http://yahantei.starfree.jp/category/%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E8%95%AA%E6%9D%91%E5%91%A8%E8%BE%BA/ 【蕪村が描いた芭蕉翁像(十三~十五)】 より
その十三 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「101『芭蕉像』画賛」
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「101『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
一幅 款 「天明歳次壬寅晩冬初十日 蕪村拝写」 印 「長庚」「春星」(白文連印)
賛 後掲 天明二年(一七八二) 『俳人真蹟全集 蕪村』
(賛)
花にうき世我酒しろく飯くろし 夏ころもいまた虱をとりつくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜哉 あけぼのや白魚しろきこと一寸
あさよさにたれまつしまそ片こゝろ
落款の「天明歳次壬寅晩冬初十日」から、「天明二年(一七八二)十ニ月十日」の作ということになる。蕪村が亡くなるのは、翌年の天明三年(一七八三)十ニ月二十五日、丁度、亡くなる一年前の作品ということになる。
この賛中の芭蕉の五句は、蕪村が精選を重ねての五句ということになろう。晩年の芭蕉が到達した「軽み」の世界というのは、「日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する」と要約すれば、これらの作品は、決して晩年の作品ではないが、どの句も「日常卑近の題材」であり、そして、どの句も「真率・平淡な表現」のものということになろう。
これらの賛の五句が、芭蕉の「軽み」の世界のものとするならば、この蕪村の「芭蕉像」を、顔の表情は実にユーモラスで、先に紹介した「倣暒々翁墨意」の落款のある「芭蕉像」(『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」)に近いという印象を深くする。
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
一幅 款 「蕪村拝写」 印 一顆(印文不明) 賛 後掲 『上方俳星遺芳』
(賛)
花にうき世我酒白く飯黒し 夏衣いまた虱を取つくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜かな おもしろし雪にやならむふゆの雨
あさよさにたれまつしまそ片心
冒頭に掲げた「芭蕉像」の賛中の五句と同じものではなく、この四句目のみが相違している。また、他の四句も、漢字と平仮名などの句形を異なにしている。しかし、この両者は、この賛などからして、同一時期の作品と解したい。即ち、両者とも、天明二年(一七八二)作と解したい。
その上で、両者の画像を比較鑑賞すると、前者が、速筆体の「戯画」「酔画」の、「真・行・草」の「草画」的な印象に比して、後者の方は、丁寧な筆遣いで、「真(本)画」的な印象を強く受ける。
先に、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛ての蕪村書簡の一部について触れたが、ここで、より詳しく、その書簡について触れて置きたい。
[ (前略)
〇 杉風が画の肖像も少々俗気有之候故、いさゝか添削を加候。都(スベ)て肖像之画法は、年を寄せ候が能(よく)候。
〇 杉風原本にはしとね(褥)を敷(しき)候へども、是はよろしからず候。仏家之祖師などの像には褥(しとね)をよく候へ共、翁などのごとき風流洒落(しゃらく)にて脱俗塵たる像は、只寒相にて寂しき方を貴(たっと)び申事に候。
〇 愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画(えがき)たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候。庶幾(こいねがわくば)其真にせまらん事を。(以下、略) ]
(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)
蕪村が描く座像の「芭蕉像」は、多く、杉風の芭蕉像(例えば、義仲寺の芭蕉像)を参考にしているのだろうが、この書簡にあるごとく、ことごとく「添削を加え」(手を入れて修正している)、蕪村の内たる芭蕉像を描出している。
また、この書簡の、杉風作は「褥を敷(しき)候へ共、是はよろしからず候」と、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている七点の座像ものは、全てが、「褥(しとね=座る時の四角い敷物)は敷いていない。
さらに、この書簡の、「肖像之画法は、年を寄せ候(年相応に描く)が能(よく)候」と、その顔の表情などは、一枚足りとも同じ表情のものはない。壮年の芭蕉は壮年らしく、老齢の芭蕉は老齢のままに描いている。
上記の同一時の頃の作と思われる(その賛などからして)二例にしても、前者が「動的・ユーモラス」な芭蕉像とすると、後者は「静的・謹厳実直」な芭蕉像という趣である。そして、画人・蕪村の忠実な後継者である「月渓」の描く芭蕉像などは、蕪村の外面的なものの把握だけで、その内面的なものに迫ろうとする気配は感じられない。
そして、これまで見てきた「百川・若冲・月渓」の芭蕉像と、蕪村のそれとを比較すると、質・量共に、蕪村に匹敵する画人は見当たらないということを実感する。
その十四 眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点について、
これまでに、「④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)を除いて、全て、概括してきた。今回、この最後の一枚を見て行きたい。
① 座像(正面向き、褥なし、安永八年作=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その十四)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)
蕪村遺芳.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「89『芭蕉像』画賛」
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「89『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。
紙本墨画 一幅
一〇〇・一×三〇・七cm
款 「夜半亭蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 後掲
『蕪村遺芳』
(賛)
蓬莱に聞はやいせの初便
先たのむ椎の木も有夏木立
名月や池をめくりて終宵
海くれて鴨の声ほのかにしろし
この「芭蕉像」は白帽子である。「安永八年作=一七七九作」の「① 座像」「② 半身像」「③ 座像」も、白帽子であった。その特徴からする、その「安永八年(一七七九)」の、金福寺に奉納した「③ 座像」と、同一時頃の作品なのかも知れない。
ここで、「国文学 解釈と鑑賞(特集与謝蕪村)837 2001/2」所収「蕪村の描いた芭蕉(早川聞多稿)」で紹介されている「芭蕉像に賛された発句一覧(句の上の数字は引用回数、句の下に、詠句年齢・出所出典)」を、以下に掲げて置きたい。
※は、この賛にある句である。
⑥ 芭蕉野分して盥に雨をきく夜かな (三八歳・茅舎の感)
⑤ 花にうき世我我酒白く飯黒し (四〇際・虚栗)
⑤ 夏衣もいまだ虱を取り尽さず (四二歳・野ざらし紀行)
④ 名月や池をめぐりて夜もすがら (四三歳・あつめ句) ※
③ わが衣に伏見の桃の雫せよ (四二歳・野ざらし紀行)
③ 海暮れて鴨の声ほのかに白し (四二歳・野ざらし紀行) ※
③ 世にふるもさらに宗祇のやどりかな(四三歳・笠の記)
③ おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな (四五歳・鵜舟)
③ 朝夜さに誰がのつしまぞ片心 (四五歳・桃舐集)
③ 行く春や鳥啼魚の目は泪 (四六歳・奥の細道)
③ 物いへば唇寒し秋の風 (四八歳頃・芭蕉庵小文庫)
③ 蓬莱に聞かばや伊勢の初便 (五一歳・真蹟自画賛) ※
② 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり (四二歳・野ざらし紀行)
② あけぼのや白魚白きこと一寸 (四二歳・野ざらし紀行)
② 年暮れぬ笠着て草鞋はきなから (四二歳・野ざらし紀行)
② 梅白しきのふや鶴をぬすまれし (四二歳・野ざらし紀行)
② 古池や蛙飛こむ水の音 (四三歳・蛙合)
② いてや我よき衣着たり蝉衣 (四四歳・あつめ句)
② 五月雨に鳰のうき巣を見にゆかん (四四歳・泊船集)
② 寒菊や粉糠のかゝる臼の端 (五〇歳・炭俵)
② この道を行く人なしに秋の暮 (五一歳・書簡)
① 櫓の声(せい)波を打つて腸凍る夜や涙 (三八歳・寒夜の辞)
① 年の市線香買ひに出でばやな (四三歳・続虚栗)
① おもしろし雪にやならん冬の雨 (四四歳・俳諧千鳥掛)
① 夕顔や秋はいろいろ瓢哉 (四五歳・真蹟懐紙考)
① このあたり目に見ゆるものは皆涼し(四五歳・十八楼の記)
① 粟稗にまづしくもあらず草の庵 (四五歳・笈日記)
① あかあかと日はつれなくも秋の風 (四六歳・奥の細道)
① 初時雨猿も小蓑を欲しげなり (四六歳・猿蓑)
① 蛍の笠落したる椿かな (四七歳・真蹟色紙)
① 菰を着て誰人います花の春 (四七歳・真蹟草稿)
① 先たのむ椎の木も有り夏木立 (四七歳・幻住庵の記) ※
① ほととぎす大竹藪を漏る月夜 (四八歳・嵯峨日記)
① 子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん (五〇歳・藤の実)
① 稲妻や闇の方ゆく五位の声 (五一歳・有磯海)
その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」
俳仙群会図.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)
平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」図録の「作品解説1」は、次のとおりである
【絹本着色 三五・〇×三七・〇
款記 朝滄写
印章 丹青不知老至(白文方印)
柿衛文庫蔵
後賛詞(上部)
此俳仙群会の図は元文の
むかし余若干の時写したる
ものにしてこゝに四十有余年
に及へりされは其拙筆
今更恥へしなんそ烏有と
ならすや今又是に
讃詞を加へよといいふ固辞
すれともゆるさすすなはち
筆を洛下の夜半亭にとる
花散月落て
文こゝに
あらあり
かたや
天明壬寅春三月
六十七翁蕪村書
印章 謝長庚印(白文方印) 溌墨生痕
賛(下部)
元日や神代のこともおもはるゝ(守武)
鳳凰も出よのとけきとりのとし(長頭丸・貞徳)
これはこれはとはかり花のよしのやま(貞室)
手をついて哥申上る蛙かな(宗鑑)
ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け(梅翁・宗因)
古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
桂男懐にも入や閨の月(やちよ)
古暦ほしき人にはまいらせむ(嵐雪)
いなつまやきのふはひかしけふは西(其角)
はつれはつれあはにも似たるすゝき哉(園女)
かれたかとおもふたにさてうめの花(支考)
こよひしも黒きもの有けふの月(宋阿)
任口上人の句はわすれたり
平安蕪邨書
印章 謝長庚(白文方印) 謝春星(白文方印)
後賛詞「元文のむかし余若干の時写したるものにして」によれば、元文年間、蕪村二十代前半の作で、現存する原本作品中最も古いものということになる。芭蕉を初めとする俳仙に、師・宋阿を加えた計十四人の俳人が描かれている。後賛詞に誤りがなければ、宋阿像は生存中の宋阿を描いたことになる。一方では、この作品の制作時期を、丹後時代とする説もある。描いた年代の記憶は、時と共に曖昧になるのが常だが、自身の師の像を生存中に描いたか否かの記憶は、早々薄れるものではない。したがって、蕪村の後賛詞は信ずるに足るものであると考えられる。人物の表現に関しては、「狩野・土佐折衷様式を持つ江戸狩野の特色が強い」との指摘がなされている。 】
この「作品解説(北畠健稿)」の基本的な考え方は、「柿衛文庫」の創設者・岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』所収「俳仙群会図」の解説を踏襲している。その解説は次のとおりである。
【右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。
(「賛」の句・落款を省略)
さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。
(「後賛詞」の句文・落款を省略)
この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
以下、略 】
ここで、蕪村の画号の「朝滄」は、蕪村の関東歴行時代(元文元年・一七三六~寛延三年・一七五〇)には見られない(画号は「子漢・四明・蕪村」の三種類だけである)。そして、印章は、「四明山人・朝滄・渓漢仲」で、「朝滄」(二種類)が用いられている。
問題は、「丹青不知老到(タンセイオイノイタルヲシラズ)」の遊印で、いみじくも、この遊印は、同年齢の蕪村と若冲とが、同じ頃、それぞれが、それぞれの自己の遊印として使用しているという曰くありげな印章なのである。
即ち、この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。
この宝暦九年(一七五九)・宝暦十年(一七六〇)というのは、若冲・蕪村が、四十四歳・四十五歳の時で、杜甫の詩に由来のある「丹青(絵画)老イノ至ルヲ知ラズ」は、「不惑ノ年=四十歳=初老」と深く関わっているように思われる(これらのことについては「補記」を参照)。
蕪村が、不惑の四十歳を迎えるのは、宝暦五年(一七五五)で、その前年に丹後宮津に赴き、以後、この宮津滞在中に「朝滄」の号で多くの画作を残している。こういう観点から、二十歳代の蕪村(「宰町・宰鳥」時代)が、「朝滄」という画号はともかく、「丹青不知老到」という印章を使用するとは、まずもって不自然ということになろう。
とすると、この「後賛詞」の「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」とは、
この「俳仙群会図」の下絵など(「控え帳」などの「縮図」など)を指し、それに基づいて、丹後時代に本絵を仕上げたという意味にも取れなくも無い。
そして、この「後賛詞」を書いた、亡くなる一年前の天明二年(一七八三)に、蕪村は二枚の表情の異なる「芭蕉翁像」(座像)を描いている(その十三を参照)。それらの「芭蕉翁像」と、この「俳仙群会図」の、この「後賛詞」とは、やはり、何かしら縁があるように思われる。
いずれにしろ、この「俳仙群会図」中の、無帽の座像の「芭蕉像」は、それが、元文年間の駆け出しの二十歳代のものにしろ、宝暦年間の不惑の年の四十歳代のものにしろ、蕪村の「芭蕉像」の、そのスタート地点のものであることには、いささかも変わりはない。
そして、蕪村が亡くなる一年前の、六十七歳時の、この「俳仙群会図」の「後賛詞」の末尾に記した、「花散り月落ちて文こゝにありあらありがたや」の、この字余りの破調の句は、「花が散る、月が落ちるように、芭蕉翁、師の宋阿翁をはじめ、皆、俳仙の方々は鬼籍の人となったが、その句文は今に存して、道しるべとなっている。何とありがたいことであることか」というのは、「六十七歳・蕪村翁」の、万感の意を込めてのものであろう。
この「俳仙群会図」は、蕪村の生涯、そして、蕪村の芭蕉観を知る上での、極めて、重要且つ示唆深い作品の一つということになろう。
俳仙群会図・芭蕉像.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)
(補記)「若冲と蕪村の『蝦蟇・鉄拐図』」より「朝滄」と「「丹青不知老(将)至」関連(抜粋)
上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。
第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)
この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。
また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。
とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。
そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。
この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。
この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。
また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。
その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。
こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。
その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。
そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。
この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。
しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。
すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。
さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。
そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。
さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。
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