弓月の君

http://www.kibinosato-hada.com/kibinosato-hada2.com/course2.html  【弓月の君秦氏の謎】 より

 「弓月の君率いる秦氏の謎」(ゆづのききみひきいるはたしなぞ)

日本書紀で伝えられるところによると、応神天皇の時代に秦(しん)の始皇帝の子孫である「弓月の君」が百数十県の民、数万人を率いて、百済から渡来してきたという。

秦氏(はたし)の研究で発掘された遺跡には新羅系の物が多く、日本書紀が新羅を百済と間違えたとするのが定説である。秦氏は、土木、製鉄、養蚕、機織りの技術を持って渡来し、山城(現在の京都府)を中心に大和朝廷を支え、平安遷都にも大活躍したという。聖徳太子の知恵袋的存在であった秦氏の秦河勝は有名で、弥勤菩薩で知られる広隆寺も秦氏の氏寺であるが、その秦氏と当地総社市秦との関係は推測でしかない。

その秦氏が、この総社市秦に本当に渡来してきていたのか。秦氏は、朝鮮半島に新韓をつくり、新羅を経て、まずは九州北部の宇佐八幡神社を拠点にしたという。そして中国地方を経て、京都まで最先端の文明を持って制覇したという。稲荷神社、八幡神社など秦氏が全国に建立した神社は約八万社もある。現在の岡山県にも秦氏の関係しているものは極めて多数にのぼり、美作の国まで秦氏によるものと言われている。

法然上人の母も秦氏であったという。しかし、県内に秦氏に関係する事物が多いからといって当地秦に秦氏が渡来して住み着いたという明確な証拠は未だないが、その可能性は県内の実態からもきわめて高い。これまでの物的な証拠としては、秦原廃寺の瓦の文様と秦氏の氏寺である広隆寺の瓦の文様がよく似ていることがあげられるが、飛鳥時代に京都と当地秦に同じ様な瓦を製造する文明をもった勢力があったとしかいえない。また、秦上沼古墳から出た三角縁神獣鏡は京都の椿井(つぱい)大塚古墳から出た鏡と同型といわれており、古墳時代の前後に双方に相当の勢力をもった豪族がいたことは明らかであるが、それが渡来人秦氏によるものとは断定できない。しかし「秦原廃寺の一帯は、和名抄にいう備中国下道群秦原郷で古代に渡来氏族の秦氏の居住地であったことは確かであろう。」、「秦原廃寺も秦氏の氏寺であったと考えて間違いない。」(薬師寺慎一編著 吉備の古代史事典)との解説もある。

以上のような明確な証拠もない推測が、今日までの約1700年続き、吉備の古代史を作り上げてきた。1700年間未盗掘のまま安らかに眠ってきた当地秦の30数基もの-丁𡉕古墳群、秦氏の謎を解明するためにもこの古墳の発掘調査こそ市政の重要課題だ。

吉備の国の中心地であった総社市の古代史解明に考古学者関係者はもとより、総社市民の大きな期待がかかる。(板野 忠司)


https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-11964887319.html 【秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした】 より

日本書記の第14代「仲哀ちゅうあい天皇」の第8年に,弓月ゆづき国の巧満こうまん王が,日本の朝廷を公式訪問し、養蚕の蚕の種を献上したとある。現在、4世紀後半に当たると見ているる。応神天皇14年に弓月の君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。

日本に渡って来た弓月の君が元々居住した弓月国の場所を探してみた。現在の新彊ウイグル自治区の中にグーグルマップで検索した。この国から東方に移動し、朝鮮半島の任那から日本に渡来した。弓月国についての記述は、中国史書、資治通鑑にのっているとか。

弓月国の中心

ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海とアフガニスタンの間」と言う。正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあった。古代の弓月城は厳密には東の霍城との間にあると言われるらしいが、現在地の弓月城の境内の形状が日本の神社の境内に良く似ている。

伊寧市街

伊寧市、グルジャ市は、中央アジアの中央部のイリ地方の中心にある市。現在中華人民共和国が統治しており、新彊ウイグル自治区イリ・カザフ自治州に所属する県級市である。中国語での正式名称は伊寧市(イーニンし)。ウイグル語での名称はグルジャ。カザフ族やモンゴル族などの間でもグルジャと呼称されることがある。クルジャとも表記される。また、イリ地方の中心でもあるため、話し言葉でイリと呼称されることも多い。

参考

秦氏の男性遺伝子は中東からやってきた

弓月、すなわち三日月はユダヤ人の象徴であった。ちなみに、現在のイスラムの象徴は三日月と星である。三日月は発展を意味するとか。

秦氏、キリスト教徒説

秦氏の東方移動について

近くにナラ、ヤマトがあった

朝鮮半島の任那を経由して、日本に渡来

応神天皇(ホムタワケノミコト)とヘブライ語

資治通鑑【しじつがん】、中国の史書。宋の司馬光の編著。本文294巻。英宗の援助を得て,1066年―1084年に完成。前403年(戦国時代)から959年(五代末)の史実を編年体で記す。史料は正史のほか実録から小説まで322種の書を参考にしている。(参考)

参考: 弓月国の近くにヤマト、ナラの存在の示唆

渡来人のお土産

弓月の君

帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記された。

全国に15万とも20万あるとも言われる古墳であるが、ここから出土する土器は殆どが須恵器である。高坏、器台、装飾壺、あるいはそれらの複合土器であり、全国どこへ行っても同じような須恵器が古墳に副葬されている。どうしてここまでそっくりなんだと思える土器が、主に6-7世紀の西日本の古墳を中心に出土している。また昨年、「加羅・新羅の旅」と称して韓国南西部を旅した時に見た古墳の須恵器は、全く日本の古墳から出土したものと同じであった。(歴史倶楽部HP、「日本人の源流を求めて」のコーナー参照。)これらの事実は、「須恵器=渡来人=古墳築造=・・」という図式を思い浮かばせる。・・の部分は人により色々であろう。「製鉄」であったり「機織り」であったり、或いは「騎馬民族」「天皇」であるかもしれない。出土する須恵器のなかには、明らかに中央アジアの遊牧の民に源流をもつと思われる須恵器、皮袋形器や角杯形などがある。江上波夫博士が古墳築造の民を「騎馬民族」と想定したのもうなずける。(引用)

猿田彦も弓月国辺りからやって来た

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