https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_47317/ 【海の向こうにあるとされた楽園『補陀落』を目指す、異教徒も衝撃の修行】 より
日本では『補陀落』と書いて「ふだらく」と読む、観音菩薩の住む楽園だとか、あるいは観音が降り立つとされる山に対する信仰があった。『補陀落山』とも称し、その形状は八角の形状であり、別名『小花樹山』、『光明山』、『海島山』とも呼ばれる。
日本各地でも『補陀落』信仰が盛んになったが、特に南紀の熊野一帯は中心的な信仰の場であった。そもそも、『ニライカナイ』や『竜宮』など、我々日本人は、海の向こうに楽園があるとか、神仏がいる場所があるとか考えてきた。つまり、海上異界の一種が『補陀落』なのだ。
『日本書紀』には、大国主の国づくりを補佐してきた少彦名が海の向こうにある常世に還っていったという記述がある。「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ」。このように海の向こうの楽園から神々がやってきて、役割が終わるとその楽園に還っていくという概念があった。
そして、この『補陀落』に行くために命を捨てる『補陀落渡海(ふだらくとかい)』という捨身行があった。これは命懸けで『補陀落』を目指す仏教修行の一環であった。
この行の中心地となったのが、熊野・補陀落山寺である。同寺は、仁徳天皇の治世、インドから熊野に漂流してきた裸形上人によって開かれたと言われており、平安時代の作といわれる秘仏「三貌十一面千手千眼観音立像」(この像には補陀落世界からこの地に漂着したという伝承がある)を本尊に据え、『補陀落』信仰のメッカとなり、多くの修行者が集まってきた。
この『補陀落渡海』は、まさに即身成仏の行であったと言っても過言ではない。歴代の住職は61歳の11月になると、30日分の食料と灯火のための油を乗せて、渡海船(小型の木造船)に入り、外から釘を打たれ、場合によって煩悩の数と同じ108個の石を全身にくくりつけ、『補陀落』を目指したのだ。
その渡海船には、『補陀落』を目指す住職が入る空間を取り囲むように4つの鳥居が設置されており、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」という仏教の修行の経過を表している四門だという。
また、一説によると死後、魂はこの4つの門をくぐって浄土往生すると言われており、この船そのものが異界を表現していると言われている。この渡海船は、伴走船によって沖まで曳航し、頃合を見て綱を切って見送る。
この『補陀落渡海』に関しては、クリスチャンから見ても衝撃的だったらしく、ルイス・フロイスも著作で触れている程である。他にも観音信仰が広がった中世には、熊野灘だけでなく足摺岬、室戸岬、那珂湊などからも『補陀落渡海』が行われ、僧侶だけでなく武士や庶民さえも渡海したという。この『補陀落渡海』の実例に関しては、面白い記録が残っているのだが、これはまた別の機会に譲ろう。
(山口敏太郎)
http://www.katuuragyoen.co.jp/blog/%E3%80%90%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%93%E3%81%86%E3%80%912%EF%BD%9E%E8%A3%9C%E9%99%80%E8%90%BD%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E3%80%8A2%E3%80%8B/ 【【熊野古道を歩こう】2~補陀落山寺《2》】 より
昨日に引き続き、補陀落山寺のご紹介です。補陀落山寺といえば、有名なのは補陀落渡海(ふだらくとかい)。
井上靖の短編小説の題材にもなっているので、内容をご存知の方もいらっしゃるかと思います。
中世日本では、遥か南の海の果てにこの「補陀洛」が存在すると信じられていて、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称しました。(補陀落山寺の立て札より)
……これだけ聞くと「へえ~」ぐらいしか思いませんよね?(´・ω・`)
「補陀洛渡海」の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。
その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。
場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。(Wikipediaより)
ちょっと待って、そんなことしたら死んじゃう(´д`|||)
そう、「補陀洛渡海」は捨て身行のひとつで、補陀落山寺の住職さんは60歳になると海に流されていったそうです。
昔は60歳といえば寿命全うしたって解釈だったのかなあ。
現在の感覚で言えば、60歳の方なんてめちゃめちゃ元気ですけど……(´・ω・`)
ただこの風習も、江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化したそうです。
ちょっと安心。
補陀落山渡海船
境内には、補陀洛渡海船のレプリカ(実物大)が展示されています。
これが案外小さくて……外海に出たら相当ゆれたんではないかと思います。
真ん中の箱の中に行者が入り、外から釘を打って出られないようにしたそうです。
四方に鳥居が取り付けられています。
昔の方は小柄だったとはいえ、かなり小さな箱。
四つんばいで入らないといけないぐらい狭いです(。・ω・)
補陀落山寺
那智の浜からは25人の観音の信者が補陀落を目指して船出したと伝えられており、境内にある石碑に名前が刻まれています。
平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。
貞観といえば、源氏の発祥元となる清和天皇の時代。
そんな遠い昔から、暴れん坊将軍の時代(享保)までの800余年の間、人の考え方や文化も変わっただろうに、ずーっとこのこの捨て身行が続いていたことは興味深いものがあります。
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