寺町 生福寺の話

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/10684913  【寺町 生福寺の話】  より

今日は昭和の日(祭日)だけど、午前中だけ仕事を貰えたよ。自分の職場は、本業は和洋スイーツ製造なんだけど、もうひとつ宇都宮餃子の販売と言う仕事も有るんだ。3月の震災後、漸く高速道路や鉄道が再開して人の移動が増えたので、お土産用の餃子が売れ出した。今日はその餃子のお土産用の箱詰め包装の作業をして来たよ。

仕事終了で解散の筈だたんだけど、地震以来姉妹が避難して来ていて休んでいたパートさんが久しぶりに仕事に来て、一緒ににお昼を食べたいと言ったので皆で楽しくランチしてから解散したよ。

この処お寺シリーズに成っているけど御容赦を<m(__)m>

宇都宮駅前の道路を街中方面に西進して、宮島町交差点(りそな銀行の有る処)で左(北向き)に曲がって直ぐの交差点(呉服屋が道両側に有る)を右に曲がって東進する道沿いが「寺町」と言うんだよ。

この通りには、真言宗の寺院が一軒、日蓮宗の寺院が2軒、それこその気を連ねるように並んでいるよ。

さらに、北側の通りには、清巌寺(浄土宗)と日蓮宗の寺院が有るよ。これは偶然に寺院が集まったのではなくて、宇都宮城の防備のために意図的に配置された結果なんだよ。お城の周囲には、この様に寺院が固まって建てられている処が何カ所か有るんだよ。

その中で、今日は宮島町十文字に近いお寺 「生福寺(真言宗 智山派 宮応山遍照光院 生福寺)」を紹介するよ。

このお寺は、1438年(永享10年)に14代城主「宇都宮等綱」の開基で、芳賀(清原)高盛の祈禱所として造られたんだって。江戸時代には隆盛を極めて宇都宮大明神(二荒山神社)に供僧(神社に所属して仏事を修した僧)を務めたことも有ったんだよ。

生福寺の本寺は京都の醍醐寺光台院だよ。これだけの歴史が有る古刹なんだけど、市内に有るために何度も火災に遭っているんだよ。現在の堂塔は1945年(昭和20年)以降に再建され物だよ。

この寺町は、大阪生まれで江戸時代の俳聖「与謝野蕪村」が住み着いて、俳号を「宰鳥」から「蕪村」に変えたんだよ。

この句碑とか石碑等は最近建てられたものだけどね。同様の物は二荒山神社の参道の左側の小道を登って行った先にも有るよ。            

生福寺参道左にはこんな供養塔が有るよ。この前の戦争で戦死した兵士たちの供養塔だと思われるよ。また墓地の中には肩書きを記した兵士の墓石も有るんだよ。

他の寺院でも同様の墓石を見かけたよ。

そして、その先、山門の近くにはこんな歴史的燈籠がさりげなく置いて有るよ。

これは、江戸(東京)の芝増上寺(徳川将軍家の菩提寺)の境内に有った石燈籠だよ。これは、第二次世界大戦中に増上寺からこの生福寺に移設されたんだよ。戦火避けるため??

境内内、山門の裏側にももう一基燈籠が有るよ。

都合三基の石灯篭が存在しているんだよ。結構凄い事だと思うよ。

参道には、綺麗で可憐な春の花が咲き誇っているよ。

後は次回の更新でね(^O^)/

https://ameblo.jp/iwahibari/entry-10877174520.html  【生福寺 2】

今日は朝こそ晴れていたけど、段々雲が増えて来て風も強く成って来たね。やっぱり明日は雨なのかなぁ(*_*) 折角の休みなのにぃ。

今日は、タイヤ交換をした後で街中に出かけたよ。久しぶりだけどね。先ずは紀伊国屋で定期購読の本を購入して、それから東武百貨店に行って「加山雄三展」を観てみたよ。でも、余り楽しくなかったよ。(・。・; 絵画や陶芸作品が展示してあったけど、何も感じ取れなかったよ。心が感じ取れない(@_@;) 何故だろう? 以前「しもだて美術館」で観た「ジュデイ・オング版画展」や「八代亜紀絵画展」の方がずっと心に響く物が有ったよ。その他にも、映画のポスターや光進丸のモデルなんかも展示して有ったけど、これ見よがしの家系図は戴けなかったね。悪趣味な上流家庭自慢みたいで嫌だったな(>_<)

さて、今日は生福寺の続きだよ。

山門の裏、右側には「金銅宝篋印塔」が有るよ。石で造られたのは、何処でも見られるけど、金銅製は数少ないよ。以前紹介した(金剛定寺)の大きな金銅宝篋印塔が見ごたえ有ったよね。

この宝篋印塔は1763年(宝暦13年)に、当時宇都宮で一番の鋳物師「戸室将監藤原玄蕃」によって造立されたんだよ。でも、昭和20年の宇都宮大空襲で相輪と傘の部分が焼けおちたので、平成9年にこの部分だけ復元したんだよ。               

山門の左には、弘法大師を祀った「大師堂」が有るよ。四国巡礼に出かける前にお参りしていくと、道中健脚でいられるかも(^^ゞ                

大師堂の右隣には大勢の菩薩様が並んでいるよ。「祥雲寺」の5百羅漢よりは少ないけど、境内の広さから見ると圧巻だね。

本堂石段の左は柘榴の木が植えて有るよ。これは、昭和25年に高松宮様が生福寺にお出ましに成った際にお手植えに成ったものだよ。

この寺院は、他にも勤皇の志士の墓も有るんだよ。

菊池教中は1828年(文政11年)に宇都宮で生まれたんだよ。父親は現在の小山市の生まれで、宇都宮の寺町に有る親せき筋の商家に養子に入り、のちに江戸に出て呉服問屋として、一代で豪商に成った、そのご、宇都宮の養家に戻り宇都宮と江戸の両方で商売をしていたんだよ。父親の死後は教中が後を継いだけど、江戸の大火や大地震などで商売が立ち行かなくなって、土地開発(新田開発)に転向した。その時に、二宮尊徳の門弟と協力関係が出来たんだよ。

教中の新田開発の功績が宇都宮藩に認められて、武士と対等の資格を与えられたんだよ。これは、貧農の出の金次郎が農業改革で認められて、名字帯刀を許されて「二宮尊徳」と名乗ったのと似ているよね。

その後は、家督を息子に譲って尊王攘夷運動に傾倒していくんだよ。何度か、挙兵して戦おうとしたんだけど巧くいかずに、1862年(文久2年)の「坂下門外の変」の時に捕えられて投獄されたんだよ。

でも、同志たちの赦免運動が功を奏して赦免されて宇都宮藩預かりに成ったけど、その年に病死した。

明治に成って、尊王攘夷運動や新田開発等の功績が認められて、明治政府からも官位を贈られたんだよ。

凄いよね。昔の栃木県人は凄かったんだね(・。・;

上の写真は菊池家の墓所の写真だよ。菊池教中と両親の墓はちょっと離れた処に有るよ。

墓地と境内の境には、こんな変わった綺麗なチューリップが咲いていたよ。花弁がちぎられたようにぎざぎざに成っているのは始めてみたよ。2

今は境内も狭い寺院だけど、色々なドラマが有ったんだね。

生福寺 完