇家の菊花紋の真相

衛隊が遂にイラクに派遣されることになり、隊員の安否が気遣われています。しかしイスラム教原理主義のリーダーが「日本の自衛隊は他国の占領軍と違い、イラク市民を援助する為に来ているので害を及ぼさないように」と公式見解発表をしているように、イラクにおいて日本は何かしら別格の存在であるようです。なぜ[n2]ならば、紀元前2000 年頃に歴史から消え去ったシュメールの末裔が、古代日本の文化に関わっていたと考えられるのです。その証のひとつが天皇家の菊花紋です。

皇室の表紋として著名な菊花紋は、延命長寿の効用を伴う延年草とも呼ばれる菊の花を原型に、その花弁が放射状に並んで日の光にも例えることができることから、日の出ずる国家の象徴である天皇家のシンボルとして創作されたと言われています。平安時代では「いろは歌」が普及するのと時期を同じくして、菊花紋は特に文様として流行し、宮中では年中行事として観菊の宴が始まりました。そして鎌倉時代、後鳥羽上皇の時に菊花紋が皇室の紋章として正式に取り入れられたのです。その後、武家のシンボルとしても足利、織田、豊臣氏等が家紋として使用し、江戸時代においては複数の大名や神社仏閣の紋としても使われました。挙句の果ては町家の商標等にも濫用され始めたため、明治維新、王政復古の元年に直接禁令が出され、許可なく物品へ御紋を描くことが禁止されました。そして明治22 年に菊花中心の円の直径と菊花全体の大きさの割合が3 対38 に定義され、大正15 年に発布された皇室儀制令により、菊の花は16 葉、その花弁は8 重菊の複弁、弁のはしの弧は32 と定められたのです。今日では菊花紋は皇室の家紋として天皇旗や天皇御料の乗り物、宮殿の建築物、食器や礼服、及び印紙やパスポート等、幅広く利用されています。

エルサレム宮殿に刻まれている16 菊花紋

さて、この菊花紋は平安時代よりも更に昔、紀元前より中近東に流行しており、シュメールにおいては王朝を象徴する家紋として使われていました。例えば紀元前2300 年頃シュメール・アッカド王朝の時代に建造されたナラム・シン王の戦勝碑には菊の紋章に大変類似した文様が描かれています。これがシュメール王朝の菊花紋の原型となったとも考えられます。古代文明において神聖文字を図案化したとも思われる紋章は、自然界に住む神々と人間との関係を象徴しているため、菊花紋は当初、天を照らす太陽の神のシンボルとして考案され、次第に菊の形状に整えられていったと推測できます。またシュメール王朝の都であったバビロン遺跡には紀元前600 年に建造されたイシュタル門が残っており、これには王家の紋章として多くの菊花紋が描かれていますが、それは正に日本の菊花紋と全く同形です。そして驚くことに、イスラエルの首都エルサレムの中心にある神殿の城壁にも菊花紋が見事に刻まれているのです。

シュメールとイスラエル、そして日本の皇室が菊花紋を共有している事実は単なる偶然ではなく、古代日本の歴史を刻んだ大和の民のルーツがイスラエルに、更に歴史を遡ればシュメール文化に由来していたからに他なりません。世界最古のシュメール文化は、紀元前8 世紀、国家を失ったイスラエルの民により高天原(タカーマガハラ)を経由して大陸を渡り、日本に到来していたのです。

シルクロードは日本を目指したユダヤの道

古代史には推測の余地が大きく、特にイスラエルの失われた10 部族と日本に関して直接言及している文献は皆無で決定的な証拠が何も存在しない為、この手の話はいかんせん極論や盲信に走りやすい傾向があります。およそ1900 年前にフラビウスという歴史家が「10 部族は今でもユーフラテスのかなたにおり、膨大な民衆となっている」と書き記していますが、実際その程度のデータしか存在しないのです。また一部の少数ユダヤ系民族の間では、「10 部族は大陸を横断して中国の先にある神秘的な国に移住した」と語り継がれてきていますが、これも単なる伝説でしかすぎません。それ故、ユダヤと日本の関係については、様々なデータを集め、十分に検証する必要があります。

アジア大陸におけるイスラエル人の動向に関しては、確かにイランやアフガニスタン、中国等、アジア大陸の諸国に離散したイスラエルの民がユダヤ部落を形成した軌跡を確認することができます。例えば中国の開封市では、19 世紀に洪水で村が壊滅状態に陥るまでユダヤ教の規律に従って生活をしていた部落が前3世紀から存在し、ユダヤの会堂が建てられていたことでも有名です。またアフガニスタンにも前5~6 世紀頃にはユダヤ部落が存在し、11 世紀頃までには数万人規模の在留異国人として知られることになりました。そしてアジア大陸には、砂漠というその途方も無く広大な大自然の中にいつのまにかシルクロードが出来上がり、そこではヘブライ語で道標も立てられ、結果としてユダヤ系の商人が行き来して貿易をしていたという事実があります。このシルクロードこそ、国家を失った膨大な数のイスラエルの民がアジア大陸を東方に向かって移動し続けた結果、形成された交通網と考えるのが妥当ではないでしょうか。2700 年前に国家を失ったイスラエル人にとって、救いの道は預言者が語った東方の島々にあり、それが砂漠の大陸を横断するモチベーションとなったと推測できます。

それではいつ頃、どの程度の規模で、どの部族が日本に移民してきたのでしょうか?まず日本列島への移民は、イスラエルの国家の崩壊という歴史の流れを受けて、それから数十年以内に始まったと推測できます。皇紀元年のタイミングは正にその時期と一致しており、暦を大切にしていた民族ならではの一貫した歴史観を基に、新たなる神国としての位置付けが皇紀に反映されていると思われます。また、大陸間における民族移動は部族に分かれて長い年月をかけて徐々に進展しただけでなく、実際には大陸の横断は困難を極め、島々への渡航も小規模でしか行うことが出来なかった為、この貴重な史実は歴史の水面下に葬られてしまったのではないでしょうか。そして最終的に日本に到来したのは失われた10部族だけでなく、むしろ他の2 部族を中心としたイスラエル全部族と推定できます。何故なら予言者イザヤが仕えていたエルサレム神殿は南ユダ王国に存在し、イザヤを中心とする聖職者に導かれながら神器が神殿から持ち出され、国家の脱出が目論まれたと考えられるからです。南王国の首都エルサレムは「平安の都」という意味がありますが、イスラエル12 部族が切望したのは、新天地で「平安京」をいつの日か設立することだったのです。