https://plaza.rakuten.co.jp/meganebiz/diary/201409240003/ 【山上憶良 秋の七草の歌 秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花 (4)】
山上憶良(やまのうえのおくら)
秋の野に咲きたる花を
指および折りかき数ふれば七種ななくさの花
萩の花尾花葛花くずはな撫子の花
女郎花をみなへしまた藤袴ふぢはかま朝顔の花
万葉集 1537-1538
註
山上憶良の名歌。
万葉集で、長歌と短歌(反歌)の組み合わせの連作形式は多いが、短歌と旋頭歌(せどうか)の連作はきわめて珍しい。というより、もしかするとこの一例のみか。
一首目は5・7・5・7・7の短歌形式。
二首目は5・7・7・5・7・7の旋頭歌の形式で、民謡風の野趣がある「鄙ぶり」。
尾花:薄(すすき)の古語。雅語的表現としては現代でも用いることがある(「枯れ尾花」など)。
撫子:ナデシコ科の多年草。セキチク、カーネーションと近似種。
女郎花をみなへし:オミナエシ科の多年草。秋に黄色い可憐な花を咲かせる。語源は「美人(をみな)・減(へ)し」であるとされる。美人も真っ青になるぐらい可愛いというわけか。
朝顔:桔梗(ききょう)のこととされる。現在言うアサガオ(ヒルガオ科)は、まだ(中国から)伝来していなかった。
山上憶良 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/25 05:22 UTC 版)
山上憶良は、春日氏の一族にあたる皇別氏族の山上氏(山上臣)[1]の出自とされる[2][3]。山上の名称は大和国添上郡山辺郷の地名に由来するとされ[2]、山於(やまのえ)とも記される[2]。
一方で日本文学界において万葉学者の中西進が、憶良は天智・天武両天皇の侍医を務めた百済人憶仁[注釈 1]の子で、百済の滅亡に際して父親と共に日本に渡来、近江国甲賀郡山直郷に住み着いたことから山上氏を称するようになったが、次第に土地の有力氏族である粟田氏に従属し同族化していったとする説を唱えている[4]。この説に対しては、青木和夫、佐伯有清が、歴史学の立場から批判を加えている[5]。古市黒麻呂と同類である。(西坊『西坊家口伝集続々』2015年)
経歴
大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある[6]。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らと共に、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。
神亀3年(726年)頃筑前守に任ぜられ任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を[7]、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」[8]を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。
山上船主を憶良の子とする説がある。
歌風
仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に取られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。
抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている[9]。
作品
神代(かみよ)より 云(い)ひ伝(つ)て来(く)らく 虚(そら)見(み)つ 倭国(やまとのくに)は 皇神(すめかみ)の いつく(厳)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国(くに)と 語(かた)り継(つ)ぎ 言(い)ひ継がひけり・・・
(「神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理」『万葉集』巻5-894)
いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌)(『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898)
憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ(『万葉集』巻3-337)
春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(大宰府「梅花の宴」で詠んだもの)(『万葉集』巻5-818)
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(『万葉集』巻8-1537)
瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(『万葉集』巻5-802)[注釈 2]
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも [注釈 3](『万葉集』巻5-803, 今昔秀歌百撰 7 、選者:中井茂雄(元:獨協大学職員))
行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫(『万葉集』巻5-874)
世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)
士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして(『万葉集』巻6-978)
【*奈良時代の農民の厳しい暮らしの様子を記した 『貧窮問答歌』】
なお、2019年5月1日から使用されている元号「令和」の典拠として、巻5の梅花の歌32首(815-846)の序文が採用されたが、山上憶良を序文の実作者とする説がある[10]。
0コメント