http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/taiju_annex/1899_haijinbuson.htm 【俳人蕪村】
緒言
芭蕉新に俳句界を開きしよりこゝに二百年、其間出づる所の俳人少なからず。或は芭蕉を祖述し或は檀林を主張し或は別に門戸を開く。然れども其芭蕉を尊崇するに至りては衆口一齊に(*一聲か。)出づるが如く、檀林等流派を異にする者も猶芭蕉を排斥せず、却つて芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加ふるを見る。是に於てか芭蕉は無比無類の俳人として認められ復た一人の之に匹敵する者あるを見ざるの有樣なりき。芭蕉は實に敵手なきか。曰く否。
芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべき者たること論を竢たず。此點に於て何人か能く之に凌駕せん。芭蕉の俳句は變化多き處に於て、雄渾なる處に於て、高雅なる處に於て、俳句界中第一流の人たるを得。此俳句は其創業の力より得たる名譽を加へて無上の賞賛を博したれども、余より見れば其賞賛は俳句の價値に對して過分の賞賛たるを認めざるを得ず。誦するにも堪へぬ芭蕉の俳句を註釋して勿體つける俳人あれば、縁もゆかりも無き句を刻して芭蕉塚と稱へ之を尊ぶ俗人もありて、芭蕉といふ名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾珠を成し句々吟誦するに堪へながら、世人は之を知らず宗匠は之を尊ばず、百年間空しく瓦礫と共に埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、或は之に凌駕する處ありて、却つて名譽を得ざりしものは主として其句の平民的ならざりしと蕪村以後の俳人の盡く無學無識なるとに因れり。著作の價値に對する相當の報酬なきは蕪村のために悲むべきに似たりといへども、無學無識の 徒に知られざりしは寧ろ蕪村の喜びし所なるべきか。其放縱不覊世俗の外に卓立せしところを見るに蕪村亦性行に於て尊尚すべきものあり。而して世は之れを容れざるなり。
蕪村の名は一般に知られざりしに非ず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村に非ず、畫家としての蕪村なり。蕪村歿後に出版せられたる書を見るに、蕪村畫名の生前に於て世に傳はらざりしは俳名の高かりしがために壓せられたるならんと言へり。これによれば彼が生存せし間は俳名の畫名を壓したらんかとも思はるれど、其歿後今日に至る迄は畫名却つて俳名を壓したること疑ふべからざる事實なり。余等の俳句を學ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見て稍其非凡なるを認め之を尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪氏いふ、蕪村集を得來りし者には賞を與へんと。是れ固と一場の戲言なりとはいへども、此戲言は之を欲するの念切なるより出でし者にして其裏面には強ちに戲言ならざる者ありき。 果して此戲言は同氏をして蕪村句集を得せしめ、余等亦之を借り覽て大に發明する所ありたり。死馬の骨を五百金に買ひたる喩も思ひ出されてをかしかりき。是れ實に數年前(明治二十六年か)の事なり。而して此談一たび世に傳はるや、俳人としての蕪村は多少の名譽を以て迎へられ、余等亦蕪村派と目せらるゝに至れり。今は俳名再び畫名を壓せんとす。
斯くして百年以後に始めて名を得たる蕪村は其俳句に於て全く誤認せられたり。多くの人は蕪村が漢語を用うるを以て其惟一(*唯一)の特色となし、しかも其惟一の特色が何故に尊ぶべきかを知らず(*、)况んや漢語以外に幾多の特色あることを知る者殆んど之れ無きに至りては、彼等が蕪村を尊ぶ所以を解するに苦むなり。余はこゝに於て卑見を述べ蕪村が芭蕉に匹敵する所の果して何處にあるかを辨ぜんと欲す。
積極的美
美に積極的と消極的とあり。積極的美とは其意匠の壯大、雄渾、勁健、艶麗、活潑、奇警なる者をいひ消極的美とは其意匠の古雅、幽玄、悲慘、沈靜、平易なるものをいふ。概して言はゞ東洋の美術文學は消極的美に傾き、西洋の美術文學は積極的美に傾く。若し時代を以て言はゞ國の東西を問はず上世には消極的美多く後世には積極的美多し。(伹壯大雄渾なる者に至りては却て上世に多きを見る)。されば唐時代の文學より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く從つて後世芭蕉派と稱する者亦多く之に倣ふ。其寂といひ雅といひ幽玄といひ細みといひ以て美の極となす者盡く消極的ならざるはなし。(但壯大雄渾の句は芭蕉之れ有れども後世に至りては絶えて無し)。故に俳句を學ぶ者消極的美を惟一の美 として之を尚び艶麗なる者活潑なる者奇警なる者を見れば則ち以て邪道となし卑俗となす。恰も東洋の美術に心醉する者が西洋の美術を以て盡く野卑なりとして貶するが如し。艶麗、活潑、奇警なる者の野卑に陷り易きは固より然り。然れども野卑に陷り易きを以て野卑ならざる者をも棄つるは其辨別の明無きが故なり。而して古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味を生じ今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐を催さしむるに至るを見るに彼の艶麗ならんとして卑俗に陷りたる者に比して毫も優る所あらざるなり。
積極的美と消極的美とを比較して優劣を判せんことは到底出來得べきにあらず。されども兩者共に美の要素なることは論を竢たず。其分量よりして言はゞ消極的美は美の半面にして積極的美は美の他の半面なるべし。消極的美を以て美の全體と思惟せるは寧ろ見聞の狹きより生ずる誤謬ならんのみ。日本の文學は源平以後地に墜ちて復振はず(*、)殆ど消滅し盡せる際に當つて芭蕉が俳句に於て美を發揮し消 極的の半面を開きたるは(*原文「聞きたるは」)彼が非凡の才識あるを證するに足る。しかも其非凡の才識も積極的美の半面は之を開くに及ばずして(*原文「及はずして」)逝きぬ。蓋し天は俳諧の名譽を芭蕉の專有に歸せしめずして更に他の偉人を待ちしにやあらん。去來丈草も其人にあらざりき。其角嵐雪も其人にあらざりき。五色墨(*中川宗瑞、他『五色墨』〔1731〕)の徒固より之を知らず。新虚栗(*堀麦水編〔1777〕)の時何者をか攫まんとして得る所あらず。芭蕉死後百年に垂んとして始めて蕪村は現れたり。彼は天命を負ふて俳諧壇上に立てり。されども世は彼が第二の芭蕉たることを知らず。彼亦名利に走らず聞達を求めず、積極的美に於て自得したりと雖も唯其徒と之を樂むに止まれり。
一年四季の中春夏は積極にして秋冬は消極的なり。蕪村最も夏を好み夏の句最も多し。其佳句も亦春夏の二季に多し。是れ既に人に異なるを見る。今試みに蕪村の句を以て芭蕉の句と對照して以て蕪村が如何に積極的なるかを見ん。
四季の内夏期は最も積極なり。故に夏季の題目には積極的なる者多し。牡丹は花 の最も艶麗なる者なり。芭蕉集中牡丹を詠ずる者一二句に過ぎず。其句亦
尾張より東武に下る時
芭蕉
牡丹蘂深くわけ出る蜂の名殘かな
桃隣新宅自畫自賛
同
寒からぬ露や牡丹の花の蜜
等の如き(*、)前者は唯季の景物として牡丹を用ゐ(*、)後者は牡丹を詠じて極めて拙き者なり。蕪村の牡丹を詠ずるは強ち力を用ゐるにあらず、しかも手に隨つて佳句を成す。句數も二十首の多きに及ぶ。其内數首を擧ぐれば
牡丹散つて打重なりぬ二三片
牡丹剪つて氣の衰へし夕かな
地車(*四輪の荷車)のとゞろとひゞく牡丹かな
日光の土にも彫れる牡丹かな
不動畫く琢磨(*絵仏師の一派の名。その絵仏師。)が庭の牡丹かな
方百里雨雲よせぬ牡丹かな
金屏のかくやく(*赫奕。光り輝くさま。)として牡丹かな
蟻垤(*蟻塚)
蟻王宮朱門を開く牡丹かな
波翻舌本吐紅蓮(*「舌本を波翻して紅蓮を吐く。」〔閻魔大王が赤い舌を出す。仏弟子が偽りの無いことを示す意という。〕)
閻王の口や牡丹を吐かんとす
其句亦將に牡丹と艶麗を爭はんとす。
若葉も亦積極的の題目なり。芭蕉の之を詠ずる者一二句にして
招提寺
芭蕉
若葉して御目の雫ぬぐはゞや
日光
芭蕉
あらたふと靑葉若葉の日の光
の如き皆季の景物として應用したるに過ぎず。蕪村には直に若葉を詠じたる者十餘句あり(*、)皆若葉の趣味を發揮せり。例
山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな
蚊帳を出て奈良を立ち行く若葉かな
不盡一つ埋み殘して若葉かな
窓の灯の梢に上る若葉かな
絶頂の城たのもしき若葉かな
蛇を截つて渡る谷間の若葉かな
をちこちに瀧の音聞く若葉かな
雲の峰の句を比較せんに
芭蕉
ひら\/とあぐる扇や雲の峰
同
雲の峰いくつ崩れて月の山
游刀亭(*原文「游力亭」。遊刀は膳所の能太夫。)
湖や暑さを惜む雲の峰
月山の句稍〃力強けれど猶蕪村のに比すべくもあらず。蕪村の句多からずといへども
楊州の津も見えそめて雲の峰 (*鑑真招提の渡唐のイメージか。)
雲の峰四澤の水の涸れてより (*「春水四澤に満つ」という禅語を踏まえる。)
旅意(*旅心)
廿日路(*木曾路)の背中に立つや雲の峰
の如き皆十分の力あるを覺ゆ。五月雨は芭蕉にも
芭蕉
五月雨の雲吹き落せ大井川
同
五月雨をあつめて早し最上川
の如き雄壯なるものあり。蕪村の句亦之に劣らず。
五月雨の大井越えたるかしこさよ
五月雨や大河を前に家二軒
五月雨の堀たのもしき砦かな
夕立の句は芭蕉に無し。蕪村にも二三句あるのみなれども雄壯當るべからざるの勢あり。
夕立や門脇殿の人だまり (*平家物語を踏まえるか。)
夕立や草葉をつかむむら雀
双林寺獨吟千句
夕立や筆も乾かず一千言
時鳥の句は芭蕉に多かれど雄壯なるは
芭蕉
時鳥聲横ふや水の上
の一句あるのみ。蕪村の句の中には
時鳥柩をつかむ雲間より (*時鳥の別名「死出の田長」から。)
時鳥平安城をすぢかひに
鞘ばしる友切丸や時鳥 (*津打治兵衛「助六所縁〔ゆかりの〕江戸桜」で花川戸助六こと曾我五郎が探す銘刀の名。)
など極端にものしたるものあり。
櫻の句は蕪村よりも芭蕉に多し。しかも櫻のうつくしき趣を詠み出でたるは
芭蕉
四方より花吹き入れて鳰の海
同
木のもとに汁も鱠も櫻かな
同
しばらくは花の上なる月夜かな
同
奈良七重七堂伽藍八重櫻
の如きに過ぎず。蕪村に至りては
阿古久曾(*紀貫之の幼名)のさしぬき振ふ落花かな
花に舞はで歸るさ憎し白拍子
花の幕兼好を覗く女あり (*塩冶判官妻が艶書の書き手を垣間見るという趣向か。)
の如き妖艶を極めたる者あり。其の外春月春水暮春などいへる春の題を艶なる方に詠み出でたるは蕪村なり。例へば
伽羅くさき人の假寢や朧月 (*小町のうたた寝のイメージか。)
女倶して内裏拜まん朧月
藥盜む女やはある朧月 (*后羿と嫦娥の伝説を踏まえる。)
河内路や東風吹き送る巫が袖
片町にさらさ染るや春の風
春水や四條五條の橋の下
梅散るや螺鈿こぼるゝ卓の上
玉人(*玉磨り)の座右に開く椿かな (*白玉椿か。)
梨の花月に書讀む女あり (*清少納言のイメージか。)
閉帳の(*原文「閉張の」)錦垂れたり春の夕
折釘に烏帽子掛けたり春の宿
ある人に句を乞はれて
返歌なき靑女房よ春の暮
琴心挑美人(*原文「琴心桃美人」。『史記』司馬相如伝に基づく語。)
妹が垣根三味線草(*薺)の花咲きぬ
いづれの題目といへども芭蕉又は芭蕉派の俳句に比して蕪村の積極的なることは蕪村集を繙く者誰か之を知らざらん。一々こゝに贅せず。
客觀的美
積極的美と消極的美と相對するが如く客觀的美と主觀的美とも亦相對して美の要素を爲す。之を文學史の上に照すに上世には主觀的美を發揮したる文學多く後世に下るに從ひ一時代は一時代より客觀的美に入ること深きを見る。古人が客觀に動かされたる自己の感情を直叙するは自己を慰むる爲に(*、)將た當時の文學に幼稚(*ママ)なる世人をして知らしむる爲に必要なりしならん。是れ主觀的美の行はれたる所以なり。且つ其客觀を寫す處極めて麁鹵にして精細ならず。例へば繪畫の輪廓ばかりを描きて全部は觀る者の想像に任すが如し。全體を現さんとして一部を描くは作者の主觀に出づ。一部を描いて全體を想像せしむるは觀る者の主觀に訴ふるなり。後世の文學も客觀に動かされたる自己の感情を寫す處に於て毫も上世に異ならずと雖も(*、)結果たる感情を直叙せずして原因たる客觀の事物をのみ描寫し觀る者をして之によりて感情を動かさしむること恰も實際の客觀が人を動かすが如くならしむ。是れ後世の文學が面目を新にしたる所以なり。要するに主觀的美は客觀 を描き盡さずして觀る者の想像に任すにあり。
客觀的主觀的兩者孰れか美なるかは到底判し得べきに非ず。積極的消極的兩美の並立すべきが如くこれも亦(*並立)して各自の長所を現すを要す。主觀を叙して可なるものあり(*、)叙して不可なるものあり。客觀を寫して可なるものあり(*、)寫して不可なるものあり。可なる者は之を現し不可なるものは之を現さず(*、)而して後に兩者各〃見るべし。
芭蕉の俳句は古來の和歌に比して客觀的美を現すこと多し。しかも猶蕪村の客觀的なるには及ばず。極度の客觀的美は繪畫と同じ。蕪村の句は直ちに以て繪畫となし得べき者少からず。芭蕉集中全く客觀的なる者を擧ぐれば四五十句に過ぎざるべく(*、)中に就きて繪畫となし得べき者を擇みなば
芭蕉
鶯や柳のうしろ藪の前
同
梅が香にのつと日の出る山路かな
芭蕉
古寺の桃に米踏む男かな
同
時鳥大竹藪を漏る月夜
同 (*原文「さゝれ蟹」)
さゞれ蟹足はひ上る清水かな
同
荒海や佐渡に横ふ天の川
同
猪も共に吹かるゝ野分かな
同
鞍壺に小坊主乘るや大根引
同
鹽鯛の齒莖も寒し魚の店
等二十句を出でざらん。宇陀の法師(*李由・許六編〔1702〕)に芭蕉の説なりとて掲げたるを見るに
木導
春風や麥の中行く水の音
師説云(*、「)景氣の句世間容易にする(*、)以の外の事也。大事の物也。連歌に景曲と云ふ(*、)いにしへの宗匠深くつゝしみ一代一兩句には過ぎず。景氣の句初心まねよき故深くいましめり。俳諧は連歌程はいはず。總別景氣の句は皆ふるし。一 句の曲なくては成がたき故つよくいましめ置たる也。木導が春風景曲第一の句也。後代手本たるべし(*。」)とて褒美に「かげろふ(*原文「かけろふ」)いさむ花の糸口」と云ふ脇して送られたり。平句同前也。歌に景曲は見樣體に屬すと定家卿もの給ふ也。寂蓮の急雨(*「村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ち上る秋の夕暮」)(*・)定頼卿の宇治の網代木(*「朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれわたる瀬々の網代木」)(*、)是れ見る樣體の歌也(*。)
とあり。景氣といひ景曲といひ見樣體といふ、皆我謂ふ所の客觀的なり。以て芭蕉が客觀的叙述を難しとしたる事見るべし。木導の句惡句にはあらねど此の一句を第一とする芭蕉の見識は極めて低く極めて幼し。芭蕉の門弟は芭蕉よりも客觀的の句を作る者多しと雖も皆客觀を寫すこと不完全なれば直ちに之を畫とせんには猶ほ足らざる者あり。
蕪村の句の繪畫的なる者は枚擧すべきにあらねど十餘句を擧ぐれば
木瓜の陰に顔たぐひ(*並べて)すむ雉(*きぎす)かな
釣鐘にとまりて眠る胡蝶かな
やぶ入や鐵漿もらひ來る傘の下
小原女の五人揃ふて袷かな
照射(*ともし)してさゝやく近江八幡かな
葉うら\/火串(*松明を挟み持つ木)に白き花見ゆる
卓上の鮓に眼寒し觀魚亭
夕風や水靑鷺の脛を打つ
四五人に月落ちかゝる踊かな
日は斜關屋の槍に蜻蛉かな
柳散り清水涸れ石ところ\/
かひがねや穗蓼の上を車(*塩車)
鍋提げて淀の小橋を雪の人
てら\/と石に日の照る枯野かな (*芭蕉「蕭条と石に日の入る枯野かな」を踏まえる。)
むさゝびの小鳥喰み居る枯野かな
水鳥や舟に菜を洗ふ女あり
の如し。一事一物を畫き添へざるも繪となるべき點に於て蕪村の句は蕪村以前の句よりも更に客觀的なり。
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