与謝蕪村と見性寺

http://kensyouji.main.jp/  【与謝蕪村と見性寺】 より

見性寺は宮津市小川にあり、山号を一心山という浄土宗(智恩院)の末寺です。寛永2年(1625)9月傳誉上人の開基、本尊は阿弥陀立像三尊仏。

文久2年(1819)旧暦11月9日本堂積雪の為倒壊し、明治2年(1869)5月15日に仮堂建立し、現在にいたる。

蕪村は宝暦4年(1754)の春、39歳の時宮津へ来て俳友、竹溪の住む見性寺に草鞋をぬいだ。

竹溪とは見性寺九世住職(芳雲上人)で俳句、絵画をよくした。蕪村が宮津へ来るきっかけは、宝暦3年(1753)に竹溪が京都の知恩院で催された百韻興業に参加して蕪村と知り合い、宮津への来遊を誘ったとされる。

見性寺に滞在して、近くの真照寺の和尚や無縁寺の和尚らと交流し、また丹後の俳人らとも交わって俳諧の奥義を深めるかたわら画道にも精進し、丹後の各地を回遊して「朝滄(ちょうそう)書き」と称する独自の画風を形成して、多くの作品を残した。

三俳僧図  (蕪村が書いたものと思われる)

左から人物は俳号「竹渓」の見性寺・触誉、中央は俳号「鷺十」の真照寺・七世恵乗、

右は俳号「両巴」の無縁寺和尚輪誉であり、いずれも蕪村が見性寺にいたころの俳諧仲間です。

三人を風刺したためか、線香の火で文言を消したあとがある。

直線上に配置

宝暦7年(1757)9月宮津を去って帰郷の際は新妻ともと一緒だと伝えられ、蕪村は45歳の晩婚であった。妻ともは絵画をよくして、雅号を琴といい与謝村出身と言う。二人には娘くのが生まれた。法名を与謝清了尼といい、京都洛北金福寺の蕪村と一緒の墓に葬られている。

蕪村は生涯自分の出所を明確にせず、妻ともに関しても一切明らかにせず、ともの郷里や親戚の者が上京して立ち寄ることを極度に嫌った。

 現在、見性寺に残る物は、当時の山門のみで、庭に昭和3年12月宮津蕪村会が建立した「短か夜や六里の松に更けたらず」の蕪村の句碑が建っている。この句は俳友雲裡坊が帰郷に際して、別れを惜しんで、一晩天橋立で語り過ごした時の句で、筆は蕪村の研究家として知られる、正岡子規の弟子、河東碧悟桐(かわひがしへきごとう)である。

直線上に配置

蕪村が丹後にて詠んだとされる主な句

菜の花や 月は東に 日は西に      五月雨や 大河を前に 家2軒

夏河を 越すうれしさよ 手に草履    春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな

雲の峰に ひじする酒天 童子かな    春の夜や 宵あけぼのの その中に

公達の 狐化けたり 宵の春


http://kensyouji.main.jp/  【ゲゲゲの蕪村妖怪絵巻】 より

蕪村が寄寓していたの見性寺の欄間に張られていたものと伝えられており、そのことから、宝暦4年から7年(1754年~1757年)にかけて蕪村が丹後国宮津(現・京都府宮津市)で絵を修行していた間に描かれたものと推察されている。

全8点の妖怪が描かれているが、単に妖怪を紹介しているのみのものから、妖怪の物語を綴ったものまであり、蕪村が日本各地を旅していた時期に、あちこちで伝え聞いた妖怪譚を描いたものと考えられている。

俳画に長ける蕪村の妖怪画は、妖怪として真に迫ったものというよりはむしろ、漫画に近いユニークな画風が特徴である。 。日本の中世における妖怪画は、恐怖と災厄の象徴としての妖怪を描いたものがほとんどだが、この蕪村を含む江戸時代の妖怪画は、滑稽なものや親しみのあるものとして描かれるものが多く、妖怪をフィクションとして楽しもうとする娯楽性が見て取れ、現代の妖怪漫画にも通じているとの見方もある

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