https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199630/3 【与謝蕪村関係資料〈/寺村家伝来〉】 より
国宝・重要文化財(美術品)
与謝蕪村(一七一六-一七八三)の俳諧の弟子であり経済的後援者でもあった寺村百池(一七四八-一八三五)の家に伝来した絵画類と書跡類である。大半は、百池筆の箱書等によって、百池が蕪村から与えられたことが明らかである。
このうち絵画類は、沈南蘋の画風の影響を受けた宝暦年間の「寒林野馬図」から最晩年の天明年間の作品に至るまで、蕪村の後半生の各時期にわたり、画題・技法についてみても、こまやかな感覚を見せる山水画からあくの強い人物画、軽妙な俳画に及ぶ、蕪村の画業を多角的に示すすぐれた作品群ということができる。また書跡類は、国文学研究上重要な句稿断簡、俳文の真跡、そして蕪村の人柄や生活を伝える多数の書状を含む。
このような蕪村の関係遺品がまとまって伝存している例は他になく、一括して保存すべき貴重な資料と考えられる。
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%BA%E6%9D%91%E7%99%BE%E6%B1%A0-1093170
【寺村百池(読み)てらむら ひゃくち】 より
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1748-1836* 江戸時代中期-後期の俳人。
寛延元年生まれ。家は京都の糸物問屋「堺屋」。与謝蕪村(よさ-ぶそん)に入門。絵を円山(まるやま)応挙に,茶道を6代藪内(やぶのうち)紹智にまなんだ。蕪村を後援し,その関係資料などを後世にのこした。天保(てんぽう)6年12月17日死去。88歳。名は雅晁。字(あざな)は子文。通称は助右衛門。別号に大来堂。句集に「巴調(はちょう)集」。
【格言など】鶯の影も口明く日南(ひなた)哉(「巴調集」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
朝日日本歴史人物事典の解説
没年:天保6.12.17(1836.2.3)
生年:寛延1(1748)
江戸中期の俳人。名は雅晁。通称は堺屋助右衛門(のち助左衛門)。別号に大来堂,微雨楼など。京都河原町四条上ルに住した糸物問屋。父三右衛門(俳号,了爾など)以降,2代にわたり与謝蕪村に師事。蕪村の百池に対する信頼はあつく,多くの百池宛書簡が伝わっている。他方,加藤暁台一派とも親しく,蕪村,暁台交友の接点ともなった。蕪村没後は,京都俳壇の重鎮となる。俳諧のほかに,画を円山応挙に,茶を藪内比老斎に学んだ。<参考文献>乾猷平『蕪村と其周囲』
(楠元六男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
https://yotokusha.co.jp/nwes00001 【新発見の与謝蕪村の新出句を『天理図書館』で展示】より
約2900と言われていた与謝蕪村(1716~1784)の句に、新たに212の句が加わった。奇しくも生誕300年の年の発表。
10月14日午後1時。図書館2階講堂で開かれた記者発表には、各新聞社、テレビ関係も取材に訪れた。著名な蕪村研究者・藤田真一(関西大学文学部部長)と、天理図書館の牛見正和両氏による説明があった。
『夜半亭蕪村句集』は、昭和9(1934)年に一部が紹介されて以降、その所在がわからなかった。その本が4年前、天理図書館に収蔵されることになった。そして、『夜半亭蕪村句集』(1903の句)の中に、新出の句が212あることがわかったのである。
中には、蕪村の筆と思われる朱筆の書き入れや、墨書による訂正記事等がある。
句集はもと、門人の百池が所蔵。百池は京都河原町の大店の旦那。蕪村の弟子として句を習い、蕪村が描く絵を買って、彼の生計を支えた一人である。
蕪村は生前、自らの句をまとめて出版したいという夢を持っていた。しかし、その夢は叶わずに旅立ったという。その後、弟子たちが、書き写していた句会などで蕪村が詠んだ句を、後世に伝えてきた。
今回、生誕300年に発表されるこの句集も、百池が句会で書き綴った蕪村の句の結晶である。
今回発表の資料も、天理図書館の「綿屋文庫」所蔵。中山正善二代真柱が『おふでさき』研究のために、立教当時の江戸末期庶民の言葉や生活の様子を窺える古俳書の蒐集に努め、そこに中山家の屋号に因んで「綿屋文庫」と名づけられたのが始まりである。
教祖130年祭前。文化の秋、立教の大祭の旬にあわせて、その「綿屋文庫」から蕪村の新出句が発表されることは、蕪村の生誕300年とあわせて、奇しきものを覚える。
0コメント