つぐないについて

https://www.amorc.jp/blog/202010021607_2740.html?tc=melma201002&utm_source=haihaimail&utm_medium=email&utm_campaign=emailmagazine&utm_content=mailid-819  【記事:「つぐないについて」】

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン  より

語源的に言うと、「償(つぐな)い、贖(あがな)い」(redemption:リデンプション)という語は、「買い戻す」を意味するラテン語の「レデンプチオ」(redemptio)に由来します。

キリスト教でこの語が意味するのは、十字架の上でイエスが苦しみに耐えたことによって、人類を「罪から救った」(rachete)とされることです。

より正確に言えば、彼は自身の命を犠牲にすることによって、人類が地上に出現して以来犯してきたさまざまな罪を、完全に打ち消したとまでは言えないまでも、少なくともかなり緩和したとされています。神学の用語で言えば、これは「罪の赦免(しゃめん)」(remission)にあたります。

またイエスは自身の“復活”によって、彼を信じるすべての人が永遠の命を得ることができる“門”(portails)を開いたとされています。

私はあらゆる人の信仰の自由が尊重されるべきだと考えているので、宗教的なこの2つの考え方を信じることも信じないことも、個人の自由に任されるべき事柄だと考えています。

日常の会話では「つぐなう」とは、ある人が自分の行動上の過ちや失敗を埋め合わせることを意味しています。

突き詰めていえば、自分や他人や社会に損害を与えると言うことは誰にでもあり得ることで、与えた損害は、たとえ部分的にではあっても補償したり修復したりする努力をすべきです。そのためには、犯した過ちによって自分や他人に、どのような損害が生じたかを自覚していることが必要になります。

もちろん、つぐないのために長期にわたって多大な努力をしたとしても、ほとんどの場合、すべてのことが元に戻せるわけではありません。たとえば、殺された人は決して戻らないので、殺人を完全につぐなうことはできません。

しかし一方で、ある犯罪者が根本から改心するということは起こる可能性のあることです。

取り返しのつかない犯罪(殺人、レイプ、虐待、暴行など)をしてしまった人が、その犠牲者や家族の許しを得るために、可能なあらゆることを行っているという状況は珍しいことではありません。しかしそのような場合でも、相手の許しが得られることはそれほど多くはありません。

1930年代にアメリカ合衆国でレイプと誘拐の罪を犯し、死刑になったキャリル・チェスマンの例が良く知られています。刑務所で彼は3冊の本を書き、その中で自分が犯した罪を深く後悔していること、しかし告発の中には冤罪(えんざい)が含まれていることを主張しました。

彼はまた、社会システム自体によって不平等、不正義、貧困、挫折がどのようにして生じているかと、それが個人を暴力に駆り立てているありさまを本の読者に訴えました。1960年5月2日に彼の刑が執行される直前、死を目前にしたこの人物が、1948年に逮捕されたときとは全く別人であったと多くの人が証言しています。

自己へのつぐない(Se redempter soi-meme)

ある人が自分に与えた害を自分でつぐなうという場合もあります。

薬物中毒、アルコール依存症は、もし本人にその意志があり周囲の助けが得られるならば、徐々にその状態から離れて、地獄のような日々から抜け出し、身内とともに暮らす正常な生活へと復帰することができます。

このような自己救済は、実現するのがとても難しいことです。なぜならそれは、中毒に終止符を打つための、体と心を消耗させる強烈な努力を必要とするだけでなく、それを引き起こした原因(個人的な不安、実存的な怒り、極度の孤独、過剰なストレス、精神的なショック)を取り除くことも必要とするからです。

そのため、アルコールや薬物の依存症を克服した人が、同じように依存症を克服しようとしている人たちの手本としての役割を果たし、社会的に高い評価を得ていることは少なくありません。

自分自身や他の人に与えられた害を修復するために、今までとは違う方向に進もうとする人に「つぐない」(redemption)という言葉が用いられるのは、このことに多大な努力が必要とされるからであり、肉体的な苦痛や精神的な苦痛が伴うからです。

つぐないに取り組む人は、自分自身との闘(たたか)いを行っているのだと考えることができます。より正確に言えば、自分の弱さ、欠点、悪習、否定的衝動、悪癖への耽溺(たんでき)と闘っているのです。

もちろん、苦しまなければならないのは残念なことです。しかし、苦しみが必要とされる状況は、通常、過去のある時点で自分の自由意志を間違って行使したことから生じています。

この観点から考えると、つぐないとは、重大な過ちを自覚して自身の良心に照らしてその責任を引き受け、意図的にその埋め合わせを行うことにあたります。

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

ふたたび本庄です。

今日は、身につまされるテーマでした。誰もが過去を振り返ると、つぐなわなければならないことが見つかるのではないでしょうか。

また、大きな話をするならば、人類は、地球の生態系に与えた損害を早急につぐなわなければならないように思います。

文中で話題になったキャリル・チェスマンですが、調べたところ、彼の自伝をもとに1955年に合衆国で、『死刑囚2455号』(Cell 2455 Death Row)という映画が作られています。