其角と蕪村②

https://groups.google.com/g/haikai/c/T-2OQAlwKFc 【其角と蕪村(その七)】より

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf5f.html

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf5b.html

十五日

七四 辻堂に死せる人あり麦の秋        七五 三井寺や日は午にせまる若楓

七六 朝風の毛を吹見ゆる毛むしかな      七七 我水に隣家の桃の毛虫哉

七八 鮓(すし)つけてやがて去ニたる魚屋(ととや)かな

七九 鮒ずしや彦根の城に雲かゝる

八〇 鮓おしてしばし淋しきこゝろかな    八一 朝風に(風寒く)毛を吹れ居る毛むし哉

十六日

八二 鮓を圧す我レ酒醸(かも)す隣あり   八三 鮓をおす石上に詩を題すべく

八四 すし桶を洗へば浅き游魚かな

八五 真しらげのよね一升や鮓のめし     八六 卓上の鮓に目寒し観魚亭

八七 若楓学匠書ミにめをさらす       八八 鮓の石に五更の鐘のひゞきかな

八九 寂寞と昼間を鮓のなれ加減       九〇 薬園に雨ふる五月五日かな

九一 巫女町によきゝぬすます卯月哉

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

七四 路傍の土堂に行き倒れの死人を仮に安置してある。それと、麦の収穫期との対比(白日下の死と生との対比)。三〇と類想。

七五 七一と同じく湖畔の光景。漢詩的世界を超えた蕪村の傑作句。

七六 爽やかな夏の朝風が毛虫の毛の一本一本を吹きよがせているよ。

七七 「我が水」は手水鉢などの水か。そこに毛虫が落ちている光景。

七八 魚屋が黙々と鮓(すし)魚をつけこんでいる。

七九 「鮒ずし」は琵琶湖の名産。これもよく知られた蕪村の句。

八〇 七八は魚屋の光景。こちらは自分で鮓をつくっている光景。

八一 七六と同じ毛虫の句。

八二 「我レ」(貧しいもの)と「隣」(富めるもの)との対比。

八三 「題すべく」は「題しよう」の意。白楽天の「石上題詩」(『和漢朗詠集』)等によっている。文人趣味の句。

八四 すし桶を洗っていると小魚が寄ってくる。

八五 「しらげよね」は精白米のこと。「しらげ」は精。「よね」は米。

八六 「観魚亭」は服部南郭一派の詩人がよく詩会を催した水亭。

八七 読書に余念のない青年僧を暗示させる一句。若き日の蕪村の姿を彷彿させる。

八八 「五更」は夜間を一更から五更まで二時間ずつに句切る中国の時刻制度。寅の刻(今の午前四時前後の二時間)。日の出(卯の刻)前。

八九 寂寞は、清浄、無声の意。一夜鮓がうまくなれてきた状況。

九〇 端午の日(五月五日)を「薬日」と称し、この日薬草を採る。この日雨が降れば、「薬降る」といい、明年作物が大いに熟すという。

九一 「巫女町」は生霊・死霊の意中を述べる巫女達の住んでいる町。「きぬ」は衣。「すます」は「清ます」で洗い濯ぐこと。

※七十八から以下、鮓(すし)の句が続く。この七九の「鮒ずしや彦根の城に雲かゝる」は、自筆句帳にも収載されており、また、太魯あての書簡にも見える、この『新花摘』の句の中では、よく知られた句の一つである。この『新花摘』中の鮓(すし)の句の中で、八二の「鮓を圧す我レ酒醸(かも)す隣あり」、八三の「鮓をおす石上に詩を題すべく」、八六の「卓上の鮓に目寒し観魚亭」、八八の「鮓の石に五更の鐘のひゞきかな」、そして、八九の「寂寞と昼間を鮓のなれ加減」と、つくづくと、蕪村というのは、漢詩に造詣の深い、漢詩人・蕪村という思いを深くするのである。そして、これら漢詩を背景としてしている句の中にあって、特に、八六の句の「観魚亭」の漢詩人・服部南郭と蕪村との関係というのは、蕪村の生涯にわたってのものと理解すべきものなのであろう。ここで、かって、「若き日の蕪村」で触れた、服部南郭について、ここで再記しておこう。

(再記)

http://yahantei.exblog.jp/i17

蕪村が江戸に出てきた当時、服部南郭に師事したと思える書簡(几董宛て書簡)などに係わる対談記事について先に触れた。そして、この服部南郭は、京都の人で、元禄九年に江戸に出て、一時、柳沢吉保に仕え、後に、荻生徂徠門に入り、漢詩文のみならず絵画(画号は周雪など)にも造詣が深かったということなのである。蕪村の誕生した享保元年というのは、享保の改革で知られている徳川吉宗の時代で、この吉宗時代になると、綱吉時代に権勢を振るった柳沢吉保らは失脚することとなる。そして、その吉保の跡を継ぐ柳沢吉里は、綱吉の隠し子ともいわれている藩主で、その吉宗の幕藩体制の改革とこの柳沢由里と深い関係にある柳沢淇園の「不行跡」との関連、さらには、これまた、その吉宗によって失脚される新井白石とは同門(木下順庵門)である祇園南海の「不行跡」との関連など、何か因縁がありそうでそういう一連の当時の大きな幕藩体制の改革などもその背景にあるようにも思えてくるのである。そして、蕪村が師事したという、服部南郭もまた、淇園・南海と同じく、柳沢吉保並びに荻生徂徠門というのは、これまた何か因縁がありそうで、当時の蕪村の生い立ちや関心事のその背後の大きな要因の一つのように思えてくるのである。なお、服部南郭については、下記のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www.tabiken.com/history/doc/O/O302L100.HTM

服部南郭

一六八三~一七五九(天和三~宝暦九)江戸時代中期の儒学者・詩人。詩文に長じ,学識豊かで世に容れられること大であった。通称小右衛門,名は元喬,字は子遷,南郭は号。京都の人。一六九〇年(元禄九)十四歳で江戸に出てきて十六歳で柳沢吉保に仕えた。壮年にして荻生徂徠の『古文辞説』に共鳴して門下となる。資性温稚で詩文の才能が世に知られ,北村季吟の門下であった父の感化もあって和歌も詠み絵画にも関心をもっていた。三十四歳のころ,家塾を開き門人を教授し古文辞の学を世に広めた。徂徠の門弟として,経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。収入は年々百五十両あったと言われる。著書のうち四編四十巻にのぼる『南郭先生文集』は本領を発揮した詩文集。「大東世語」「遺契」にはその学識の広さが見られ,「唐詩選国字解書」「灯下書」「文筌小言」は詩文論として評判を高めた。南郭は政治・経済を弁ずることがない点に特徴があるとされている。

https://groups.google.com/g/haikai/c/NuLpOwlHwwA  【其角と蕪村(その八)】より

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf6f.html

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf6b.html

十七日

九二 一八やしやがちゝに似てしやがの花     九三 かはほりのかくれ住けり破れ傘

九四 篝(かがり)たく矢数の空をほとゝぎす  九五 家ふりて幟(のぼり)見せたる翠微哉

九六 ぬなはとる小舟にうたはなかり鳧     九七 酒を煮る家の女房ちよとほれた

十八日

魚赤たのふだる人の七回忌          追福のために、しれるどちの

発句を乞て(集めて)手向ぐさと(を)なすも   則(亦是)讃仏場の因なるべし

九八 梢より放つ後光やしゆろの花   九九 青梅や微雨の中行(ゆく)飯(いひ)煙

米侯一周忌

一〇〇 ゆかしさよしきみ花さく雨の中  一〇一 芍薬に帋魚(しみ)うち払ふ窓の前

右題学寮

一〇二 青むめやさてこそしりぬ豊後橋

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

九二 「一八」は夏の季語で、アヤメ科の多年草。句意は「大きく白い一八の花は父で、その父に似た子のように、著我の花はやや小ぶりである」。謡曲「歌占」によっている。

九三 「かはほり」は蝙蝠。

九四 九二と同じく、謡曲「歌占」の時鳥の句。

九五 六一と同想の句。「翆微」は山の中腹、青い山。これも回想の句か。

九六 「ぬなはとる」は「薄葉取る」(夏の季語)。「うた(うた)」は当時漢詩擅に流行していた「採蓮曲」。

九七 「酒を煮る」は酒煮の祝いの振る舞い酒。その接待役の亭主の女房に一寸惚れたの意。召波の「覆面の内儀しのばし麦のあき」・「麦秋や婿殿ことしはじめじやの」の本句取りの句か。

九八 「魚赤」は几董門の俳人。「たのふ(う)だる」は頼んだ人。「しれどる」は知友たち。「讃仏乗の因」は狂言綺語の俳諧も仏法讃嘆の因となるの意。

白居易の「狂言綺語之誤」(和漢朗詠集)に因っている。

九九 「微雨」は小雨。

一〇〇 「米候」は太魯門の大坂の俳人。晩年「とら雄」と改号。安永五年五月二十一日没。

一〇一 「帋魚」は「紙魚」(しみ)で書物を食い荒らす害虫。「学寮」は寺院で僧侶が修学する所。

一〇二 「豊後橋」は宇治川に架かる橋。観月橋の別称。

※ 九八の「梢より放つ後光やしゆろの花」や一〇〇の「ゆかしさよしきみ花さく雨の中」は、蕪村門の几董や太魯に通ずる俳人に係わるもので、ここにきて、長い前書きを付したものとか、これまでの句作りとは異質な雰囲気を有している。これらの前書きを見ていくと、この『新花摘』が起草された、安永六年(一七七七)の四月十七日、十八日の、蕪村の日常生活と不即不離の作句のように思えるのである。当時、蕪村門においては、「百句立」=「百題即案」(短時間で即吟の多作する試み)などが行われていて、このことについて、「何故、安永六年の春から秋にかけて、普通の弟子には無理と思われる百句立を夜半亭

門下に強制したのか。几董を後継者として育成することを唯一の念願とした蕪村の、安永六年という時点における、専ら几董に焦点をあわせた教育法ではなかったか、とさえ思えてくる。考え過ぎの果ての模倣に陥り易い几董に、季題の本質を直感的に素早く把握する修練を課したのではなかろうか」(清水孝之稿「『新花つみ』の成立・・・その背景と成立」)という指摘もある。そして、蕪村の、この一夏千句を目指す夏行の「新花摘」の作句というのは、この夜半亭門の「百句立発句」の作句と、不即不離の関係にあるのかも知れない。いずれにしろ、こ『新花摘』の日付の「八日・九日・十日・十一日・十二日・十三日・十四日・十五日・十六日・十七日・十八日」の十一日間で百二句と、その夏行が順調には推移していたのである。

https://groups.google.com/g/haikai/c/nAHm0LsFXWA 【其角と蕪村(その九)】より

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf7f.html

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf7b.html

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf8f.html

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf8b.html

十九日

一〇三 若竹や是非もなげなる芦の中

春草

春草綿々不可名 水辺原上乱       抽栄 似嫌車馬繁華地 纔入城門

便不生                右劉原甫

蟻垤(ぎてつ)

一〇四 蟻王宮朱門を開く牡丹哉    一〇五 さみだれや田ごとの闇と成にけり

廿日

右の句は去年の夏云ひすてたる句也。     百地月居が日記にも書もらし

たるべし。あへてよき句といふには     あらねど、いさゝかおもふしさいあれば、

かいつけ侍るなり

一〇六 うきくさも沈むばかりよ五月雨     一〇七 ちか道や水ふみわたる皐雨

一〇八 さみだれや鳥羽の小路を人の行  一〇九 さみだれに見えずなりぬる径(コミチ)哉

廿一日

一一〇 五月雨や滄海を衝(ツク)濁水    一一一 さみだれや水に銭ふむ渉し舟

一一二 濁江に鵜の玉のをや五月雨     一一三 摂(カヽゲ)あへぬはだし詣りや皐雨

一一四 さみだれや鵜さへ見えなき淀桂   一一五 皐雨や貴布禰の社燈消る時

一一六 小田原で合羽買たり五月雨     一一七 閼伽棚に何の花ぞもさつきあめ

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

一〇三 「威勢のよい若竹も、水辺に繁茂する芦の間に二・三本だけではどうしょうもなさそうだ」。愛娘くのの絶望的な離縁問題を暗示する(『清水・前掲書』)。次の「劉原甫(りゅうげんぽ))の漢詩。「春草」に対応する詩題。「春草綿々トシテ名ヅケ可カ不 水辺ノ原上乱レテ栄(はな)ヲ抽(ぬき)ンズ車馬繁華ノ地ヲ嫌ウニ似テ 纔(わづか)ニ城門ニ入レバ 便(すなは)チ生ゼ不」。

一〇四 前書き「蟻垤(ぎてつ)」=蟻塚。蟻と牡丹との取合わせの幻想的な句。漢詩が前提にある。

一〇五 「五月雨が降り続いて田毎に水は満ちたが、月は厚い雨雲に閉ざされ、どの田も闇夜のように暗くなってしまった」。暗澹たる心情の表出(『清水・前掲書』)。この後に、後書きの、「右の句は去年の夏云ひすてたる句也。百地月居が日記にも書もらし たるべし。あへてよき句といふにはあらねど、いさゝかおもふしさいあれば、かいつけ侍るなり」が続く。文中の「百地」は寺村百池、月居は江森月居のこと

一〇六 「増水した他の池の浮草が今にも沈みはしないかと思われるほど、一きわ強く降る五月雨の雨脚」。

一○七 「近道を選んだら途中で水没していて、用心しながらゆっくりと草の根を踏み渡ってゆく」。

一〇八 「鳥羽田の農道をゆく蓑笠の人影は百姓の水見廻りであろう。洪水にならねばよいが」。

一○九 蕪村の暗い心の翳りを暗示しているか。

一一〇 「滄海(あをうみ)を衝(ツク)濁水」。「家庭的事件の衝撃の強さを寓した。この漢詩的表現が成功している」(『清水・前掲書』)。

一一一 「前句と一連の句。このほうが実感が深く一層痛切だ」(『清水・前掲書』)。

一一二 「一〇六と類想。『玉の緒(お)』の命のはかなさを暗示するか」(『清水・前掲書』)。

一一三 「作者の苦く暗い情念の表出である」(『清水・前掲書』)。

一一四 「一一二の別案。同じ主題を繰返さざるを得ぬ作者の心境が痛ましい」(『清水・前掲書』)。

一一五 「娘の離婚の原因が婚家の金もうけ主義にあったとは、弟子に対する父親の弁明に過ぎぬ。能や芝居の、身の毛もよだつ怨念の世界に通ずる情念が、圧(おさ)えきれぬ怨霊の顕示として作者の想像力を刺激したか」(『清水・前掲書』)。

一一六 「以下、家庭的苦悩かにの気分転換である。小田原ゆ箱根権現は『曽我物語』の舞台である」(『清水・前掲書』)。

※ここで、『清水・前掲書』の安永六年(一七七七)四月八日の「年譜記載」のものを記しておきたい。

四月八日 亡母追善のため、一夏千句を期して『新花つみ』の夏行を発企、四月二十日頃、中絶、理由は娘くのの離縁問題(皐廿四日付まさな・春作宛書簡)による。五月二日、百句ほどの末進を嘆ずる(皐月二日付書簡)。五月十七日以前に第一次(二十五句)第二次(七句)の追加の句を作る。後(年内か)、余白に修業時代の回想記を記す。

蕪村には「くの」というひとり娘がいた。『新花つみ』の前年の安永五年には、娘が両腕の痛みを訴えたので、京都でも名高い医師の鈴木多門に見せたりしていた。そして、その年の十二月に、三井家の料理人の柿屋伝兵衛方に嫁がせている。当時、蕪村は六十一歳、そして、娘は十三・四歳の幼さであったと思われる。そしてそれから五ヶ月ほどで、蕪村は娘を婚家から取り戻している。正名・春作宛ての書簡によれば、先方の父親が金もうけのことばかり考えていて、蕪村の気が染まなかったことと、娘が先方の家風に合わず病気になってしまったことが原因らしい。ここらへんの当時の蕪村の苦悩が、掲出の一〇五から一一

五までの「五月雨」の句として、その背景にあるというのである(『清水・前掲書』)。また、これらの作句と上記の年譜とを照合してみると、年譜の「五月十七日以前に第一次(二十五句)」というのが、『新花つみ』所収の一〇五から一三〇までの句で、「第二次(七句)」というのが、一三一から一三七の句ということになる。すなわち、これらの一〇六の句の後書きと一三一の前書きのところに掲載されている「廿日・廿一日・廿二日・廿三日」には第一次中断によるところの五月に入っての追加の句で、「廿四日」のものは第二次中断によるところの、これまた五月に入ってからの追加の句で、これらの「廿日から廿四日」の日付は、実際に、これらの句を作句した日付ではなく、蕪村が架空で記した日付ということになる。いずれにしろ、この「廿日から廿四日」の、後に追加した三十二句については、蕪村の当時の心象風景と合致するものが多いということは、ここで特記しておく必要があろう。

https://groups.google.com/g/haikai/c/Kn5FI5fA1rc  【其角と蕪村(その十)】より

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf9f.html

http://ship.nime.ac.jp/~saga/shinhana/leaf9b.html

廿二日

一一七 閼伽棚に何の花ぞもさつきあめ     一一八 葉を落て火串に蛭の焦る音

一一九 宿近く火串もふけぬ雨のひま      一二〇 照射して囁く近江やわたかな

一二一 雨やそも火串に白き花見ゆる      一二二 葉うらうら

一二三 谷風に付木吹ちる火串かな       一二四 兄弟のさつを中よきほぐしかな

一二五 あか汲て小舟あはれむ五月雨      一二六 水古き深田に苗のみどりかな

廿三日

一二七 けふはとて娵(よめ)も出(いで)たつ田植哉

一二八 泊りがけの伯母もむれつゝ田うへ哉

一二九 おその住む水も田に引ク早苗哉    一三〇 参河なる八橋もちかき田植かな

(句意など)(『清水・前掲書』)による。

一一七 閼伽=梵語の音訳。功徳・功徳水。仏に供える水や花。「うちわたすをちかた人にもの申すわれそのそこに白く咲けるはなにの花ぞ」(『古今集』旋頭歌)が背景にあるか。

一一八 葉にへばりついていた山蛭が、火串の火中に落ちて焦げる音がする。

一一九 猟師が雨の合間をぬって宿近くに照射(ともし)を設けた。

一二〇 照射(ともし)を設けて近江と八幡の二人が囁いている。近江は「近江小藤太」、八幡は「八幡三郎」を指す(『曽我物語』)。

一二一 雨の滴が火串に光っているのだろうか。それとも白い花なのだろうか。

一二二 「葉うらうら」というのは、一二一の別形の句で、「葉うらうら火串に白き花光る」のそれなのか、それとも、次の一二三の「谷風に付木吹ちる火串かな」の前書なのか、どちらにも解せなくもない。なお、『清水・前掲書』では、一二一の別形と解して、その上五は「葉うらはうら」の詠みである。そして、その句意は、「すべての葉裏が火串の光を反映して、花のように白くみえるよ」としている。

一二三 火串に火をつけようとしても、谷風が強く付け木が吹き消されてしまう。

一二四 「さつを」は猟師。兄弟の猟師が仲良く火串を設けて獲物を待ち受けている。

一二五 「あか」は舟底に溜った水。漁師が五月雨で小舟の舟底に溜った水を汲みだして愛おしむように手入れをしている。

一二六 水は古びて苔いろになっている深い田に早苗の若緑が鮮やかである。

一二七 田植えともなれば今日こそはと、新婚早々のお嫁さんも早乙女姿で田植えの仕事をしている。

一二八 田植えの手伝いの泊まりがけの伯母は人達と交わり田植え作業をしている。

一二九 前書きは「獺」(をそ・かわうそ)である。人里離れたかわうその住む水も田植え時には田に引いて来る。

一三〇 歌枕で名高い三河の八橋の近くでも田植えの最中である。

※ これらの廿二日(九句)、廿三日(四句)は、「五月雨・照射(ともし)・猟師・漁師」・「田植え」と、当時の蕪村の句会などの題詠などのものを、思い付くままに書き付けているという趣である。

コズミックホリステック医療・教育企画