マノマノ稲穂 @manomano_farm
朝は「十月十日」と書く。
赤ちゃんが十月十日で生まれてくるのと同じように私たちも毎朝「生まれ変わり」ます。過去のことは気にせず目が覚めたらもうすでに新しい自分なのです。しがらみ、悔しさ、悲しいことは、ぜーんぶ過去のこと。今日も生まれ変わった新しい自分で前へ進んでいこう!
https://gospel-haiku.com/hl/spirit.htm 【作句の心がけ】
学びが進んでくると知識が邪魔をして不調に陥ります。原因は初心の頃の無心さを忘れて頭で考えて句を組み立てようとするからです。これは誰でもたどる道なのです。
この章はそんなあなたの目から鱗を剥がすために纏めました。間違って理解していることも多いですよ。
はじめに
このテキストはわたしの作句理念について、日記などに書いた記事を体系的にまとめたものです。
俳句は知識や理論が優先するものではないことは何度もお話しました。ですから実作をされる前にここに書かれている事を読まれても直ぐに上達につながることはありません。けれども、俳句を作り始めたあなたが悩みの壁にぶつかったときに、このページを繰ることでそれを打ち破ることが出来ると信じます。
何度も読み返してから投句する
まず具体的ですぐに実行できる心がけを一つお話します。 それは、
" 作った俳句は何度も読み返してから投句する "
というものです。このページに書かれていることをすべて忘れてもこのことだけは必ず守るようにして下さい。 これはマナーでもあり、また上達のために欠かせない基本中の基本なのです。
俳聖芭蕉は、"舌頭に千転せよ" と弟子達に教えました。
何度も読み返していると誤字や脱字を発見するときもありますし、ひとりよがりの表現になっていることに気づくこともあります。冷静になって他人が読んでも理解できるかどうかをチェックするのです。作者には一句が生まれた情景が分かっていますが鑑賞する人は白紙の状態なのです。こうしてチェックすることを「推敲する」ともいいます。作りっぱなしというのでは本当の実力は身につきません。
何のために俳句を詠むのか…
自然の営みは神さまからのメッセージ、俳句はその応答…
四季の変化や自然の営みを観察していると天地万物の創造者であり、わたしたちを生かしてくださる全能の神さまがいらっしゃることを実感します。そして自然は、明日を思い煩うことなく摂理のままに生きその生涯を閉じるのです。作ろうという意識を捨て心を無にして自然に対していると必ず自然のほうから語りかけてきます。この感動をことばに写すのが俳句なのです。知識や理屈で虚飾した俳句は自己満足の言葉遊びに終わりがちですが、自然が伝えようとしているメッセージや感動を写生する「ゴスペル俳句」は祈りであり賛美、つまり神さまからのメッセージに対する応答なのです。
理屈に縛られるのではなく真理を詠む
ある句会のあと先生を囲んであれこれと俳句談義に花が咲いた。そのとき誰かが、今日の句会で先生が選ばれたうちの一句は無季の句だから没ではないのか…と発題して議論が沸騰しました。その句に使われた季語はどの歳時記には載ってないからというのである。そのとき先生は、
" 季語云々ではなく、一句の中に季節感があるか否かが大切 "
だと言われ、目から鱗の落ちる思いがしたことを今も忘れません。
俳句は作るのではなく授かるもの
知識がないから、経験が未熟だからいい俳句が作れない…
それは違います。神さまが生まれながらに備えてくださっているはずの感性、感じる心を忘れてしまっているから本物の俳句が作れないのです。
俳句は祈りによく似ています。美辞麗句を並び立て、聴く人の耳に心地よい(祈る本人にとっても)祈りは決して本物ではありません。たとい表現や言葉は拙くても神を信頼した心からの祈りは他の人にも共感を与え必ず神さまに届きます。どうか祈り心をもって自然と対してみてください。自然のほうから語りかけてくるまで一時間でも二時間でもじっと我慢してみてください。必ず良い俳句が生まれます。正確に言えば、"俳句は自分で作るものではなく自然から(神さまから)授かるもの"なのです。
虚構の句は人の心に響かない
虚構やフィクションは正しい伝統俳句の世界では通用しません。俳句は事実の感動を言葉で写生するものです。ある程度俳句の学びを積んだ人なら、その作品が事実に基づいた写生か虚構であるかは簡単に見抜くことが出来ます。もし虚構の作品に感動する人がいるとしたら、その人が虚構を好むのであって、それは感性ではなくことばあそびと感動とを勘違いしているのだと思います。
俳句の作り方や鑑賞法については諸派諸説あり、どれが正しいと決め付けられるものではありません。ありもしない情景を言葉巧みに組み立て、その響きに自己陶酔する世界もあるでしょう。しかし十年後にその句を読み返したとき、はたして感動が蘇るでしょうか。もともと命の無いものが蘇ることは決してありません。
" 虚構ではなく事実の感動を詠む"
ゴスペル俳句はこれをモットーにしています。なぜなら俳句は神さまに対する祈りであり賛美だからです。
理論や知識は上達のさまたげ
初学のうちに必要以上に俳誌や俳論を読むことは上達のさまたげです。また作句法についてあれこれ悩んだり、迷ったりすることも同様です。なぜならそれらは理屈に依らなければ解決しないからです。黙々とひたすら句を作ること。結局これが一番上達の近道です。必要な知識は折に触れて自然に覚えていくものです。
具体的な例をお話しましょう。
ゴルフの上達教本を山ほど読んだAさんと、何も読まずただ教えられるままに黙々と練習場でボールを打ったBさんとが一緒に初めてのコースにでました。
Aさんは学んだ知識を頼みに自信たっぷりにコースに出ましたが、結局あれこれ悩んでゴルフになりませんでした。一方、練習を積んだBさんはボールを打つ感覚を身体が覚えていたので山あり谷ありのコースでは平坦な練習場のようにはうまくボールを打つことはできませんでしたが、そこそこのスコアーでまとめることが出来たそうです。
その後、知識を重視したAさんも実践練習の必要性が身にしみたので懸命に練習に励みましたが、今までの知識が邪魔をしてさらにあれこれと悩み、思うように上達しませんでした。やがて後輩たちにも次々追い越されて惨めになり、結局挫折してゴルフを止めてしまいました。
これは実際にわたしの周囲であったことです。理論や知識の先行は上達のさまたげになるという一つの実例です。勿論、経験に基づいて身についた理論や知識は有用です。
作句態度の実際とことばの選び方
見たままを写生する
見たままを写生する。つまり客観写生といういうことですが、なかなかこれが出来ません。自然を観察しているとき、心を無にして、ひたすら感性(右脳)を研ぎ澄まして心に響いてくるまで待ちます。そして興味が湧いた動きや変化を捕らえてその情景をできるだけ具体的にことばに写すのです。心に響かないままで写生をしても、それは単なるスケッチ、俳句で言えば報告に過ぎません。
感動というのは、本来主観です。客観がよくて主観は駄目というように短絡的なことではなく主観は必要なのです。ただ、もろにそれが出てしまうといけないのです。
" 客観写生によって主観を包み込む "これが一番いいのです。その訓練のためにとりあえず理屈を言わないで客観写生を訓練するのです。
素直に感じる
博識な方の多くは自己主張が強く指導者の忠告を素直に受けいれようとしません。ところが、知識は乏しくとも指導者を全く信頼して素直に従える人は見る見る上達します。意外に思われるかも知れませんが紛れもない事実です。では素直に感じるにはどんな訓練をしたらよいでしょうか。答えは簡単です。知識を捨てればよいのです。右脳と左脳の話はよく聞くと思います。あまり詳しくは知りませんが、左脳が知識・知性を司り、右脳は感性を司るそうです。左脳は知識を取り込むほどに発達するのでしょうが、右脳は放っておけば少しずつ退化するのかもしれませんね。感性を刺激する訓練を続ければ右脳も発達するはずです。
" 俳句は三歳の子供にでもわかるように作りなさい "
と俳聖芭蕉は教えました。幼子に観念や知識はありません。ただあるのは好奇心と驚きの心(感動する心)です。左脳は全く働かさず、三歳児のころの自分にタイムスリップして自然に対してみてください。
具体的に直感を働かす
句を作るときに具体的に直感を働かす訓練をすることが大切です。幼い子供たちがどんなふうに感動するか観察してみて下さい。大人なら「きれいだね〜」というところを、幼子たちは、" ○○みたいだね! "と言うはずです。全く波の立たない静かな海を見て「何と静かな海だ!」と感じるのでは平凡です。子供たちならきっと、" 鏡みたいだね! "と言うでしょう。
また例えば、「見上げる」とか「見下ろす」と言わなくても、「空の…」「大地の…」という表現をすればより具体的に伝わるでしょう。 具体的に直感を働かすには、知識、常識、概念を捨てて幼子のような気持ちで自然に対する見える部分だけで感じるのではなく、時間をかけて自然と対話するということです。どうしても自分には出来ない。と、おっしゃる方を何人も知っていますが佳句を作ろうと構えた段階で、すでに感性をシャットアウトしてしまうことに気づいてないのです。理屈の句は決して人の心に響きません。もともと、直感に理屈が在する余地はないはずです。 知識を駆使し、ひねりにひねって作る俳句もジャンルとしては存在します。しかし、わたしはその分野に興味も価値も見出せません。
繰り返しますが、俳句は知識や理屈ではありません。また作るものでもひねるものでもありません。 本当に人の心に響く作品は、自然から(神さまから)授かるものなのです。
瞬間の驚きを写生する
拙作で恐縮ですが表題のことについて説明するのにちょうど適当な例があるので紹介しましょう。
原句:花筏早瀬の波に躍りゆく
花筏というのは桜の落花があたかも筏を組んだように集合して川などを流れていくものを言います。よく見かける情景ですから掲句の説明は不要ですね。この作品を小路紫峡先生は次のように添削してくださいました。
紫峡先生の添削:花筏早瀬の波にさしかかり
原句の情景は時間が流れてしまいます。俳句は瞬間の驚きを写生するのが大切なのです。添削句では「いままさに…」という躍動感が感じられるでしょう。そしてやがて躍り去って行く情景も句の余韻の中で十分連想できます。この違いわかりますよね。
この句を紫峡先生の先生であった、今は亡き阿波野青畝先生の選に提出しました。青畝先生はさらに次のように添削されたのです。
青畝先生の添削:花筏今や早瀬にさしかかり
そうです。早瀬といえば当然、波は連想できますから省略できます。「今や」という言葉でより鮮明に瞬間写生になりました。
俳句は斯く詠み斯く推敲(添削)する…と言う見本として実にわかりやすい例だと思ったので書いてみました。
瞬間の驚きを写生する
出来るだけ言葉を省略する よく省略の効いた句は切れ味が鋭く力強いです。でも、そんなことを考えながら作れるものではありませんね。 吟行で作るときはとにかく無心で作句し、後で推敲すればよいのです。
平明なことばを使う
俳句は難しいことばや漢字、熟語などを使うものだと思い込んでいる人が多いですがこれは間違いです。 出来るだけ平明なことばを使うように心がける。これが人の心に感動を与える重要なポイントです。
俳句は鑑賞する人の心に直接的に響くもので難解なことばや回りくどい表現の句を見て頭でいろいろ考えた末にようやくその意味を合点し、そしてやおら感動するというような人がいるでしょうか。でもそうゆう表現をしないと俳句らしくないと勘違いしている人は意外と多いのです。 よく「俳句をひねる」という言い方をする人がいますね。これは単なることばあそびの世界だと思います。
さらに俳句は目で読むだけでなく耳で聞く文芸でもあるので、声を出して読んだときの響きも大切にしなければいけません。文字を示されると「なるほど」とわかるような言葉でも耳で聞くだけでは「なんのこと?」と思うことは多いですよね。ほんとうに響きのよい言葉。それは「平明なことば」です。
難しい漢字にルビは必要か・・・
「八ケ岳」とかいて「やつ」と読ませたり普通の音訓では読めない熟語を使ったりする場合、必要に応じてルビをふることは 別段咎められる行為ではありません。句にルビをふることは、あまり多用すべきではないという意見もあります。 これは、その句会に出席するメンバーのレベルにも関係するので難しい問題です。 でも、初心者が中心の句会ではそうした配慮もかえって親切かもしれませんね。
俳句用語的な漢字や独特の読み方もたくさんありますが学びを続けている間に自然に覚えますからあまり神経質にならないほうがいいです。 ただ、ルビがないから読めないとあきらめるのではなく読めない漢字に出くわしたら辞書で調べるということもまた大切な勉強ですし、 読み方について質問することも恥ずかしいことではありません。ただ、許されるからといっても、とても読めそうにない漢字をあててルビをふり、無理やり読ませるというのはやめた方がいいでしょう。
切れ字の意味
切れ字について詳しく解説すると、小冊子になってしまうので要点だけ。 俳句に大切なのは「切れ字」というより「切る精神」です。
あめつちの静かなる日も蟻急ぐ 三橋鷹女
A:あめつちの静かなる日
B:蟻急ぐ
この句は「切れ字」はありませんがAとBで切れています。A部を首部といい、B部を飛躍切部といいます。AとBの距離が離れているほど面白い俳句ということになります。勿論、離れすぎると訳が分からなくなります…
古池や蛙飛こむ水のをと
むめがかにのっと日の出る山路かな
いずれも芭蕉の句ですが、前句は句中に切れ字がある場合、後者は句末に切れ字がある場合です。 当然のことながら一句の中に切れ字は一つです。
なぜ切れ字を二つ使ってはいけないのか…
「や」「かな」「けり」と言うような切れ字は、文章で言うと段落みたいなもので句の流れを切ってしまいます。 効果的に使えば余韻のある表現が出来ますが使い方を誤ると句の響き、流れを駄目にしてしまいます。 ですから、セオリーとして切れ字は一句にひとつと言うのが定説です。初心の間は素直に従ったほうがいいでしょう。
降る雪や明治は遠くなりにけり
誰もが知っている有名な中村草田男の句は、「や」と「けり」の二つの切れ字を使っていますが、これは例外とすべきです。
季語について
季語に対する間違った知識や理解が上達を妨げることになります。また、「新しさ」という名目で自分勝手な解釈を展開する人もいます。新しさを求めることは決して悪いことではないけれど私たちは「温故知新」の心を忘れてはいけないと思います。
なぜ一句に季語が複数あってはいけないのか・・・
一句に季語が一つというのは絶対のルールではありません。そういう意味では五・七・五の調子も絶対というわけではなく破調の名句というのもあるわけです。こうした制約が性分に合わないというなら、自由律俳句というジャンルもあります。しかし本物の俳句作りを目指そうと勉強するのなら、まずしっかりと基本を身に付けることが大切でいきなりこうした応用テクニックに興味を持つのは上達のさまたげです。
一句の中で季語の果たす役割はとても重要で季語が複数あると俳句で最も大切とされる季節感があいまいになってしまいます。 また、季語は句の要ですから、季語が二つあると焦点が二つあるのと同じで力の無い呆けた句になって切れ味を失います。
初学の間は季重なりの句は絶対に作らないという気構えで訓練してください。添削指導でも、これを徹底しています。これが上達への近道なのです。
季語のもつ本質を感覚として記憶する
俳句の約束で「彼岸」は春の季語とします。秋の彼岸は「後の彼岸」「秋彼岸」という表現で区別します。彼岸花は当然秋の季語です。この種の季語は扱いにくいですね。単に「紫式部」と書けば「紫式部の実」を意味し秋の季語となります。「式部の実」という表現も許されると思いますが素直に「みむらさき」というほうが一般的です。
このように単に季語といっても、長い歴史によって培われてきたそれぞれの季語のもつ味、本質というのが、俳句を作る上での暗黙の約束になっているのです。こうした季語の深みについては、時間をかけていろんな句と出会い経験を重ねないと覚えられません。 歳時記を丸暗記したからといっても実作で役立てることはできません。 知識(左脳)として覚えるのではなく感覚(右脳)として記憶する必要があるからです。
当季でない季語を使ってもいいのか・・・
必ず当季(今の季節)を詠まなければならないという規則はありません。実際に見た情景によって秋に夏の句が生まれることもあります。 俳句は報告書ではなく文芸ですから良い作品にするために「上手に嘘をつく」ことはテクニックとして存在します。 これは実景を見ないで空想だけで作る虚構の句とは根本的に違います。
要するに、眼前の情景に「秋らしさ」を感じるか「夏らしさを」を感じるかの感性が重要で、その点は伝統俳句でも自由です。今が秋だから、夏だからと考えて拘束されるほうがむしろ固定概念になると思います。 伝統俳句では季語がいのちだといいました。季語の持つ「味」があるからこそ、わずか十七文字で深い深い余韻を生み出せるのです。 その句を生かすためにどの季語が最適かを考えればよく、必ずしも今の季節にこだわることはありません。
時代や地域による季節感のずれ
同じ国内でも北海道と沖縄では季節感覚というものがまるで違います。また、地球的にも環境の変化で実際の月日と季節感に異変が生じているのは事実です。しかし、季語の持つ本質的な味わいを無視して時代が変わったのだからと決め付けて勝手な解釈で句を作ったり鑑賞したりしてはいけません。時代や環境が変わり、地域が変わっても、季語が固有している季節感というものは不変なのです。ですから北海道では夏に春の花が咲くことも当然ですが、それはあくまで春の風情として感じて句を詠むのが正しい姿勢なのです。
とても残念なことですが、時代や生活習慣の変化と共に衰退していく季語(死語)があることは否めませんね。
季語が動くとは・・・
他の季語に置き換えても意味が通じてしまうことを「季語が動く」と言います。例えば、
原句:樹に潜み猫の子じっと我を見る
という句を例にして見ましょう。
樹に潜む野良猫じっと我を見る
樹に潜む野良犬じっと我を見る
樹にひそむ恋猫じっと我を見る
どうでしょう。どれも意味は通じますね。そして残念ながらいずれも報告です。樹に潜んでじっと見ていると言うのは子猫の習性とか特徴と言うものを捉えていません。作者が見たのは事実だったかも知れませんが、多分、他の人の共感を得るのは難しいと思います。恋猫は春の季語ですが野良猫や猫は季語ではありません。季語でないと言うと誤解があるので季節感がない…と言うべきかも知れません。
何度も出てくる説明ですが、俳句は季語がいのちです。この表現にはこの季語以外にないといえる位にどんぴしゃ不動の季語を選ぶ必要があるのです。俳句は頭で作るものではありませんが作った作品を冷静に推敲することは必要です。季語が動かないかどうか、もっと適切な季語がないかどうかなど、少し上達すれば自分で推敲しなければいけません。作りっぱなしで添削に頼るだけでは成長はありません。
一句ずつ作るのではなく同じ情景をよく観察して角度を変えて何句か作ってみましょう。写真家は同じ被写体に対して角度を変えて何枚も撮りますね。そのたくさんの写真の中から一枚を作品として発表するはずです。どんなにベテランでも一発秘中で佳句を生むことは難しいのです。
季語が憑きすぎるとは…
季語が憑き過ぎるというのは一言で説明しにくいですが採用した季語が一句の構成の中であまりにもお膳立てが整いすぎている場合をいいます。虚構の俳句や観念的に作ると、得てして季語が憑きすぎになります。作った本人は自分の句に酔ってしまっているので判らないのですが他人が鑑賞するとすぐ判ります。高度なテクニックになるのですが、
"出来るだけ季語を離す"
ことが佳句の条件です。離れすぎて「季語が動く」のは勿論よくないのですが「つかずはなれず」のぎりぎりが最も良いわけです。 実際に句を作っているときにそんな事を考えている余裕はありませんから作った後で作品を推考するときに、
季語が動かないか
憑きすぎていないか
もっと適切な季語はないか
などをチェックするのですが初心のあいだはその基準が身についていないので添削でお手伝いしているわけです。 拙作で恐縮ですが次の作品を鑑賞してみてください。
温泉を引けるパイプなるべし草紅葉 みのる
温泉は「ゆ」と読みます。草紅葉の説明は一切していません。しかし一句全体で見た場合「草紅葉」という季語はとてもよく効いているのです。おわかり頂けるでしょうか? 初心のうちはまず季語を覚えることが必須です。 しかし次なるステップではその季語のもつ本質を研究して的確に用いることが上達のキーポイントなのです。
客観と主観について
客観と主観は表裏の関係
俳句では主観と客観の違いについてよく論じられます。高浜虚子先生は弟子たちを指導するのに客観写生を強く提唱されました。わたしも初心のうちは徹底して客観写生を勉強するように導かれました。しかし感動は心です。心の昂ぶりを伝えるのに主観が無ければ語れない。そこでどうしても客観写生に物足らなくなって異論や疑義が生じてきます。
わたしの教えていただいた阿波野青畝先生は主観の作者で知られますがその作風の根底は客観写生です。
" 主観と客観は物心一如である。"
と、先生は手をさし出しておっしゃいました。
『この手が主観であり客観なのだ。しかも客観は手の甲、主観は手のひら、この手を握りしめれば手のひらは内側に隠れて主観は見えなくなる。主観と客観は便宜上分けていっているのであって、別々のものではない。それを別々にしたら死んでしまう。実際に句を作るときは、主観を忘れて客観を良く働かせることが一番大事です。ともすると主観があらわに出て邪魔をします。』
ちょっと難しいですが、とても含蓄のあるお話なので書いてみました。
客観写生の実際例
客観写生とは「見たままを出来るだけ具体的に表現すること」と説明するとそれでは報告の句になるのでは?と迷いが生じる。 確かに客観写生と報告とは紙一重です。初心の方々に、この極意をどう説明すれば理解して貰えるのだろうかと日毎悩んでいました。過日、淡路島の著名な俳人「大星たかし」さんから贈呈の小句集が届き、その中のいくつかの作品をみて「これだ!」と思いました。たかしさんの作品を示せば、愚かな解説を重ねるより一読瞭然?と確信したのです。
原句:浜の家でて踊子の急ぎけり
これは四国阿波踊り吟行での作品で海浜での踊りに加わろうと急ぐ踊子の姿を写生したものである。このままでも客観写生の句として十分と思われるが阿波野青畝先生は次のように添削された。
添削:浜の家でて踊子の走りけり
「急ぎけり」は主観、「走りけり」は客観である。両者の躍動感の違いをよく味わって欲しい。もう一句。
原句:ストーブに干物を焼きて教師酌む
たさしさんは中学校の教師でした。今ならPTAがうるさいですが、放課後、生徒たちが帰ってしまったあと、漁師町の生徒からの差し入れの干しスルメをストーブの上で焼き、ささやかな酒を酌みながらあれこれと教育論を戦わせる教師像が浮かびます。推敲に推敲を重ねた末、たかしさんが最終的に句集に載せた作品は次のようになっていました。
推敲句:ストーブに干物を反らせ教師酌む
「焼きて」は説明ですが「反らせ」は客観写生です。ストーブの上で焼かれている干物の変化が目に浮かぶようですね。
添削について
なぜ添削をうけるのか…
添削指導の目的について書いてみました。まず俳句が生まれるプロセスを考えてみましょう。
まず始めに作者の感動、驚きが必須 ---(1)
つぎに、感動した事象や情景を文字で写生する ---(2)
時間をおいてからもう一度作品を見直し推敲する ---(3)
ということになりますね。このうち添削でお手伝いできるのは、(2)と(3)です。間違っても、(1)のお手伝いをすることはありません。
ですから、(1)の資格のない作品、つまり感動の伝わってこない作品は添削できないのです。(2)と(3) は経験を積むほどに上達していきます。
しかし、(1) については、その基本姿勢が間違っていれば、いくら経験を積んでも進歩は望めないと思います。
添削された作品はその表現方法の指針を示しているのであって絶対的なものではありません。指導者が違えば添削の内容や方法も異なるでしょう。ですから添削はあくまで参考に過ぎません。
一番注意して頂きたいのは、
"作りっぱなしで、後は添削に出しておしまい"
ということが当たり前にならないようにすることです。原句と添削句とを比較して、なぜそういうふうに直されたのかということを常に復習して吸収していくことがとても大切です。
添削された句は誰の句?
添削というのはとても気を遣う作業です。直しすぎると作者の句ではなく添削者の句になってしまうからです。かといって、投稿した句が全て没では作者は創作意欲を無くしてしまいます。そこで添削者は何とか一句でも添削して応えようと労するわけです。
投稿された作品のどれもが、箸にも棒にもかからない(失礼!)とき、また作者の作句姿勢が間違っていると思われるとき、そんなときには思い切った添削をして具体的にこんな感じで作るのがよいという実例として示すこともあります。
添削後の作品が実際に感じられた気持ちと大きく差異がなければご自分の句として受け入れて頂けたら嬉しいです。もしそうでないなら、わたしに気を遣わずに遠慮なく捨てください。添削された句を自分の句として残すか否かの選択は作者の自由意思です。
句の鑑賞法について
俳句を始めたばかりの人が句集や歳時記に載っている例句の全てを理解し鑑賞することは当然無理です。鑑賞力は俳句経験の度合いによっても変わってきますし、当然、鑑賞する側の好みもあります。 初心の学びに大切なことは句を理解することよりも、句調の整え方、俳句独特のことばや仮名づかい、切れ字の使い方を理屈ではなく感覚として身につけることです。
わからない句はいくら時間をかけて考えてもわからないので読み飛ばしてください。何年かあとに見直すと分かることもあります。句集を読み進むと必ず心に響く句が見つかるはずです。その句を繰り返し暗誦します。そうすることでその句のリズムが右脳にインプットされるのです。 繰り返しこの勉強をしている内に、自分の個性、好みの方向が定まってくるでしょう。
クリスチャンの方なら判ると思いますが聖書通読も同じです。信仰生活の折々で感動する場所や感動の内容が変わると思います。句を詠むことと鑑賞することとは同じではなく相関の関係と言うべきでしょう。佳句をたくさん鑑賞すれば作句力も上達するし、生む苦しみを多く体験すればそれだけ鑑賞力も深くなります。大切なのは具体的であることです。具体的に何に感動したかの意識なくしてよい句は作れないし、具体的にどこがいいのかということが明確に説明できなくては鑑賞とは言えないと思います。
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