http://miuras-tiger.la.coocan.jp/yomi-to-ne.html【黄泉国と根堅州国-死後世界の構造】 より
古代人の死あるいは死後世界に対する認識の一端は、黄泉国と根堅州国(根国)という、異質な両者にみることができる。ところが、この二つの死後世界は、それぞれ異なった性格を示していながら、記紀神話という体系的な神話の中では繋がりをもって描かれている。根国は『日本書紀』で具体的な神話をもっていないので主に『古事記』の叙述を扱うが、そこでは「妣国」と「黄泉比良坂」という二つのことばによって、黄泉国と根堅州国とは結ばれている。
妣国は、イザナキが涕泣の理由を尋ねたのに対してスサノヲが、「僕は妣国根堅州国に罷らむと欲ふ」と答えるところに出てくる。スサノヲにとって妣(亡き母」は、『古事記』の文脈からいうとイザナミであり、とすると、妣国とは黄泉国だということになる。一方、黄泉比良坂は、黄泉国神話ばかりでなく、生太刀生弓矢と天詔琴を持ってスサノヲから逃れるというオホナムチの根堅州国訪問神話の最後にも現われている。つまり、『古事記』神話によれば、黄泉国および根堅州国の地上との出入り口は、同じ黄泉比良坂となっているのである。
この、妣国と黄泉比良坂ということばを見るかぎり、黄泉国と根堅州国とは一つの世界だと思える。また、イザナキの黄泉国からの逃走とオホナムチの根堅州国からの逃走の神話は、ほぼ同じ語り口をとっている。そうした点から、西郷信綱は、「両者はほぼ一体であるとしてよかろう」とし、「黄泉の国と根の国とは、地下という一つの世界の二つの側面、一つのものの二つの違ったあらわれである」と考えている。(『古代人と夢』一二八頁)確かに、『古事記』の文脈に即して構造を考えてゆく場合には、「一つの世界の二つの側面」というとらえ方は有効かもしれないが、黄泉国と根堅州国との本質的な性格を考えようとする場合には、いささか問題がありそうである。つまり、両者は果たして「一つの世界」と言えるか、ということである。もとは異質な両者を、記紀神話という体系神話が「一つの世界」にくっつけてしまったと考えた方が正しいのではないかと思うからである。
妣国について言えば、妣=亡き母という中国文献の引写しがどれだけ真実を語っているかは疑問とせねばならない。ただ、『古事記』が妣の字を選んだところには、亡き母イザナミと結ぼうとする意識が当然あるだろう。としても、『古事記』の文脈は、母の死後、父イザナキ一人の産んだ子スサノヲが妣の国へ行きたいと言って哭いたという矛盾を孕んでいることは否定できない。
結論をいうと、妣国とは根堅州国(根国)でしかなく、そこは祖たちの魂の宿る世界と考えられていたとみるべきなのである。つまり、妣とは、亡き母も含めた祖先たちと考えてよく、そうした死者たちの魂の集まる異界が根堅州国と考えられており、そのために「妣国根堅州国」と表現されているわけで、『古事記』の文脈から独立させた場合、妣国を黄泉国とする根拠は見出せないのである。一方、黄泉比良坂は、その名称からも黄泉国へき出入り口以外には考えられない。『古事記』で根堅州国と地上との出入り口と語るのは、黄泉国と根堅州国とを、ともに出雲国に割り振るという、記紀神話体系のイデオロギーによるもので、『古事記』の体系から切り離した根堅州国訪問神話においては、出入り口を黄泉比良坂とする語り口をもっていなかったと思われる。また、逃走譚の類型は世界的に分布しており、同じ語り口をとっているからといって黄泉国と根堅州国とを一つの世界とみることはできない。『古事記』は、黄泉国と根堅州国というまったく異質な二つの世界を、神々の系譜化と同様の意識によって一つの世界に繋ごうとしている。そしてそれは、三品彰英が言うごとく、「根ノ国の祖神であるスサノヲ」と「高天原系の祖神」アマテラスとを「同胞として血縁的に結びつけ」ようとしたためであろう。(「日本建国神話の三類型」著作集一所収)高天原系の祖神アマテラスおよび月ヨミはイザナキ・イザナミの子として語られていたであろうが、その対立者スサノヲはもともと根堅州国の神であって、アマテラスのキョウダイなどではありえなかったか。とすれば当然、黄泉国と根堅州国とは、その神話の系統を異にしていたとみなければならない。そして、その系統の違いが、同じ死の世界を描きながら、まったく違う死の姿と死後世界とを現出させているということができるのである。
そこで次には、それら両者の世界が死をどのように描いているかということを、それぞれの神話から具体的に考えてみたい。
はじめに黄泉国について述べよう。黄泉国は、『古事記』と『日本書紀』第五段第六の一書などに記されているが、火の神を産んだために死んだイザナミの行った世界と語られているごとく、死者の行く世界として描かれている。そして、そこの住人(死者)と地上の住人とのわかれ目は「黄泉戸喫」であり、死の世界の食べ物を口にすることで死者は二度と地上に戻れなくなると意識されている。そこで、イザナキはイザナミの姿を「一つ火燭して」覗き見る。これは、黄泉国、少なくともイザナミのいる黄泉国の殿の内部が暗闇であることを示している。まったく明かりを拒否した闇の世界に死者イザナミは横たわっているいるのであり、それが死後世界における死者の在り方であった。このことからも、黄泉(ヨミ)の語源はヤミ(闇)の転訛だとする説を支持すべきだと思う。
さて、そのイザナミの姿はというと、ウジタカレコロロキテ、体には「八はしらの雷神成り居」に状態であった。この描写は、まさに腐乱死体そのものの印象をもつわけで、黄泉戸喫をしてしまい、闇の中に身を横たえる死者イザナミは、肉体の腐爛という、まことに生々しい姿によって語られている。このことは、死が肉体の腐爛という具体的な視覚から認識されていることを示すわけで、そには死者の魂や地上への再生などの古代的意識を拒否した死の姿がある。つまり、黄泉国とは、死そのもの、闇そのものとして描かれており、再生を拒否した死の世界だということができる。そのことは、この神話の結末で、千引の石をはさんだイザナキとイザナミとの「事戸渡し」にも現われている。黄泉津大神イザナミは「一日に千頭絞り殺さむ」と、死だけを司り、誕生は地上の側に逃れたイザナキが担当する。イザナミは、黄泉国の大神として、死を司る存在として意識されているわけで、この点からも、再生を拒否した死が見据えられているということができるのである。
それに対して根堅州国は違う。根堅州国もやはり死者の行く世界という認識をもつが、それは再生を伴った死である。八十神の迫害を逃れ木国(紀伊国)に行き、そこから根堅州国に向かうオホナムチは、地上における死を通過している。八十神のために「氷目屋を打ち離ちて、拷ち殺」され、木国でも「矢刺し乞ふ時に、木の俣より漏き逃が」れるという、死に等しい扱いを受けた後の根堅州国訪問なのである。また、根堅州国でも根堅州国の大神スサノヲによって課せられる試練を通過することで、死と再生とを体験する。これは、成人式の籠もり屋における若者たちの幻想とみるべきで、根堅州国の暗さや死の印象は、そうした成人式の通過儀礼がもつ死と再生の意識を反映していると考えられるわけだが、とにかく、『古事記』の根堅州国神話では、オホナムチの地上での死と、死や暗さを印象化させる根堅州国訪問神話が語られている。しかし、その死や暗さは、黄泉国のそれとはまったく異質であるといってよい。ここには、黄泉国には認められない明るさと再生の意識がある。明るさは、スセリビメの存在やオホナチの試練の克服にみられるし、再生は、結末におけるオホナムチの地上への再出現にみることができる。それは、スサノヲの力(生太刀生弓矢・天詔琴)をも受け継いだ新しいオホナムチの誕生ということができる。だから、彼は、大国主神という名を与えられ、地上の王になるのである。ここには、死を通過することで新しい生命が誕生するという、古代的な死生観が感じられる。根堅州国の明るさには、こうした死の浦にある再生の意識が反映しているとみてよいだろう。
このように、根堅州国は、折口信夫や柳田国男のいうごとく、沖縄のニライカナイ近い。しかも、根堅州国のネとニライのニは同源で、「根源」といった意味である。そして、こうした暗と明、死と再生とが共存する根源の世界こそ、古代人の考えた死者の行く世界であり、生命の誕生する世界である。またそこは、禍いの棲むところででもあり、幸いをもたらす神の住む世界でもあった。ニライカナイが海上はるか彼方と考えられのに対して、『古事記』の根堅州国は地下世界の印象がつよい。しかし、それは先の黄泉比良坂ということばなどを除いて考えた場合、地下に限定するのは問題である。たとえば、「大祓祝詞」にみられる「根国底国」は海中(海底)として語られている。黄泉国が完全に暗黒の地下世界として語られているのに対して、死と生の根源である根堅州国は、地下でもあり海中でもあり、またニライカナイのごとく海上遥かな島でもありうるというのが本来的な性格とみることができよう。そしてまた、根堅州国は、ワタツミ(産み神)の世界や常世国などと混淆し展開してゆく可能性を持っている。生と明るさという根堅州国の一面が肥大してゆくことで、ワタツミへと接近し、それが神仙思想などの影響を受けて内的な発展を遂げることで楽土(ユートピア)としての常世国は古代人の想念の世界として構築されてゆく。それに対して、黄泉国は、こうした類似の世界をもたず孤立的な異界として存在している。
このように、黄泉国と根堅州国とはまったく異質な死と死後世界を描出しているということができる。それは、古代人の死の意識や死後観を考える上で老夫問題を孕んでいる。黄泉国と根堅州国との違いをたんに神話の系統論へ帰納するのではなく、死の意識や死生観を探る糸口としてとらえ直す必要があるだろう。
根堅州国神話のもつ再生の意識には、魂の存在が関わっている。それが古代的死生観の基本的な在り方であろ。一方、そうした魂の存在を感じさせない黄泉国神話は、新しい意識をもつと考えられるが、それよりも、肉体の腐敗に顕著にみられる<死>という現実ち対する、人間の根源的な畏怖を表しているとみるべきではないかと思っている。そして、そうした恐れが、<魂>を求め、魂の宿る世界を幻視していったのであろう。
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