亀姫

https://ameblo.jp/ezodainagon/entry-10474293627.html  【戦国美女物語 12 亀姫~復讐を成し遂げた家康の娘 】より

家康の重臣として重用され始めた信昌は、期待に応える活躍をしました。

家康の関東移封後は、上野小幡に3万石で配置され、1600年慶長5年、関ヶ原で家康が事実上天下を掌握すると、京都所司代に命じられ治安維持に尽力し、関ヶ原から逃走した西軍の安国寺恵瓊を捕らえます。

翌年には美濃加納に10万石で加贈され、信昌は徳川四天王らと並ぶ徳川の大守となりました。

信昌との間に四男一女をもうけた亀姫は加納御前「加納殿」と呼ばれ、徳川の世を順風に過ごすかと思われました。

その後、亀姫の嫡子、家昌は下野、宇都宮10万石を与えられ、城主として城下の普請に励む一方で、娘は重臣、大久保忠隣の嫡子、忠常に嫁ぎました。

亀姫の幸福はここまででした。

徳川家と豊臣家の対立が決定的になった1614年慶長19年、亀姫の娘が嫁いた大久保家が改易されました。

忠常の父、忠隣が政敵でもある本多正信、正純親子の謀略による結果の改易でした。

さらに悪いことは続き、嫡子家信が病気により、この世を去りました。

亀姫の悲しむなか、孫の忠昌が家督を継ぎますが、忠昌は幼いということで、下総古河へ転封となります。

この転封に関与したのが、大久保家を改易に追い込んだ本多正純でした。

本多正純は、家昌が地道に普請した宇都宮城を広大な城郭に大改築し始めました。

本多正純の宇都宮城の大改築は、城下に住む者達に思わぬ噂をささやかせる結果となりました。

亀姫もその噂を耳にすると、積年の恨みを晴らすべく動き出します。

亀姫は、将軍、徳川秀忠が家康の眠る日光東照宮に参詣に下野を訪れた際に噂話を本多正純の謀略として直訴しました。

それによると、正純の計画では、秀忠が日光東照宮へ参詣した後のこと、帰りに本多正純の宇都宮城を利用すると、宇都宮城の風呂には釣り天井の仕掛けがあり、秀忠が風呂に入った時に天井が落ちて秀忠を圧死させるというものでした。

これは、宇都宮釣り天井事件として後世に語られるものでした。

秀忠は急遽、宇都宮城を素通りして江戸城に戻りました。

秀忠はその後、出羽の最上氏を改易にした際に、山形城の受け取りを本多正純に命じ、山形にて改易を発表しました。

1622年元和8年8月のことでした。

改易された正純は、最後、秋田の山中の横手に流され、佐竹氏の預かりとなり寂しい生涯を閉じます。

事件の舞台となった宇都宮城は、ささやかれた釣り天井の仕掛け等は無く、再び奥平家を継いだ忠昌が入ることとなり、復讐を遂げた亀姫は、忠昌の後見人として晩年を過ごし、1625年寛永2年に亡くなりました。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%A7%AB_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E9%95%B7%E5%A5%B3) 【亀姫 (徳川家康長女)】 より

亀姫(かめひめ、永禄3年6月4日(1560年6月27日) - 寛永2年5月27日(1625年7月1日))は、徳川家康の長女。母は築山御前(瀬名今川氏)で、松平信康は同母兄。奥平信昌の正室。

永禄3年(1560年)、駿府で生まれた。元亀4年(1573年)ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年(1576年)、信昌へ嫁いだ。生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(大久保忠常室)を儲ける。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦勝により、慶長6年(1601年)夫・信昌が美濃加納10万石に封じられ、三男・忠政共々、加納に移ったことから、加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。やがて忠政、宇都宮藩の嫡男・家昌、信昌と夫子らの相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。

寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去した。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は光国寺(岐阜県岐阜市)、法蔵寺(愛知県岡崎市)、大善寺(愛知県新城市)にある。4人いた妹たちには全て先立たれている。

宇都宮城釣天井事件と亀姫

亀姫を「宇都宮城釣天井事件」の黒幕とする説がある。

嫡男・家昌の遺児で、わずか7歳で宇都宮藩主となった孫の奥平忠昌は、12歳の時に下総古河藩に転封となった。忠昌の替わりに宇都宮へ入封したのは本多正純である。亀姫は正純を快く思っていなかった。その理由は、大久保忠隣失脚事件である。

信昌・亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常に嫁していたため、大久保氏と奥平氏の関係は緊密であった。だが、娘婿・忠常が早世し、頼みとする忠隣は不可解な改易となり、心を痛めていた亀姫は、正純とその父・本多正信が奸計で忠隣を陥れた、と見なした[1]。さらに、忠昌の転封にも我慢がならなかった。年少ゆえの移封であれば忠昌相続時の7歳の時点で行うべきであるところを、12歳まで成長した後の国替えだったからである。しかも、それまでの奥平氏が10万石であったのに、正純になった途端15万石というのも承服しかねた[2]。

そこで、異母弟の第2代将軍徳川秀忠に、日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純には湯殿に釣天井を仕掛け将軍を暗殺するという計画がある、と洩らしたとされる[3]。釣天井自体は事実無根であったが、正純は配流されることとなった。その後は、忠昌が再び宇都宮藩へ配されたというものである[4]。

また、下総古河への国替えの引っ越しにまつわる、こんな逸話がある。本来、私物以外はそのまま新入封の家中のために残して立ち去るように法度で定められているところを、奥平家は障子、襖、畳までも撤去した。さらに、邸内の竹木まで掘り起こし、一切を持ち去ろうとした。これを聞きつけた正純の家臣が、慌てて駆けつけて国境で呼びとめ、その非を咎めたため返還したという内容であるが[5]、真偽は定かではない。

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