慈覚大師円仁さま

http://www.fukusyoji.com/houwa/houwa_1394530126.html  【慈覚大師円仁さま「その1 生誕」(法話第28話)】 より

福正寺を開かれた、天台宗第三代座主、慈覚大師円仁さまは、日本仏教の礎を築かれた尊いお方として、今に伝わっております。特に、10年に及ぶ唐(今の中国)への教えを求めての旅日記である『入唐求法巡礼行記』は、世界三大旅行記の一つに数えられております。

 その円仁さまの御生涯を振り返り、慈覚大師さま1,150年御遠忌に際して、報恩謝徳の一助といたしたいと思います。

 その1、生誕(0歳~9歳)

 平安時代が始まった延暦3年(794)、円仁は下野の国(今の栃木県)都賀の郡、壬生家において生まれました。その時、生家の上空に、紫雲ガたなびくのを見た小野寺山大慈寺の名僧、広智は、「この子が成長したら、自分に預けてほしい」と父母に願い出ました。

 円仁が5歳のとき、父は東北の蝦夷との戦いに出征、戦傷を負い、それがもとで亡くなってしまいました。かけがえのない父を戦争で失う。そのような体験が、武力でなく、信仰によって世の中を平和で安泰にしたいと願う礎になっていたのかもしれません。

 父亡きあとは、母の手で育てられ、兄から儒教や歴史を学びました。理解力に優れ、覚えの早い円仁を、当時優れた学僧が集まる大慈寺(岩舟町)の僧広智のもとに預けることにしました。

 円仁が゙9歳のときのことでした。


http://www.fukusyoji.com/houwa/houwa_1400811723.html 【慈覚大師円仁さま「その2 修行」(法話第29話)】 より

その2、修行(9歳~42歳)

 大慈寺に入った円仁は、広智のもと、修行に専念されました。特に、あらゆる人の救済を説いた「観音経」(「法華経」の中の一章)ニ出会い、心を奪われます。その熱意と優秀な素質を生かしてやりたいと考えた広智は、円仁を、比叡山の最澄(日本天台宗の宗祖)に託すことにしました。

 15歳にして、比叡山に登り、初めて最澄に会った円仁は、その姿が、かつて夢の中に現われた方と同じことに驚きました。その後、最澄を一生涯の師と仰ぎ、直弟子として一心不乱に修行に打ち込みました。

 20歳となって、正式な僧となるための国家試験に合格。最澄とともに、東国布教の旅に出て、懐かしい大慈寺にも立ち寄りました。

29歳のとき、師の最澄を亡くしたのちも、厳しい修行を続け、35歳からの数年は東北に至る各地を旅して、災害や飢えに苦しむ人々の救済に努めました。

 40歳になると、今までの無理がたたり、重病に罹りました。草案に籠って念仏をすること約3年。奇跡的に回復を果たしました。

 42歳のとき、第17次遣唐使の短期留学僧として、唐へ渡るという大きな使命ニめぐり逢いました。42歳といえば当時では、すでに老人に当たる年齢でした。


http://www.fukusyoji.com/houwa/houwa_1405071232.html 【慈覚大師円仁さま「その3 求法」(法話第30話)】 より

その3、求法(42歳~52歳)

 承和3年(836)、円仁を乗せた遣唐使船は博多港を出港。2度の渡航に失敗し、3度目の渡航においてようやく唐の地に入ることが出来ました。

 円仁は、さっそく天台山へ求法に行く許可を申請しますが、なかなか許可がおりず、帰国せよとの命に従い帰国船に乗り込みます。しかし、このまま帰国することは本意に非ず、帰国船を降りて、密入国の決断をいたします。

 その後、天台山と並び優れた仏教聖地である五台に向かいます。一時滞在していた赤山から五台山までは1270km。弟子2人、従者1人、ロバ1頭からなる円仁一行は、大平原や黄河を渡り、44日間歩き続けました。

 3000m級の五つの峰からなる五台山には寺院が立ち並び、多くの修行者や巡礼者が過ごしていました。 先ず竹林寺に入った円仁は、「阿弥陀仏」を音楽的に唱え続ける「念仏三昧」の教えを授かりました。その後、大華厳寺で多くの経典を書き写しました。

 約2ヶ月後、唐の都の長安へ出発します。約1090kmを経て到着した長安は、人口100万人の世界最大級の国際都市で、大興善寺や青龍寺などを中心に「密教」が盛んでした。円仁は、密教を深く習得し、曼荼羅や梵語(経典の原語である古代インドの文字)も修めるなど、多くの成果を得て、唐歴会昌元年(841)帰国の申請ををします。

 ところが、時代が暗転し、烈しい仏教の弾圧が円仁に襲い掛かります。「会昌の廃仏」と称される弾圧は、第15代皇帝武宗によるもので、不老不死の教えに執着した皇帝は道教(中国古来の宗教)にのめり込み、仏教を弾圧したのでした。

 やがて武宗は外国僧をを還俗させて国外追放する命を下します。円仁はやむなく僧服を脱ぎますが、肌身から離しがたく、法衣を細長く畳んで首に掛けました。これが輪袈裟の始めと言われます。

 会昌5年(845)、円仁は長安を出発し、仏典類を守りながら、海岸に到着します。帰国船を待つこと2年、ようやく帰りの船に乗り込むことが出来、10年ぶりの懐かしい母国へ向かいます。何度も絶望的な苦しみに耐え抜き、多くの教えを携え、法を求め伝えるという、強い精神力が、帰国の夢を叶えさせたと言えましょう。

 円仁は、唐での10年間にわたる求法の旅を、『入唐求法巡礼行記』という書物にして後世に伝えております。この『入唐求法巡礼行記』は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『大唐西域記』と並んで、世界の三大旅行記と呼ばれております。