蕪村の雅号

https://groups.google.com/g/haikai/c/yQCjxUl3GY8 【蕪村の雅号】より

蕪村の雅号(雪翁)

蕪村の雅号のうち俳号については単純だから理解しやすい。ところが画号となると、その数も多く複雑で理解に苦しむ。そこで今回は、これら画号について

若干検討を試みてみたいと思う。

1、俳号について

俳号では最初に用いられたと考えられるのは「西鳥」である。これは「西国から来た渡り鳥」といった感じで江戸の俳壇に参入した挨拶でもあろうか。これが宋阿門に入ってから「宰町」と改めた。これは夜半亭宋阿の住んでいた所が、時の鐘を衝く鐘楼に近かったところから、時の鐘は時刻を知らせて町を宰領するという意味があったので、「宰町」に改めたと考えられる。ところが数年後、師匠である夜半亭宋阿が亡くなり、再びもとの「一羽烏」にもどったところから俳号を「宰鳥」と改めたのである。

この号は後に『宇都宮歳旦帖』で「蕪村」と改められた。これには諸説あるが、彼が歳旦帖を編纂した寛保4年の前年、彼はほぼ1年を掛けて福島、山形、秋田、青森、岩手、宮城と文字通り奥州を遍歴した。そこで彼が目にしたのは、冷害、飢饉などで疲弊した多くの農村であったと思われる。その印象が余りにも強かったため、彼は初めての歳旦帖を編纂するに当たって、俳号を「蕪村」つまり荒れ果てた(荒蕪の)村と代えることに決心させたのであろうと思われる。

これ以降蕪村は俳号については生涯変更する事はなかった。つまり、蕪村の俳号は「西鳥」「宰町」「宰鳥」「蕪村」の4号しかないのである。

2、画号について

画号について見るわけだが、画号には 落款と 印があるので、その順序で見て行きたいと思う。

落款

まず「落款」であるが、最も早く現れるのは★野総遍歴時代に結城下館を中心にしたころ描かれた作品に出てくる「子漢」「四明」「四明山人」「朝0(そうの字がどうしてもでないので・・)」であろう。これらの中では「四明」が最も多く用いられている。「四明」は比叡山の最高峰である四明岳に由来する。

「子漢」は天の川のこと。「朝そう」は戦国春秋時代の道家「列氏」にある「日ノ始メテ出ルヤそうそうりょうタリ」から採ったと思われる。

次いで★丹後時代であるが、この時代には「四明」「朝そう」「朝そう子」「魚君」「孟冥」を使っている。丹後から帰っての★初期京都時代では「平安趙居」「河南趙居」「淀南趙居」など「趙居」を使っている。「平安」は京都のこと。「河南」「淀南」はともに淀川の南ということ。また「長庚」もこの時期の号である。「長庚」とは金星(宵の明星)のことで、次の「春星」もその縁である。「趙居」は元時代の書画詩文で名を成した「趙孟ちょう」にあやかったのであろうと言われている。

★讃岐時代に入ると「春星」「謝長庚」「東成」「三菓」が使われた。讃岐から帰っての★京都時代といわれるこのころ、明和7年(1770)55歳の時、夜半亭2世を継いだが、絵画も円熟期に入った。有名な『十便十宜帖』もこの時期に描かれている。落款は「春星」が用いられた。もっとも俳画と解るものには「蕪村」若しくは「夜半亭」とし、峻別している。こうして最後の★大成時代に入るわけだが、この時代は俗に「謝寅」時代といわれるように、もっぱら「謝寅」が用いられている。「謝」とは氏の名である「与謝」の「謝」を取ったもので、この時代文人墨客は中国人に倣って苗字を1字で書くことが流行ったのである。「謝春星」「謝趙居」などである。

印章について

蕪村は各種の印章を用いている。次にそれらを羅列してみる。

まず★結城下館時代「四明山人」「渓漢山人」「淀水」などである。

★丹後時代では「四明山人」のほか「朝ソウ」「嚢道」「丹青不知老至」など。「丹青」とは絵の具のこと。絵を描いていると年を取るのが解らない、と言う意味。

★初期京都時代では「謝長庚」や「春星」などの号と同じもののほか「溌墨生痕」「三菓居士」「三菓堂図画印」などが用いられた。特に「溌墨生痕」は十宜図に使われているので有名になった。

★讃岐時代に入っても印文は同じものが用いられたが、「印文不明」とされる作品も多い。

★京都時代に入ると新たな印章を用いることはなくなり、専らこれまでに使用した「謝長庚」や「春星」などを用いている。

3、庵号などについて

普通庵号と呼んでおるが、必ずしも「庵」が用いられているわけではない。「芭蕉庵」などは解りやすいが、蕪村は「碧雲洞」「三菓堂」「三菓園」「三菓軒」「白雲洞」「雪堂」「白雪堂」「雪斎」「紫狐庵」など興にまかせて多種の庵号を用いている。「紫狐庵」は怪奇趣味の蕪村らしい。

大雑把に言って宝暦7年洛北に住んだ頃は「三菓書屋」、翌年平安城東に移ってからは「朱菓楼」、烏丸に変わってからは「三菓軒」など。「雪堂」「雪斎」は師である夜半亭宗阿の師である雪中庵嵐雪に因むようだ。これら庵号は当然ながら印章にも用いられている。

なお、「三菓社」は蕪村が太祇や召波などと作った結社で、蕪村が宗匠となって几董など弟子たちと開いた連句の結社は「檀林会」である。

因みに春生さんの庵号は「南郷庵」、小生のは「雪痴庵」である。小生の庵号は「ゆきちゃん」という幼童時代の呼び名である。

<以上、少し乱雑です。春乃さんにご訂正をお願いします。>

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