徐福と弓月の君

https://lunabura.exblog.jp/20232203/  【徐福と弓月の君  竹内宿禰は襲津彦に迎えに行かせた】 より

本日の妄想

佐賀県には徐福伝説が深く根付いていて、上陸地の話や、当時ぬかるんでいた話など、けっこう具体的な話が今でも話題になる。福岡県でも筑紫野市の宮地岳、福岡市の名島など、枚挙にいとまがない。

秦の始皇帝から逃れた徐福は3000人の童男童女を連れて、日本に向かった。

生殖能力を重視したのだから、新たな国造りを意図した事がみてとれる。船の数だけでもたいそうな数だ。各船はばらばらに日本に到着したのだろう。

佐賀県の吉野ヶ里には中国の影響があると言われるが、徐福のもたらした文化を指すのではないかと思っている。

ばらばらになった徐福の船団は長い時間をかけて互いの居住地を発見して、連絡を取り合うようになっていたと思われる。

徐福の死後、約400年。

竹内宿禰が生まれた。

父が武雄市で祀られている。母も同様。母の墓は小郡市の竈門神社に伝わっている。

小郡市のすぐ隣は基山(佐賀県)だ。竹内宿禰は佐賀生まれだろう。

基山(きやま・きざん)は「キ」の国でもある。

竹内宿禰は和歌山県の紀の国の湊も利用していて、そこにも徐福伝説がある。

同じ「キ」の国なのだろうと思っている。

つまり竹内宿禰には徐福関係の血が流れているのではないか。それがずっと気になっている。

宗像市の織幡宮は「シキハム」様と呼ばれている。主祭神が竹内宿禰だから、彼の名が「シキハム」というのだろうか。まだ、確証はない。

しかし、神功皇后をそこまで連れて来て、近くのハツでハタ織りを指示していることから、

秦氏の関連性が見られる。

竹内宿禰は神功皇后を旗頭にして新羅攻撃をした。それから、しばらくして、新羅によって足止めを食らっている弓月の君たちを息子の葛城襲津彦に迎えに行かせた。(日本書紀)

弓月の君はもちろん秦氏だ。

一方、新羅では『晋書』辰韓伝に、「辰韓は馬韓の東にあり、苦役を避けて韓に逃げて来た秦人が住んでいる。」とある。

この秦人も秦の始皇帝の時代の人たちだった。

そうすると、秦の始皇帝から海路で逃れた徐福たちと、陸路で逃れた秦人たちがいたことになる。

後者が弓月の君とはいえないだろうか。王族とはいえ、王位争奪に負ければ命はない。

1~2万人を連れていたので、陸路でないと移動できなかった。

ふと、そう思い付いて弓月の君についてwikipediaを調べた。

弓月の君

帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。

そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。

渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(wikipedia)

葛城襲津彦と平群木莵宿禰は竹内宿禰の子。

イメージとしては上の感じ。

「弓月の君」=「秦人」であれば、妄想は結実する…。ということで、久し振りの妄想コーナーですぞ。

徐福は言った。「扶桑の国(日本)に先に渡って、平和な国を創っておきまする。

貴殿(弓月の君の祖)は陸路で人々を連れて東の果てに行ってください。必ず迎えに行きます。」

「分かった。東の果ての湊で待とう。扶桑の国にて必ず会おうぞ。」そう言うと、弓月の君の祖は海路で行く徐福を見送った。

徐福は有明海から入って行き、ありなれ川の右岸に着いた。近くの倭人たちに技術をもたらしながら、倭人と通婚して溶け込んで行った。

その一方で、弓月の君たちの居所を確認するために使者を何世代にもわたって中国に送り続けた。

それから数百年後。佐賀で生まれた竹内宿禰は成長して、弓月の君からの連絡を知った。

「ついに約束の時が来た」息子の襲津彦を呼び出すと、加羅に迎えに行くよう命じた。

今日は、こんな妄想が浮かんでしかたがない。

取り敢えずメモしないと、次に進めない。

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