報恩寺 (宇都宮市)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E6%81%A9%E5%AF%BA_(%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%B8%82)  【報恩寺 (宇都宮市)】

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所在地 栃木県宇都宮市西原一丁目3-13 位置 北緯36度33分20秒 東経139度52分24秒

山号 松嶺山 宗派 臨済宗妙心寺派 創建年 1639年(寛永16年)開基 奥平家昌の正室(開山) 正式名 松嶺山 報恩寺 法人番号 1060005000245 ウィキデータを編集

報恩寺(ほうおんじ)は、栃木県宇都宮市西原一丁目にある臨済宗の寺院。山号は松嶺山。

歴史

報恩寺の開山は宇都宮藩藩主奥平家昌の正室・仙遊院(本多忠勝の娘)、創建年は1639年(寛永16年)といわれる。しかし、家昌の正室は1611年(慶長16年)に、また家昌自身も1614年(慶長19年)に没しており、創建年の1639年(寛永16年)と食い違う。

1639年には、家昌を継いだ後、幼少のため一時古河に所替えとなった奥平忠昌が、後継の本多正純を継いで宇都宮藩主となっていた。寺域には宇都宮氏の五輪塔があるが、その由来は不詳である。報恩寺は創建当時は市内松が峯にあったが、その後伊賀町西原(現在地)に移された。戊辰戦争(宇都宮城の戦い)では、寺域に近い六道辻が主戦場となり、その戦火で本堂を焼失している。

現在の本堂は戊辰戦争の戦火で焼失したのを、その後再建したものである。

山門

茅葺の唐門。1639年(寛永16年)創建時そのままの状態といわれ、宇都宮市に残る最古の木造建築物と推定されるが公的認証(客観的・中立的な証明)がない。宇都宮市指定文化財となっている延命院地蔵堂は18世紀初頭の建築であるが、市内最古の木造建築であろうことが宇都宮市により公認されており[1]、出版物にもその記述が見られる[2]。

墓地

宇都宮藩

戊辰戦争(宇都宮城の戦い)で亡くなった宇都宮藩士の墓がある。

薩摩藩、長州藩、大垣藩

戊辰薩藩戦死者墓・戦死烈士之墓がある。うち戊辰薩藩戦死者墓は1917年(大正6年)の建立で、第6代内閣総理大臣の松方正義の筆による。また戦死烈士之墓の前には、寺域であるが鳥居が建てられている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F 【奥平氏】より

家祖 奥平定家 種別 武家 華族(伯爵) 出身地 三河国南設楽郡作手 

奥平氏(おくだいらし)は、戦国時代に三河南設楽北東部の作手地方(現・愛知県新城市)を中心に活動した日本の氏族の一つ。

今川氏や織田氏、松平氏、武田氏を経て、徳川氏(松平より改姓)に臣従した。出自には各説がある。

村上源氏の後裔と自称した赤松氏の一族と称した(樋口清之・丹羽基二『姓氏』)。

丈部姓有道氏流児玉氏一門片山氏の支流という(太田亮『姓氏家系大辞典』)。

家伝では上州が発祥地と言われている。その後、上州の所領を放棄して、三州に新天地を求め転住したと伝わっている(『中津藩史』、『寛政重修諸家譜』)。

その三州転住後では、奥平貞昌の大叔父、叔父、弟、甥の4世代で支族を分出するが、それでも命脈を細々と保っているという境遇に変わりは無かった。そこで宗家は、彼らを独立させるよりも奥平氏の重臣として厚遇することで、弱体化を防止した。その4世代の内から、有力7家が重責を担う事となった。それと平行して、奥平氏以上に弱小な在地の領主なども重臣として併呑。小領主は5氏が選ばれた。この12家が、七族五老と呼ばれる奥平氏の家老衆となるのである。

三河山間部の小豪族に過ぎなかった奥平氏が陽の目を浴びるようになったのは奥平定能(貞能)の代である元亀年間(1570年 - 1573年)からである。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで家運を開いた定能の長男奥平信昌(貞昌)は、徳川家康の長女・亀姫の婿に認められる。亀姫との間には4男1女が生まれるが、早世した1子を除き、分家を「徳川家御連枝」として興すことを許されるなど、信昌の子たちはいずれも家康の外孫として厚遇された。そのため信昌は家康の女婿として上野国甘楽郡小幡(宮崎)3万石を領し、関ヶ原の戦い以降は美濃国加納10万石を領した。江戸時代には大名となり、下野国宇都宮10万石を領した。後に、豊前国中津10万石に移領し、廃藩時まで存続した。

奥平松平家

奥平松平家の家紋(桑名団扇)

信昌の末男松平忠明は、家康の外孫として、また家康の養子として松平姓を許されて奥平松平家を興し、故郷の三河作手藩の初代藩主となった。しかし慶長15年(1610年)に忠明が伊勢亀山藩に移封されたため作手藩は廃藩となり、その所領は天領となる。以降も忠明には転封が続き、摂津大坂藩、大和郡山藩、播磨姫路藩主(18万石)となった。子である松平忠弘にも転封が続き、出羽山形藩、下野宇都宮藩、陸奥白河藩、そして10万石に減封のうえ再び出羽山形藩に移されたが隠居した。以後は備後福山藩、伊勢桑名藩をへて武蔵忍藩主として廃藩を迎えた。


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