https://kengaku5.hatenablog.com/entry/35544240 【舎利と蛇骨】 より
写真は川原で拾った小さな蛇骨石(じゃこついし)です。舎利石、舎利母石と呼ぶには小さすぎて、砂利でしょうか。
中身は沸石、魚眼石、方解石、石英、それらの複合等。外観で判別するのは難しいです。
舎利石といえば、なぜ丸い石を舎利(骨)に見立てるのか不思議ですが、骨の中でも喉仏(喉の出っ張りではなく、第二頚椎の突起の方)に見立てたのかもしれません。霊力が凝集して白い玉になるというような発想もあるそうです。
江戸時代、与謝蕪村(1716-1784)に蛇骨の俳句がありました。
薬堀けふは蛇骨を得たり鳧《けり》 (蕪村遺稿)
薬堀けふは蛇骨を得たる哉 (夜半叟句集 1776年)
この「蛇骨」は何なのか、資料を探してみましたが、わかりませんでした。
ヘビの骨、何かの骨の化石(竜骨)、木化石、珪華、沸石等々。
特定のものを指す解説文を見ることがありますが、根拠はあるのでしょうか…
同時代の木内石亭『雲根志 前編』(1773)には蛇骨の産地について「大和国大峰山相模国はこね山にあり」「又近江美濃よりも出す」とあります。京都付近とすれば、大峰山や近江でしょうか。
しかし、この句だけでは蕪村が木内石亭と同じ認識をしていたかどうかはわかりません。例えばヘビの骨のつもりだったかもしれません。
雲根志の蛇骨がすべて同じものかどうかも不明です。話だけを集めて、実物を見ていないものもあるかもしれません。
遠藤元理『本草弁疑』(1681)、岡本一抱『広益本草大成』(1698) では蛇骨を木の化石としています。(本当に木の化石だったかは不明)
硬いもののように書いていて、木内石亭『雲根志 前編』(1773)の「此石至てやはらか也」の記述とは合致しません。『本草弁疑』(1681)から『雲根志 前編』(1773)の間で話が変化している可能性も。
遠藤元理『本草弁疑』(1681)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607109
本草辨疑 巻五 和薬 十五種
五 蛇骨《ジヤコツ》 本草石ノ類ニ出 他日考證可
諸山ニ多アリ 是レ蛇ノ骨ニハ非ス 大樹自ラ倒《タヲ》レテ土ニ埋《ウツモ》レ 年ヲ經《ヘ》テ後チ朽《ク》チ爛《タヽ》レテ木心許リ殘リ木ノ性失《ウセ》テ 反ソ石ニ成テ タヽケハ金聲ヲナス者ナリ 其形チ大蛇ノ如シ故ニ之名
刀《カタナ》斧《ヲノ》ニ傷損《シヤウソン》シタルニ此ノ粉《コ》ヲ傳《ツク》レハ血ヲ留メ痛ヲ止《ヤメ》肌肉《キニク》ヲ長ス
岡本一抱『広益本草大成』(1698)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557121
広益本草大成 巻之二十一 付録
蛇《シヤ》骨 本邦ノ諸山ヨリ之ヲ出ス。是レ本ト真ノ蛇骨ニ非ズ。大樹腐《クチ》倒《タヲレテ》土ニ埋《ウヅモ》レ年ヲ經《フルコト》久シテ 其木心堅《カタキ》所獨《ヒトリ》存シテ石ノ形如ク蛇ノ如ナル者也。末シテ研《スリ》傅《シキテ?》傷損ノ血ヲ止メ痛去 肌肉ヲ長
木内石亭『雲根志 前編』(1773)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563666
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556681
雲根志《うんこんし》 前編 巻之二 采用類《さいやうのるい》
蛇骨《じやこつ》 五十四
蛇《ぢや》の骨《ほね》の化《け》せし物といふはあやまり也土中《どちう》に産《さん》して白く骨《ほね》に似《に》たる石也むかしは日本《にほん》にある事をしらず唐物《とうもつ》を用ゆ今の世見出して沢山《たくさん》に出す功能《かうのう》尤《もつとも》おとらず大和国《やまとのくに》大峰山《おほみねさん》相模国《さがみのくに》はこね山にあり土俗《どぞく》切疵《きりきづ》に用ゆよくちをとむると此石至《いたつ》てやはらか也又近江《あふみ》美濃《みの》よりも出す
ちなみに、舎利石についても、松岡恕庵(1668-1746)『怡顔斎石品』と『雲根志』とで共通する内容と変化している内容があります。
『怡顔斎石品』「奸僧取テ仏舎利ニ充テ愚俗ヲ欺ク」は『雲根志』「予これを見るに都て是等の類を以て欺り」につながります。
『怡顔斎石品』「大石ニ付テ生ス」「能ク分スル也 一年数百粒ヲ分落ス」は舎利母石から舎利石が分落するという意味だと考えられますが、『雲根志』「器に入置に年を経て其数ふゆる也」は舎利石がそれだけで増えるように読めます。
夏目漱石(1867-1916)にも「冬木立寺に蛇骨を伝へけり」(1895)の句がありますが、これは薬や鉱物ではなく、石手寺の宝物のことのようです。
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