宇都宮城・亀ヶ丘城

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宇都宮城はなぜ、“亀ヶ岡城”なのでしょうか?』 ≪「亀ヶ丘城」の名前の由来≫ ・そもそも宇都宮城の城郭は、亀にかたどって 築城した土塁で囲まれていた。 ・宇都宮城を横から見た時に、亀が横たわっているように見えたため。 また、宇都宮城を上から見た時に亀の形に見えたから。


http://www2.ucatv.ne.jp/~jata-45.snow/c-gaiden.htm 【宇都宮城 言いつたえ 】

宇都宮市の西北部にある 馬の鞍に似た  鞍掛山戊辰の役戦没者官修墳墓 「栃木市吹上」

慶応3年(1867)12月9日に王政復古の大号令が下されて、翌4年1月に鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜の軍が敗れました。  ここに佐幕体制が崩壊していくのですが、幕府に恩誼を感じている仙台藩、米沢藩、会津藩の諸藩は、官軍に反抗して約1年、戊辰の役が繰り広げられました。

ここ吹上藩主(栃木県栃木市)の藩主、有馬氏弘はいちはやく官軍側に加わり安塚の戦いに参戦しました。

「安塚の戦い」とは慶応4年(1868)4月22日の未明、宇都宮城を占拠していた総督大島圭介、参謀の土方歳三の幕府軍と壬生「栃木県壬生町」にいた板垣退助が陣頭指揮する官軍とが姿川をはさんでの攻防戦をいいます。

この戦いで地の利をいかした吹上藩兵の活躍や、官軍側の兵力増強によって幕府軍は宇都宮に退却敗退しました。さらに24日に至っては宇都宮城の攻防戦でも敗退し日光へと退却をしていきました。

この「安塚の戦い」で寺村好太郎、原田留三郎、熊倉元吉、鈴木覚之丞の吹上藩兵が戦死しました。ここ、栃木市吹上の小高い丘に手厚く埋葬されました。

御  穴 「「みあな」

宇都宮の戊辰戦争「慶応3年4月19日」、旧幕府軍の攻撃によって撤退を余儀なくされ、命からがら城を脱出した城主忠恕公がここ鞍掛山の山腹にある岩穴に 二日程警護の者達と共に、身を隠したところと云われています。 

亀ヶ丘城の抜け穴 (宇都宮城)謎の抜け穴

宇都宮市から西へ4キロ程の大谷町で陥没事故があり、全国的に知れわたってしまいましたが、それ以前、昭和47年に市内で道路の陥没事故がありました。「もしかしたら、宇都宮城の地下道ではないか?」との噂が流れました。

市内の数カ所から「不審な抜け穴」が発見がされ、いずれも元藩士の屋敷跡から穴が発見されて、大寛町、材木町、旧三条町、松が峰など数カ所から抜け穴と断定できるものが確認されています。

誰が掘ったかということになりますと、推測ですが、釣り天井の主人公、本多正純だろうといわれております。おそらく、元和6年(1620)から7年にかけての工事だろうと推測されます。城側の抜け穴は、おそらく二の丸奥御殿か、南に面した庭ではないかといわれております。

地下間道の様子

では、抜け穴「間道」はどのようになっていたかと云いますと、横幅が1メートル、高さが1.5メートルほどの穴で、10メートルほどの間隔で両側に待避所を設け、手燭を置く台があり、さらに100メートル毎におどり場を設けて、要所、要所に、二股にわかれる迷路を作ったっのではないかと云われております。

さらに巧妙なのは、出口付近には、お堂などを先に建てておいて、その後に縁の下を垂直に掘り下げ出口をカモフラージュしたと思われます。

勿論、極秘のために、図面は残されておりませんし、ごく限られた人数のため、その目的などは謎につつまれ、今となっては推測するしかありません。