現実について

https://www.amorc.jp/blog/202009041521_2715.html?tc=melma200904&utm_source=haihaimail&utm_medium=email&utm_campaign=emailmagazine&utm_content=mailid-805  【現実について】 より

もしかしたら皆さんにも、次のような経験があるのではないでしょうか。

ずいぶん昔のことになりますが、友人が運転している車の中でトランプをして遊んでいたのです。

車が高速道路のトンネルに入ると、トンネル内の黄色の照明にトランプが照らされました。

すると、ハートとダイヤの赤色の札が、スペードとクラブと同じ黒色になりギョッとしました。

最近はLED照明などの普及で減っているとのことですが、一部のトンネルでは低圧ナトリウムランプという照明が使われています。この照明の光には赤色の波長がほとんど含まれていません。

高速道路のトンネル

通常私たちは、目の前に見えているものが、見ている通りのものなのかなどということはあまり疑いません。

ところが、照明が変っただけで物の見え方が大きく変化するというこのような体験をすると、ほんとうの世界はどのようなものなのだろうかという疑問がわいてきます。

超音波を感じることができるコウモリや、嗅覚が人間の何万倍も鋭い犬は、きっと私たち人間とは、まるで異なる世界を体験していることでしょう。

哲学では、私たちが知覚している世界のことを「現実」(reality)と呼び、知覚とは無関係に存在している世界のことを「実在」(actuality)と呼びます(別の用語が使われる場合もあります)。

現実と実在の問題は、何千年もの間哲学で追究されてきました。おそらくいまだに解決していない問題です。

当会のフランス代表が自身のブログに、現実とは何かを話題にした文章を投稿していますので、ご紹介します。

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記事:「現実について」

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

現実とは、この言葉のそもそもの意味から言えば「本当であるもの」、「本当に存在するもの」です。しかし、より具体的に言えば、私たち人間の五感、つまり視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚によって捉(とら)えられるものが、通常「現実」と呼ばれています。

この立場から言えば、私たち人間にとって最も現実的なものは物質からなる世界です。私たちは毎日、物質の世界で生活し、他の人たちと交流しています。

私たち自身の身体は、物質の世界という現実の一部であり物質の世界と不可分のものです。目覚めているとき、私たちは自分の身体を自分自身だと見なしていて、自分にとって極めて現実的なもの、つまり真に存在するものだと考えています。

VRゴーグルで仮想現実を体験する若い女性

現実

五感によって捉(とら)えられるということを、現実であることの判定基準だと考えるということが、もし確実に正しいのであれば、「物質の世界だけが現実だと言い切れるのだろうか」とか、「心の働きによって私たちが持っている観念は、現実として存在すると言えるのだろうか」というような疑問を、私たちが持つことは決してないでしょう。

このような疑問が生じる最大の理由は、おそらく、実際には存在しない事物を、私たち人間は思考したり想像したりすることができ、それを自分の意識というスクリーン上で見ているときには、それが自身にとって現実に感じられるからです。

現実だと感じられるものに、このように異なる2つの種類があることから、心理学者は、「客観的現実」(objective reality)と「主観的現実」(subjective reality)という語を用いています。

私たち人間は、一日中、客観的現実の世界と主観的現実の世界との間を絶え間なく行き来しています。

空想にふけっている小学生の男の子

バラ十字哲学の立場から言えば、現実とは意識の状態です。そのため、意識を外に向けるのか内に向けるのかによって、結果的に現実は客観的になったり主観的になったりします。

しかし、どちらの場合にも誤りが生じる可能性があります。客観的現実の場合には感覚上の錯覚が生じますし、主観的な現実の場合には思い違いが生じます。

ですから私たちは「現実」と「真実」を混同するべきではありません。たとえば、死後の行き先として天国というものが存在するとある人が考えているとしましょう。その人にとって天国は十分に現実的な場所かもしれませんが、それは真実でしょうか?

あの世

物質的な世界というものが私たちにとって最も現実的であるということは、決して否定できないことでしょうが、バラ十字会員の多くは、死後の魂が2つの人生の間に滞在する、「あの世」というものが存在すると考えています。

確かに、五感によってあの世を知覚することはできず、そのため物質主義者や無神論者の多くはあの世が現実に存在すると考えません。

しかし、人間の意識には、あの世と同調してそこから印象を受け取ることが可能であり、特にこのために瞑想という手段を用いることができます。さらに、あの世にいる存在と接触することができる能力を持つ人がいることが知られています。

フランス人の大部分が知っている、「見たものだけを信じなさい(Ne croire que ce que l’on voit.)」という格言があります。この格言の通りに、見ることができないということを理由にして、極端に合理主義的な人たちはあの世が存在することを否定します。

しかし、空気を例に取りましょう。空気は見ることはできませんが、それが存在することは誰もが認めます。その理由は、さまざまな方法で科学がその存在を立証したからであり、どのような種類の気体で空気が構成されているのかが今では知られているからです。

同じように、多くの科学者が真に望むならば、いつの日か科学は次のことを立証すると私は確信しています。ひとつは、人間が魂を持ち、魂は脳の機能を超越した直観的認識の手段かつ知性であるということです。もうひとつは、万物にはある普遍的意識が備わっていて、この普遍的意識こそが宇宙の本質であるということです。

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

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ふたたび本庄です。

以前もご紹介したことがありますが、薬師寺、興福寺など、奈良にあるお寺の多くは法相宗という宗派に属します。

この宗派に伝えられているのは唯識という仏教の伝統的な考え方であり、この考え方では現実とは(本当に存在するものは)八識だけだとされています。八識とは五感による認識と意識と2種の潜在意識です。

上の文章で説明されていた「現実とは意識の状態である」というバラ十字哲学の立場と良く似た考え方です。

哲学者の大森荘蔵(1921-1997)さんも唯識と似た説を唱えています。大まかに言えばこの説では、世界そのもの(物)と世界を知覚する自己(心)は、認識というひとつのものから、私たち人間が勝手に分離、想像したものだとされています。