https://blog.kenbox.jp/?eid=matsuo-basho 【松尾芭蕉の俳諧、感情重視・現実主義の俳句を確立】 より
芭蕉の俳諧の独自性は、物事を既存の観念に囚われずに自分の目で見て、心で感じたままを俳諧に描き出したその感性であろう。
芭蕉以前の連歌・俳諧は和歌以来の季語の制約が強く、すでに存在する言葉のルールに則って言葉をうたってゆくものだった。
例えば「蛙」という言葉には、古今和歌集で紀貫之に「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と記され、鶯と並んで声の美しい存在というイメージがすでに確立しており、蛙と言えば、声のきれいな河鹿蛙が鳴く姿であり、なく蛙であった。
そしてもうひとつ別のルールがあり、芭蕉以前の俳諧は自分の感動をうたうのではなく、読む側へ軽妙な笑いを与えるというのが俳諧の目的だ、と考えられていたことも忘れてはならない。
「やり水のついたかいたく鳴蛙」(宗俊)という貞徳時代の俳句がある。
まず蛙を鳴かせるのは従来からの定石であり、テーマの中心には「なく蛙」があると見てよい。
この句ではそこに「やり=槍」「いたく=痛く」というイメージを働かせ、槍に突かれて痛いと泣く蛙の声を想像できる作りになっているのである。
別の例を挙げれば、「手をついて歌申しあぐる蛙かな」(山崎宗鑑)という発句があるが、
これも芭蕉以前のルールに忠実で、歌をなこうとする蛙のイメージと、その蛙に俳句を読む直前の人間の姿を重ねて滑稽をさそおうとする俳諧の調子があるのである。
そういう俳諧の世界で芭蕉の独自性はどこにあるのか。
純乎たる正風に徹した句であるという、「古池や蛙飛こむ水のおと」の句を見てみよう。
この発句には和歌以来の伝統である「なく蛙」のイメージはまったくない。
蛙の声のかわりに聞こえてくるのは蛙が古池に飛び込んだときの小さな音だけである。
さらに言うなら芭蕉が感じたのは古池にたったその小さな音自体でもなく、自分を取り巻く静寂の中に飛び込んできた音と静寂との対比にこそ美を見つけていたのではないか。
それを考えればこの古池の句はもはや芸術作品ではない。
むしろ、芸術的悟得の単なる記録であるというのも納得できる。
当然そこには軽妙な笑いはない。
蛙の小さな音さえ聞こえてくる静寂の中で、古池の音を耳にしてその心地よさにくすぐられるような微笑みこそあれ、従来の俳諧にあった誰もを喜ばせる滑稽さは微塵もなく、厳粛な雰囲気にこの句は包まれている。
芭蕉は俳諧を「笑い」ではなく「アート」として生まれ変わらせようとした。
そのアートとしての俳諧成立のためにこのふたつの古典ルールを乗り越え、笑いの文芸としての俳諧のその先に見事な感覚アートとしての俳諧を花開かせた開眼の句がこの有名な「古池や」であろう。
貧しい旅を続けたことで獲得した「わび、さび」の感覚が芭蕉の句には活かされている。
既に存在する古典文芸からのお題に言葉をつけてゆく遊びではなく、自らの感覚で題を設定し、文芸としての俳句を創ろうとした意志にこそ芭蕉の独自性を見出すことができる。
古典に縛られず未来を創り上げようとした。
縛られるものがあるうちはおのずと上限が決まっている。
その点、芭蕉は自分の感覚を突き詰め新しい意識を創り出そうとした。
技術的に言葉を重ねて作り上げた俳諧ではない。
美しいものを美しいと感じる心そのもので世界を表現し、従来までの俳諧の限界を突き抜けていたのだ。
芭蕉のその行動はそれまでの俳諧の常識を覆すものだった。
その常識外の行動ゆえに芭蕉の世界は果てしなく、他に追随を許さない。
自分という世界にどこまでの上限なく飛んでゆくのが芭蕉の俳諧の独自性なのである。
何故なら芭蕉の俳諧は日常生活に根をおいてないものだからだ。
人生を旅のごとく見る認識でとらえる芭蕉の視点は、日常よりも旅での変化の毎日にこそ己の俳諧の真意を見ていた。
その人生すべてをかけて俳諧という世界をそれまでのお笑いからアートへと変換させることに情熱を注ぎ、連歌・俳諧の世界を一変させた存在が芭蕉なのである。
固定されてしまっていた俳諧の季語ルールからの脱却は、奇をてらってのものだったのだろうか。
江戸時代ではレジャーとして、視野を広げられるものとして旅をとらえることはなかった。
その土地での変わらぬ暮らしが人の生き方や考え方を固定してしまっていたところを、
清貧に旅を続けて新しいものごとと出会うという芭蕉の生き方がそれまでの常識を壊し、
それまでになかった独自のアートとしての俳諧を生み出す原動力となったのだ。
芭蕉の俳句は、社会的身分に関係ない視点で事実をあるがままに表現したことで本邦の文芸史上でも現実主義確立の上で重要な転機となった。
芭蕉によって、文芸がより庶民に身近なものとなったのである。
それを踏まえた上で、一方で芭蕉が抱えていただろう民衆と己との葛藤についてまとめてみた。
限られた文字数で表現をする俳諧には表現の方法にも制限が出てくる。
また、それまでの歴史に培われてきた文学の歴史があり、人間には不変の美学というものもある。
芭蕉の時代にも大昔から伝統とされてきた和歌の美学を欠かすことはできなかったのである。
和歌の繁栄で確立されたその不変の美学を、芭蕉の俳句にも見ることができる。
芭蕉の俳諧は、和歌から続いた普遍の美学を引き継いだ。
その上で、芭蕉は庶民の普段の生活に密着した俳諧を創り上げ、また、素人の人間が創る俳諧も肯定することで文芸の垣根を取り払った。
より庶民の生活に根付いた文芸を築いたのである。
『何に此 師走の市に ゆくからす』 元禄二年ここに詠われたからすには芭蕉が己を投影させている。
師走の人の忙しさなどを知らずに市に飛んできたからすがいた。
俳諧に没頭し、庶民とはかけ離れた暮らしをしていた芭蕉もまた、師走の忙しさを意識することなく市に来たのだろう。
庶民の活発な生活力を前に圧倒されている芭蕉の姿が想像できる。
己の姿を醜いからすに例えたことで芭蕉が庶民の生活を見下しているわけではないことが分かる。
いや、それどころか地味なからすと比較させることで、生活力に溢れた師走の庶民を輝く存在にしようとしたのではないか。
庶民の日常にどこかで憧れ、しかしそれには同化できなかった己に対して悩んでいる姿も見えてくるようだ。
芭蕉は文芸をもっと庶民に身近なものとするために俳諧の世界を築き上げてきたといってもよい。
しかし、俳諧だけに専念して日常の生活に追われていなかった芭蕉は、いつしか庶民の感覚とは違う世界にいるようになってしまった。
和歌時代には一握りの地位ある人間の特権として生まれた文芸をより庶民の方に近付けたという意味で、芭蕉の功績は称えて良いものである。
だがしかし、この俳句に見られるように、芭蕉自身は民衆に同化できず、己の居場所を模索して悩み苦しんでいたのである。
文芸が庶民に近付いても、己を庶民に近付けることはできなかったのである。
『秋深し 隣は何を する人ぞ』 元禄七年
秋季の円熟を初句に呼びかけるが、その次にくる言葉はあまりに現実的である。
この落差は何なのか。これもまた、芭蕉の俳諧の世界と庶民の生活に存在した溝なのだ。
秋の深さを想う文芸的な気持ちはある。
だがその一方で、これまで隣人の職業さえ知ろうとしなかった自分の生活に思い当たった時に芭蕉が感じた一抹の寂しさをここで窺うことができる。
この秋の深さを嘆く姿は、同時に己の人生の終焉を感じ取っている姿に重なってくる。
己が築き上げてきた俳諧の世界は円熟し、終わりを迎える段階にまできた。
だが、すぐ隣にあった庶民の世界のことさえも、結局自分は何も知ろうとはしなかった、という反省の気持ちも含まれるのである。
ここでも芭蕉は己の俳諧の成果について疑問を持っているのである。
自分は民衆に文芸の素晴らしさをより知ってもらうために俳諧に人生を費やしてきた。
だが、自分はその民衆の中に溶け込むことができないのである。
この俳句のように隣人に対しても疑問を持つだけで、結局はそれ以上の追求をすることもないまま生きてきたのである。
人生の終盤を感じながら、芭蕉は今までの己の姿に疑問を隠すことができなかったのである。
『月しろや 膝に手を置 宵の宿』 笈日記 元禄八年刊
この俳句は、大商人・正秀宅での句会に招かれた時に芭蕉が詠んだ句である。
前述の俳句に見られたように、芭蕉は俳諧だけに生きてきた己と、生活のために生きてきた民衆との狭間で悩んでいた部分もあった。
だが、その悩む姿だけが芭蕉の本性ではなかった。
芭蕉は己の俳諧に絶対な自信を持っていたのである。
俳諧の道に生きる己と民衆との距離はあってしかるべきものである。
そう割り切り、自信に満ちていた芭蕉の心がこの句に込められていると思う。
月が出る前の、空の白み。その時間帯には、生活のための民衆の労働は終わっている
つまり、日常生活は終わっている。
そんな時間帯に催される句会で、芭蕉は膝に手を置いた。
膝に手を置く仕草は、別に緊張を意味しているわけではない。
芭蕉はこの時を待っていたのである。
月は風流の象徴である。月が出る瞬間を境として、民衆の生活の時間は終わり、自分の俳諧の出番が来た。
自分が人生を賭けてきた俳諧のショータイムが来たのを知って、意気込む芭蕉の姿が思い浮かんでくる。
それも、決して堅くならずに、あくまで自然体で俳諧の世界に入ろうとしている芭蕉の姿だ。
民衆の日常になじむことができなくとも、己の得意とする俳諧の世界では己の思うがままに表現ができる。
そんな絶対的な自信を持って膝に手を置く芭蕉の姿が想像できてくる。
芭蕉が詠んだこの俳句からは、松尾芭蕉が歩んだ人生が想像できてくる。
芭蕉がしようとしたのは、俳諧という方法による民衆と文芸との接近だ。
確かに彼はそれに成功した。
だが結局、芭蕉は自分自身と民衆との間には常に壁を意識していた。
俳諧が壁を越えても、己は越えることができなかったのだ。
それでも芭蕉は臆することなく、己の俳諧の世界を追及した。
最後まで芭蕉自身は民衆に迎合することはできなかったが、
悩み、苦しみつつも俳句に命を注いだ芭蕉の精一杯の姿が見えてくる。
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