謎解き江戸のススメ☆奥の細道・芭蕉の暗示

http://poyoland.jugem.jp/?eid=751【謎解き江戸のススメ☆奥の細道・芭蕉の暗示】 より

古池や蛙飛び込む水の音

世界中で翻訳されているこの俳句の作者は松尾芭蕉(1644~1694年)。

東京・深川、芭蕉が暮らし慣れ親しんだ場所。

元禄2年(1689)、芭蕉は庵を処分し旅に出る。

もう戻れないかもしれない、そう覚悟して・・・

旅の友は弟子の河合曽良、奥の細道の旅の始まり・・・

江戸から東北、北陸、美濃、大垣に至るおよそ2400km、150日に及ぶ紀行文。

その有名な書き出しは・・・

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也

漂泊の思いに駆り立てられた芭蕉、46歳、芭蕉はなぜ旅に出なければならなかったのか。

そこには芭蕉のもう1つの顔が見え隠れする。

17文字に隠された芭蕉の心のメッセージ・・・

奥の細道の真の目的とは?

深川を出た芭蕉と曽良は元禄2年(旧暦3月27日)隅田川を登り、まずは千住に立ち寄った。

ここで詠んだのが・・・

行春や鳥啼き魚の目は泪

過ぎ行く春を惜しみ、鳥は啼き魚は泪を流している。

魚の涙とはどういうことなのか?

魚とは芭蕉を金銭面で支えてくれていた弟子、魚問屋・杉山杉風(さんぷう)のこと。

句には別れを惜しむ杉風への感謝の気持ちが込められていた。

弟子たちに見送られ、千住を経った芭蕉がこの旅で楽しみにしていたことがあった。

それは憧れの松島の月を見ることと、古の歌人達が詠んだ枕詞の地を巡ることだった。

芭蕉と曽良は草加、春日部を通り、奥州街道を北へと進む。

立ち寄った先が日光だった。(旧暦4月1日)

東照宮は徳川家康を祀った神社。

当時は非公開であり、拝観には許可証が必要だった。

芭蕉は事前に江戸で紹介状までもらい、この地を訪れることを決めていた。

そしてこんな1句を・・・

あらたうと青葉若葉の日の光

日差しを浴び輝く新緑の若葉、その輝きは徳川家の威光でもあると言われている。

わざわざ日光へと立ち寄り、将軍家をたたえる句を詠んだ芭蕉、ここで浮上するのが幕府のスパイだったという公儀隠密説、芭蕉は本当に幕府の隠密だったのか?

実際の奥の細道の中にはそれを疑わせる不可解な行動が多い。

1つが随行した曽良がつけていた旅日記とのズレ、奥の細道では深川を出て千住についたのは3月27日、ところが曽良の旅日記では、20日になっている。

曽良が正しければ芭蕉は7日間千住に滞在したことになる。

空白の7日間・・・

光田和伸(国際日本文化研究センター准教授)「千住には伊奈半十郎家の代官屋敷がある。」

伊奈家は幕府の要職である関東代官頭を務める一族で、新田開発や治水を手掛けていた。

芭蕉とのかかわりも深く、深川の芭蕉庵は伊奈家の土地にあった。

では千住滞在の7日間、いったい何をしていたのか。

光田「これからの旅の注意すべきこととか、基本的なレクチャーを主に曽良がうけていたのだと思う。」

曽良の本名は岩波庄左右衛門正字、武士であり幕府の遣いで長崎に赴くなど、幕府のために務めていた。

光田「奥の細道の旅の真の目的は曽良が幕府から担っていたことを遂行するにあたって、芭蕉は曽良を守る役割だった。」

俳諧の有名人芭蕉と一緒にいれば、幕府の任務を阻止しようとする者達もうかつに手は出せない、というわけだ。

もし奥の細道が曽良のための旅だったと仮定してみたらどうだろう。

光田「『土芥寇讎記』というそれぞれのお殿様がどのように藩を治めているかという本が、奥の細道の翌年、元禄3年に完成している。

曽良の仕事はおそらくそれと関係していただろう。

曽良と芭蕉が担当したのは東日本の大名の統治の実態を、良いか普通か悪いかという調査を徹底して行うことであったと思う。」

曽良は諸大名の調査を、芭蕉はその協力者だったのか?

2人の旅の後に完成されたという『土芥寇讎記』、日本に唯1つの貴重な写本が東京大学に所蔵されている。

43冊からなる『土芥寇讎記』、元禄3年時点での大名243名の人物評定が記されている。

いわば大名の通信簿、宇都宮藩主・奥平昌章の評価・・・

“文武両道は夢の程も知らず 行跡悪敷男色女色ともに猥に好み”

とかなり辛辣。

鶴田啓教授(東京大学史料編纂所)「これだけの本なので幕府あるいは将軍の関係者が関与しているという推測は以前から行われていた。

はっきりしたことは分らないが、幕府の役人がひそかに各大名の城下まで行って、そこで色々な話を聞き取って、それを収集した可能性はある。」

諸大名の行状を探る任務を、芭蕉と曽良が背負っていたなら、ターゲットはどこだったのか?

三重県伊賀市、芭蕉こと松尾宗房は、寛永21年(1644年)松尾与左衛門の二男として生まれた。

松尾家とはどんな家だったのか?

▲上の城下町之図(正徳5年 1715)

福井健二(伊賀文化産業協会)「芭蕉の生家があったところは芭蕉が生まれた頃、百姓町という町名だった。

松尾家は無足人という家、無足人とは給料をやらない侍という意味。」

松尾家は藩からの俸禄はなく、農業で身を立てていた。

父親が亡くなると、13歳だった芭蕉は奉公に出される。

その先は、伊賀上野を治めていた藤堂家の一族、藤堂新七郎の家。

芭蕉は年の近い嫡男、藤堂良忠の世話役を任されるまでになっていた。

この時良忠の影響により出会ったのが俳諧だった。

芭蕉23歳の時、良忠が病により休止、これが人生の転機となる。

後ろ盾を失った芭蕉は一転、俳諧を極める道を選ぶ。

そして29歳の兄・半左衛門に家を任せ、江戸へと向かった。

江戸での芭蕉の暮らしとは?

神田川は江戸時代、家康が飲料水を確保するために整備した上水。

門を入った小高い丘の上、芭蕉がいた庵がある。

▲名所江戸百景せき口上水端はせを庵椿山(歌川広重)

嵐山光三郎(作家 実際に奥の細道を旅した芭蕉研究家)「芭蕉の本業は水道工事、水道といっても当時は木で作った管の修理。」

芭蕉が伊賀上野で仕えた藤堂家は、徳川家康の副審で、城造りの名人と言われた藤堂高虎の一族。

高虎が江戸の治水整備を任されていたこともあり、藤堂家はこの事業でかなりの功績を残していた。

そこに仕えていたのだから、芭蕉に治水の知識があったとしてもおかしくない。

実際江戸に来た当初、芭蕉は生計を立てるため、上水を流す木樋の工事をしていた。

田中善信(白百合女子大学名誉教授)「総ざらいといい、浚渫工事(上下水道の掃除)の請負を芭蕉はやり始める。

いわゆる公共事業なので、町年寄なんかにも頻繁に出入りし、芭蕉は役人との人脈があった。」

公共事業を任されたので、当然幕府との接点もあった。

一方で俳諧師としても精進を欠かせなかった。

奥の細道は幕府の密使と俳諧師という2つの顔を持った芭蕉の人生をかけた旅だったのだ。

嵐山「当時幕府の敵は伊達藩、3代家光将軍の時、日光東照宮を建てる際、伊達藩がいくらだすか日航奉行と対立があった。

それを調べるため、芭蕉の目的は、日光東照宮の工事調査だった。

7日間千住に留まったのは、工事が始まっていなかったから。」

日光東照宮を見終えた元禄2年旧暦4月2日、芭蕉と曽良は一路北へ。

その道すがら、念願だった歌枕の地を訪れている。

平安時代に西行が歌を詠んだ那須、遊行柳を前に・・・

田一枚 植えて立去る 柳かな

数々の歌に詠まれた白河の関、福島では恋の歌枕、文知摺石を巡った。

旅の途中、芭蕉は訪れた地で度々句会を開いている。

句会は自分の俳諧を広める場であり、謝礼として旅の資金を得る事もできた。

複数の人が句を詠み、評価し合う句会。

【俳諧結社獅子門】

まずは五七五の発句が読み上げられる。

“此の道や行く人なしに秋の暮れ”

発句に七七の脇句(下の句)をつなげ、1つの歌を作る。

“山の端出づる円かなる月”

次の人は前の句を受け、五七五の上の句(第三)を詠み・・・

“露の世に親しく膝を寄せあひて”

またその次の人が七七の下の句(第四)を詠む。

これを繰り返し連歌を作ってゆく。

こうして連歌の発句の部分が後に独立し、五七五の俳句になった。

実はこの句会こそ、芭蕉の隠密説をにおわせるもの。

武士から町人まで、様々な身分の人が参加する句会は、情報を入手するのに格好の場だった。

江戸を経っておよそ1ヶ月、芭蕉と曽良は仙台藩の領内に入る。

仙台藩は独眼竜の異名を持つ伊達正宗が築いた東北最大の藩。

北上川をはじめとする多くの川が流れるこの地では、正宗の頃から水運の整備や治水事業が盛んに行われてきた。

さらに新田開発にも力をいれて、豊富な米の収穫量を誇り、江戸で流通する米の多くは仙台藩のものだった。

江戸の経済にも大きな影響を及ぼす仙台藩を、幕府は警戒し、内情を知りたがっていた。

芭蕉の旅の最大の目的は、仙台藩の調査だったのか?

実は仙台藩での芭蕉の行動には、不可解なことが多い。

まずは頻繁に行っていた句会を1度も開いていないこと。

光田「俳句の会をすると、そこに参加してきたその土地の人々が、後後まで仙台藩から目をつけられ、不利益を被る恐れがあるということを心配したのではないか。」

次にこの旅で一番の楽しみにしていたはずの松島には、わずか1泊しかしていない。

芭蕉は奥の細道の中に、句を残すことさえしていない。

そして平泉の中尊寺を見ると、それ以上北へは進まず、まるで目的を達成したかのように折り返していった。

芭蕉と曽良が仙台藩の領内に滞在したのは12日間、そこで2人がしていたこととは・・・・

嵐山「芭蕉の目的は仙台藩の治水調査、水路の研究。

水路というのは川であるとか軍事施設。

最上も行くし、水辺を渡り水路を視察した。

芭蕉の本心を考えると、お役目で水路を辿ってゆく旅が大前提だったが、その中で本心は景色を見ながら自分の音色を奏でる句を詠んでみたいという気持ちがすごく強かった。」

仙台へ行き、松島に行くことを楽しみにしていたが、いけなかった。

それは、後部でそんなことは必要ないと言われたのか?」

曽良が詠んだとされる

松島や 鶴に身をかれ ほととぎす

曽良の句として出したが書いているのは芭蕉。

奥の細道には、随行した曽良の句がいくつか出てくるが、ほとんどが芭蕉の句。

俳諧賭博・・・例えば“古池や 蛙飛び込む 水の音”の場合、「蛙飛び込む」の部分が伏せてある。

そして中七を皆が当てる。

商品がすごく、皆が夢中になり、身を持ち崩す者が多くなり、幕府が俳諧賭博禁止令を出した。

芭蕉も、俳諧を賭けにするとはとんでもないという・・・

文芸をギャンブルにしたのは日本だけ、なんでも面白がるのが江戸の庶民。

▲『奥の細道』の代表作

平泉を出た芭蕉が幕府の密使とは別に俳諧師として旅を楽しんでいたのもまた事実。

仙台藩での緊張が解けたのだろうか、尾花沢では奈良飯などを食し、のんびりと10日ほど滞在。

そののち芭蕉達は大周りしてある場所へ立ち寄った。

山寺こと立石寺、東北の比叡山ともいうべき霊場。

ここで芭蕉は、あの有名な句を残す。

閑さや 岩にしみいる 蝉の声

賑やかな蝉の声が静けさを一層感じさせるという名句。

この句に登場する蝉の声は、後にある論争を巻き起こす。

山形県出身の歌人・斎藤茂吉は、この蝉の声は群でなくアブラゼミで、そのうるささがより静寂感を感じさせるのだと主張。

それに対し、文芸評論家の小宮豊隆は、「しずかさや」とか、「岩にしみいる」といった表現は威勢のよいアブラゼミにはふさわしくない、この蝉はニイニイゼミであろうと反論。

互いに譲らず、平行線のまま。

しかしその後、蝉論争はあっけなく決着する。

曽良の旅日記によると、芭蕉が立石寺を訪れたのは旧暦の5月27日、新暦では7月13日、この辺りにはその時期、アブラゼミがいないことが判明。

今では蝉の声はニイニイゼミというのが定説となっている。

しかしこの句にはもっと深い芭蕉のメッセージが込められている。

嵐山「芭蕉が23歳の時伊賀上野を発って、46歳でここに来た。

ちょうど23年経っている。

蝉の声の蝉というのは、藤堂良忠という自分の主君の俳号が蝉吟だった。

だから「しずかさや~」という風景の描写でありながら、自分に俳句を教えてくれた2歳上の若殿のことを追悼している。

句を掘るというが、1つの蝉とは何かと考えてゆくと、あ~蝉吟だと思う・・・

風景、情景だけでなく、そこに込められた芭蕉の思い、二重のメッセージがあるのだ。」

松尾芭蕉、奥の細道の旅は日本海を望みながら南へと下ってゆく。

江戸を発って150日余り、美濃の大垣で旅を結ぶ。(元禄2年 旧暦8月末)

戸田藩10万石の城下町だった大垣は、運河に囲まれた水郷の町として知られている。

なぜ芭蕉はこの大垣を奥の細道結びの地に選んだのか?

大木祥太郎(奥の細道むすびの地記念館 学芸員)「大垣は、芭蕉がまだ売り出し中の頃、若い頃から芭蕉を慕う文殊が多かった。」

故郷に近かった大垣には、気心が知れた古い仲間が多く、長い旅の終わり、疲れをいやしてくれる場所だった。

さらにもう1つの理由が水運。

大垣は揖斐川を利用した水運の要所。

運河を利用し治水も発達していた。

芭蕉は最後まで水にこだわっていたのかもしれない。

芭蕉は大垣に2週間程逗留、奥の細道をこんな句で締めくくっている。

蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ

実はこの句にこそ、芭蕉が奥の細道のたびに出た真意が隠されていた。

嵐山「曽良と今まで一緒に旅をしてきたけれど、蛤のようにフタミに分れて行く。

それから伊勢に帰る前に二見ヶ浦へ行く。

だから二見の裏へ行くから二見ヶ浦。

もう1つ、芭蕉は胃癌だから、兄が家を守ってくれているから自分は江戸に出て、俳諧師として成功し、帰ってきた。

だから兄に感謝する意味で、兄の好物が蛤だった。」

芭蕉はいくつもの顔を持つ人生の中で、いくつもの旅をしながら俳諧の道を極めていった。

思うままに生きられたのも、兄・半左衛門が実家を守ってくれたからこそ。

家を出た自分と家を守る兄、その二身。

芭蕉は陸奥の名称を文章に綴る事で、郷里を出られない兄に旅の気分を味わわせたかった。

幕府の隠密でありながら、俳諧師としての名を挙げた芭蕉。

完成した『奥の細道』を最初に渡したのが、兄・半左衛門だった。(元禄7年 1694)

嵐山「奥の細道は芭蕉が46歳の時に旅して、51歳まで、5年間かけた。

書き終わった年に死んだ。

400字詰めの原稿用紙にすれば30枚、それを5年間かけて推敲して仕上げた。

日本、江戸文学の最高傑作だ。」

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