秦徐福上陸 ①

http://mb1527.thick.jp/N3-01-2jofuku.html  【秦徐福上陸】より

中国の歴史書「史記」によると、斉国・琅邪(ろうや・現在の山東省)の方士「徐福」が、不老不死の妙薬をほしがっていた秦始皇帝に対して「遥か東の海のかなたに三神山があり、そこに住む仙人が不老不死の霊薬を作っております」と申し出た。始皇帝は五穀・百工・童男童女三千人を乗せた大船団を徐福に与えた。大船団を率いて出港した徐福は、平原広沢の地にたどり着き、その地の王となり中国には戻らなかった。

 これに対する日本側の伝承に徐福上陸関連の者があり、徐福はこの日本列島に上陸したようである。小山修三氏の弥生時代人口推計より推定すると、弥生時代は年平均50人から100人程度の渡来があったと思われるBC300頃から紀元前後までは1万~3万の人々の流入と推定される。秦徐福が一挙に3000人を連れてきたと伝えられている。当時の人口規模からすると徐福の一団は相当な勢力となるのである。また、徐福は当時の最先端の技術を持った人々を多量に連れてきていますし、童男童女を主体として連れてきているので日本列島上陸後一族の人口が増大していると推定される。徐福のもたらした人々及び先進技術は後の大和朝廷成立に大きく影響を与えているはずである。ここでは、日本列島上陸後の徐福一族の行動について調べてみようと思う。

 弥生時代になってから日本列島に多量の人々の流入が起こっているが、その渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと思われる。このことは弥生遺跡から発掘された人骨とこの地方の人々の人骨が同等のものであることからわかる。この時代は中国の春秋戦国時代であり、争いを避けて流入した者、国が滅び逃げ出した者などが中心と思われる。いわゆるボートピープルと考えられる。ボートピープルの場合、日本列島に流れ着いてもこれら人々の間に組織力・技術力はほとんどないと思われる。そのため、縄文人と徐々に融合しながら生活を送っていたと思われる。

 それに対して集団で渡航した場合には、技術力・組織力は維持できているはずで、これは、上陸後の日本列島の統一過程に大きな影響を与えていると思われる。このために、徐福一族の上陸は組織力・技術力において他のボートピープルとは状況が全く違うと考えてよい。

 徐福の出自

 徐福の先祖は春秋戦国時代の穀倉であった山東・江蘇・安徽の三省にかけて支配していた徐国(BC512年呉によって滅ぼされる)の偃王(えんおう)の子孫であった。同時に徐福の父は秦王に仕えていた。

 徐福は神仙思想・医学・薬学・農業・気象学・天文学・航海術の諸学に通じた方士である。また、インドに留学したという説もあり、インダス文明や仏教にも通じていたようである。徐国王の子孫という名門出身というだけではなく、その国際的な英知によって、始皇帝から重用されていた。

 徐福の計画した渡航計画は童男童女三千人、楼船85隻という大がかりなもので仙薬探しにしては大規模すぎ、巨額の資金も必要としたであろう。また、童男童女三千人というのは、長期間にわたって滞在することを意味し、徐福の亡命を疑ってもおかしくはない。実際に徐福は亡命に成功し再び秦に戻ることはなかった。徐福は最初から亡命を計画していたと思われる。徐福が渡航を計画しそれを始皇帝に進言し、始皇帝から認可されたものと思われるが、始皇帝ほどの権謀術策にたけた人物が徐福の亡命をなぜ疑わなかったのだろうか。

 始皇帝には別の計画があったと思われる。始皇帝は万里の長城の統合に苦労していた。その東北にいた燕が朝鮮半島と通交していることに注目し、燕が日本列島を狙っていると思っていたのではあるまいか。そのために、徐福を先遣隊として日本列島に定住させ、自らが日本列島を支配する足掛かりとしたのではないだろうか。徐福に日本列島征服の含みを持たせたとすれば、これほどの大部隊を徐福に与えたのもうなずけるのである。

 徐福渡航

 大船団を渡航させるとなると、前もって調査が必要である。危険な外洋航海に大船団で向かうのはあまりに無謀である。安全に航海ができる様に用意周到な準備をしたであろう。当時考えられていた航路は朝鮮半島経由の北航路と黒潮に乗る南航路である。徐福伝承が佐賀平野をはじめとして太平洋岸に多いことから判断して徐福の渡航は南航路と思われる。

 記録に残っている遣隋使・遣唐使の北航路・南航路の成功率は次のようである。

 北航路・・・往航(6隻中2隻遭難 遭難率33%)、復航(4隻中1隻遭難 遭難率25%)、太陽暦で5月の遭難が多い。

 南航路・・・往航(26隻中4隻遭難 遭難率15%)、復航(22隻中2隻遭難 遭難率9%)、太陽暦の10月の成功率が高い

 中国には徐福の一団は太陰暦2月19日、6月19日、10月19日の三回にわたって渡航し、最後の10月の渡航が徐福自身であるという伝承が伝わっている。出港はいずれも19日であり、潮汐の「大潮」にあたり、徐福の船団は引潮に乗って船出したものと思われる。

 2月19日の出港(太陽暦4月上旬)は北風が吹かない時期に当たるので、北航路が容易である。しかし、南風であるので、朝鮮半島から対馬海峡を渡るのは至難の業である。この航路をとれば、流されて、日本海岸に漂着するであろうが、日本海岸に徐福伝承はほとんどない。

 6月19日の出港(太陽暦8月中旬)は済州島→五島列島の航路が可能であるが、このルート沿岸にやはり徐福伝承がない。

 10月19日の出港(太陽暦12月上旬)は北航路は北風が吹くので不可能である。南航路となる。この航路なら、秋に収穫できた穀物を多量に積み込んで、寧波で風待ちをし、春の偏西風に乗って日本列島に漂着するのはかなり楽である。南航路の出港地と思われる寧波や舟山群島には徐福伝承が残っており、徐福がこの航路を通ったのは間違いないであろう。

 10月19日の出港が正しいと思われるが、その前の2回の出港は何なのか?航海の成功率を上げるには、前もって調査研究が必要である。先遣隊を出向させ航路の状況を把握したものであろうと考えられる。徐福ほどの人物であるので、先遣隊が日本列島に上陸し、もどってきた先遣隊から日本列島のどこに上陸させたらよいかなどの情報を得ていたと思われる。その調査の結果、成功率の高いのが10月19日の出港であることが分かり、BC210年10月19日に徐福村に近い江蘇省海州湾を出港したのであろう。徐福の出港は他の渡来人と違ってボートピープルではなく、計画的出港であった。

 海州湾を出港した徐福一行は北風に乗り、中国大陸沿岸を南下し、途中で食糧・飲料水などを補給し寧波に到着した。ここで、船を修理しながら春を待って、偏西風に乗って東シナ海を渡ったものと考えられる。

 徐福の渡航目的

 徐福は始皇帝に不老不死の仙薬を探しに行くとして許可されているが、これは渡航するための方便と思われる。真の目的は何であろうか。始皇帝は中国を統一後斉国の滅亡、領民の苦しみ、万里の長城建設の苦役、焚書坑儒などの暴政が目立ち始めた。この圧政から逃れユートピアを建設するための集団移民だったととらえたい。その根拠は一団に含まれている3000人もの童男童女である。総勢4000人のうち3000人が童男童女だったのである。童男童女を3000人も一団に加える目的は何であろうか。不老不死の仙薬を探すのだけが目的であれば専門技術者を増やした方がよいと思われる。童男童女の目的は一つしか考えられない。それは将来性である。成人が子供を産む数よりも童男童女が将来にわたって子供を産む数の方が多い。新天地に着いた後、国を建設するにあたって最も必要なのは人である。人口が多ければ多いほど安定した国を作ることができる。外洋航海で一度に何万人も送ることはできないので最少人数で最大の人口を養成しようと思えば童男童女が最も適任である。童男童女3000人により国を作るのが目的と考えられるのである。

 国を作るとなれば、農業に適した立地の場所に効率よく到達しなければならない。先遣隊を送ってその地を探らせていたと思われる。大人数の上陸となれば、最大の問題点が食料の安定確保である。持ちこめる食料には限りがあり、上陸してから農耕に適した場所を探している暇はないのである。上陸するとすぐに農耕を始めなければ、大人数を養うことはできない。その選ばれた場所こそ徐福上陸伝承のある佐賀平野であろう。

 「徐福は平原広沢に達して王になった」と記録されているが、この平原広沢とはどこであろうか?当時の日本列島はまだ水田耕作が主流とはなっていなかった。現地の人々と衝突することなく土地さえあれば、水田耕作ができたと思われる。その土地とは、中国の江南地方とよく似た低湿地であろう。佐賀平野・筑後平野はこの少し前の時期に起こった「縄文小海退」によって、海水面が上昇しており、佐賀平野一帯が低湿地となっていた。また、北の脊振山地によって北風が遮られ、まさに水田耕作の条件にうってつけの場所であった。また、有明海沿岸の農耕遺跡から出土した炭化米は徐福の古里の炭化米とよく似たジャポニカ米とは異なる長粒米である。

 徐福はこのほか百工と呼ばれている技術者を多量に連れてきており、当時の中国の最先端技術がそのまま日本列島にやってくることになったのである。徐福の渡航目的は圧政から逃れて国を作ることに間違いがないであろう。

 佐賀平野以外に徐福の移住目的にあった場所はあるだろうか?朝鮮半島や台湾は秦始皇帝の影響が及びやすいところであり、そこを移住地として選ぶのは危険である。温暖で中国江南地方と似た環境にあり、大人数を養うことのできる土地は日本列島以外にない。日本列島内となれば、遠くの東日本は候補から外れ、上陸してすぐの地となれば九州の西海岸以外に考えられない。南の方は低湿地が少なく、熊本平野は呉の後裔が作った球磨国(狗奴国)が既にできていた。徐福の先祖が支配していた徐国は呉に滅ぼされており、互いに敵どおしであったと思われる。また、玄界灘一帯は渡来人が多く、先住者との対立が起きやすい場所である。この点から考えて、佐賀平野或いは筑後平野に勝るものはない。徐福の一団は最初から佐賀平野を目指してやってきたものと考えられる。

 徐福は始皇帝から許可を得て人選、航海、上陸後の食糧確保、建国まですべて中国にいるときに綿密に計画を立てて準備していたのである。一般人にこのようなことはとてもできないであろう。徐福のその素晴らしい知識のなせる技であった。

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