https://blog.kenbox.jp/?eid=matsuo-basho 【与謝蕪村の俳句 連想と符合の高度な俳諧技術 松尾芭蕉との違い】 より
「折釘に烏帽子かけたり春の宿」という与謝蕪村の句には俳諧として高度な技術が織り込まれている。
烏帽子をかぶるような高貴な人物が、旅先なのか日常なのか
思いがけず一夜を明かすことになってしまい、いつものように烏帽子をかける専用の場所が
見つからなかったのでとりあえず目に付いた折釘にかけておいた、というシーンを想像すれば、当然読み手としてはその宿の相手に想像がゆくのであり、春という季節も重なると生命の息吹に満ち溢れた輝かしい情景を思い浮かべることができる。
連想を投げつけて芸術三昧であったところの稀有な名手であればこそ、これは連想も技術も行き届いている名句と言っていいだろう。
一方で、松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句はどうか。
蝉を涼しく感じる、あるいは暑く感じられると詠むという従来からの決まりを一変させ、
立石寺の閑寂の中に蝉の声を「しみ入」らせた手法が斬新ではあるが、本当にうたっているのは技でも連想でもない。
ただ、芭蕉個人が感じたそのままの「感情」である。
この二人の名手にはお互いうわついたところがない。
自分の人生には俳諧しかないと信じ、人生を通してそのための旅に身を置き、俳諧という芸術こそが自分の全てとした芭蕉だから、この句のように芭蕉の精一杯の心、等身大の表現が句に投影されている。
蕪村もまた、完璧すぎてうわついたところがない。
ただしその性質は芭蕉とは明らかに異なっている。
絵というメインの仕事があったからこそ、蕪村は俳諧に対して自分が求める上限を知っていて、それ以上のものを求めなかったことが、彼のうわつきのなさにつながっているのではないか。
それが証拠に、辞世の句で「白梅に明る夜ばかりとなりにけり」と残して蕪村は美しい世界の中で満足しながら死んでいった。
芭蕉は限度がないほど自己表現のアートとしての俳諧に生き様を求め続けていた故に、
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」というはっきりと心残りのある句が生まれたのではないか。
二人の辞世の句からは、それぞれの自分自身の人生への姿勢と結末が浮かび上がってくるのが見えるようだ。
一方、連句に目を向けると「市中は」に収められた芭蕉の作品に「草庵に暫く居ては打ち破り」というものがある。
これは前句の「ゆがみて蓋の合はぬ半櫃」や前々句の「そのままに転び落ちたる升落」を受けての句だが、役に立たない半櫃や枡落がありそうな場所を連想して草庵を思いつき、その草庵におそらくはしばらく滞在していたがいよいよ旅に出ようとしている主を思い浮かべている。
その内容に切り替えした中で「打ち破り」という結びの言葉は動的な表現が力強く、その前まで続いた単純な物の連想の遊びを打ち消すかのようだ。
そして勢いよく主を旅立たそうとしたかのような芭蕉の句には、たゆまぬ旅への憧れ、漂泊して俳諧の芸を極めたいという彼の感情が盛り込まれているようだ。
技能よりも感情を優先して句にする芭蕉の表現方法がこの連句にもよく現れている。
蕪村の「此ほとり一夜四歌仙」所収の連句「薄見つ」の巻に「春もおくある月の山寺」という句があり、これは「矢を負うし男鹿来て霞む夜に」に対する付合である。
傷ついた男鹿の突然な登場に対し、蕪村はその豊かな感覚美と雅高い想像力を活かして
句を通して動物往生譚を創作したのである。
前の句を詠んだ人間はそこまで求めずただ詠んだだけかもしれない。
だが蕪村は、矢を負って瀕死状態の男鹿が成仏を願って月の霞む山寺にやってきた、
という美しい空想のストーリーを前句との連想で一息に創り上げてしまった。
男鹿さえも浄土の仏の世界を求めていて、それに晩春という季節を重ねることで
より美しく、より儚い世界を心に遊ばせる。
この詩的な付号の妙こそが蕪村の特徴だ。
芭蕉は言葉のテクニックよりも、心の俳諧の修練を力説したと伝えられている。
芸術のための芸術である蕪村と、生のための芸術の芭蕉では、同じ俳諧の名手といえども全く別の向き合い方をしていたのだと想像してもあながち過ちではないだろう。
一般論として、テクニックは抜群であるが中身の単調さを指摘されるのが蕪村で、
うたっていることはひどくシンプルのくせにその句には無限の奥行きを感じることができると言われるのが芭蕉である。
和歌以来の伝統からの季語をテクニカル的にいじることでそこに芸術の美を出現させ、
ゆとりある人生を満足に生きたのが蕪村で、物事を自分が感じたままにうたい
人生そのものを俳諧で表現することに終始してもがいている、ぎりぎりいっぱいなのが芭蕉。
それぞれの生き方の違いが、二人の俳諧にはそのまま映し出されているようだ。
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