祀り・祭り・奉り・政り

日本人は古来「あま(あの世)」と「うつしよ(この世)」を想定し 二つの世界をつなぐ「ま」を大事にしてきました。

「ま」をつり合わせる「まつり」は神事として祀られてきました。 祀り・祭り・奉り・政りとは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)であると言われます。 祭のお囃子、太鼓や鈴の音。神輿や踊りや香り。祭に預かるものは いつしか変性意識になり潜在意識とコンタクトする=神からの啓示=ご神託 を受けとることになります。

「ま」つりを行えば「うつしよ」に居ながらにして「天」と交信できるともいえます。

「命」は「人が一を叩く」と私が解釈したことに対し、本来命という字は「令と口に分けられます。この口は祭器を表し、礼服をつけて 跪いて神の啓示を待つもの。ゆえに神の啓示を意味します。」との指摘を受けました。

然し「神の啓示を受け取れるもの」は「ひとつを体験できるもの」だと思うのですが如何でしょう?


Facebook・清水 友邦さん投稿記事

先住民の社会では危機に陥ったとき祭りをおこないます。

火を焚きそのまわりで歌い踊って、エネルギーを発散させます。

祭という儀礼をおこなうことで不安や怒りを解消して、心身の危機を克服します。

祭にはストレスから身を守り、元気を回復する変容と統合とよばれる機能が、そなわっています。

ニーチェは近代合理主義をアポロン的と呼び、人間本来の生命力の豊かさや力強さを回復させるにはディオニュソス的な熱狂・興奮が必要なことを語っています。

人間は地(ガイア)へと帰すべき物質の身体と神の子ディオニュソスの神性を持っています。

ディオニュソスの狂乱は理性的な自我の壁を取り払うことで恍惚となり肉体から魂が解放され生命の根源である神と出会うことにありました。

ディオニュソスの密儀では酒と音楽と踊りによって恍惚となる死と再生の儀式を行っていました。

ディオニュソスの象徴は生を無条件に肯定して楽しむことでした。

そして、その歓びは苦しみと分ちがたく結びついていました。

死の恐怖と痛みに向き合わなければ再生は起きません。

この上ない至福や喜び、崇高な魂の世界は死の運命を受け入れ恐怖や苦悩を超えるところにありました。

現代人はピラミッド社会の底辺で機械人間にされ、神聖なものと繋がりが断たれて生命力を消耗しています。

自分が誰であるかすっかり忘れてしまっています。

祭りが本来の野生の姿を取り戻したとき、大地から上昇するエネルギーが魂を甦らせるでしょう。

残念ですが今年の夏祭りは中止になりました。


https://call-of-history.com/archives/21377 【ブルガリアでローマ帝国時代のディオニュソス神の密儀教団に関する大理石板が発見】 より

ブルガリア共和国中部に位置する同国第二の都市プロヴディフ(Plovdiv)にある主教座教会のバシリカ(教会堂)から、ディオニュソス神を崇める密儀教団のメンバー44人が刻まれた古代ローマ時代の大理石で造られた石板が発見された。

発見された大理石板は五世紀に建設されたバシリカの広間(アトリウム,atrium)の床材として使われていたもので、バシリカ建設前の建物の一部を引き継いでいた。石板の作成時期は三世紀頃に遡るとみられている。

石板の文面は以下の前文に続いて44人のメンバーの名前と彼らの地位が書かれている。

「皇帝の勝利、健康、そして永遠の存在のために、プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス、ガッリエヌス・アウグストゥスと彼らの家族のために、神聖なる元老院とローマの人々のために、そして議会とフィリッポポリスの集会のために、トラキア人の指導者ディオニュソスは生き残った密儀を捧げ、一方で、密儀の指導者にして永遠の司祭はムキアン(Mukian)の子アウレリウス・ムキアニド(Aurelius Mukianid)であった」

発掘にあたった碑文研究者ニコライ・シャランコフ(Nikolai Sharankov)教授によれば、「興味深いのは、組織内のメンバーのポジションも記載されており、非常に多様であることである。密儀の指導者や、僧侶の種類、特定の神聖な物を身につける義務がある人などがいて、他の碑文にはない複雑な構造をしている。これはまだ研究されていない」という。

現在正確な年代測定はされていないが、三世紀半ばのゴート族による破壊によってそれ以前の碑文はほとんど残されていないため、当時フィリッポポリスと呼ばれていたプロヴディフの歴史において、この石板の発見は非常に重要だと考えられている。シャランコフ教授は「ゴート人の侵略以降、フィリッポポリスに関しては3世紀後半の2つの碑文しか残っておらず、これは3つ目で、最も大きく最も意味があり、最も多くの情報を持っている」と語っている。

ウァレリアヌス帝(在位:子のガッリエヌスと共同皇帝として253~260年)とガッリエヌス帝(在位:父の共同皇帝として253~260年、単独統治260~268年)治世下はゴート族の侵攻が激しくなった時代で、シャランコフ教授によれば「この碑文はほぼ全市民が殺害されたり捕らえられたりしたゴート族の侵攻を生き延びたことを証明するものだ」。あるいは「ディオニュソスの密儀が盛んだった小アジアからの移民の可能性もある」という。「彼らはディオニュソスの助力に感謝し、記念碑を建て、ゴート族の脅威と当時の帝国で続く不安定さに留意して、新しい皇帝を援けるよう神に頼んだ」。

「碑文には知事やトラキア州については触れられていないが、密儀組織の構成員にとっての唯一の希望として皇帝だけが述べられている。彼らはトラキアの指導者である神ディオニュソスが彼らをより良い未来へと導くと信じていた」

ウァレリアヌス帝とガッリエヌス帝

ともに軍人皇帝時代のローマ皇帝。ウァレリアヌス帝は軍人皇帝時代の238年に始まったローマ内戦によって皇帝が次々交替する「六皇帝」時代に軍人として頭角を現し、253年、皇帝位に就いた。子のガッリエヌスを西方皇帝に立てると、自身は東方で勢威を増すサーサーン朝に対峙したが、259年、エデッサの戦いでシャープール1世率いるペルシア軍に敗れて捕虜となり、虜囚のまま亡くなった。

ガッリエヌス帝は父と共に共同皇帝として立ち西方を担当したが、父の死後単独皇帝として帝国の安定のために東奔西走した。勤勉で優秀な皇帝だったが帝権の失墜を押さえられず、西方で台頭したガリア帝国、東方でシリア諸州をまとめたパルミラ王国の登場で帝国三分割を受け入れざるを得ず、さらにゲルマン系アレマン人の圧力の前に防衛線であったリーメス・ゲルマニクスの放棄を余儀なくされ、最後はクーデターにあい暗殺された。彼の死後、いよいよローマ帝国は混迷の度を増していく。

密儀宗教

古代ギリシアからヘレニズム時代にかけて登場した宗教儀礼の秘密保持を旨とした諸宗教の総称。ポリス国家の市民が中心となる市民宗教に対して、個人の魂の不滅を願う信仰として誕生した。最初の密儀宗教は前六世紀頃、アテナイ郊外の町エレウシスにあった穀物女神デメテルと娘神ペルセポネの神殿で行われたと考えられている。その後、エレウシスの密儀の儀礼が様々な神に対する信仰で用いられて広まった。密儀宗教は共和政ローマ時代に弾圧されたが生き残り、ローマ帝国時代から再び盛り上がった。

ディオニュソス

酒と陶酔・解放の神。ディオニュソスの崇拝者たちは激しい踊りで我を忘れて心酔したことから、古代ギリシア時代、各地で排斥された。前四世紀頃までに密儀宗教として確立され、激しい排斥にも関わらず支持者を拡大した。ローマ時代、公的宗教としての皇帝崇拝が権威の失墜とともに衰退すると、密儀宗教や異教が再度隆盛を迎え、ミトラス教などとともにディオニュソスの密儀も大流行した。

『ディオニュソスの儀礼の中心には、やや形は異なっていても、多少とも暴力的な熱狂、狂気のエクスタシー的体験をつねに認めることができる。ある意味において、この「狂気」は入信者が「神に憑かれた」証拠となる。この体験はあきらかに忘れがたいものであった。そのなかで人々は、ディオニュソスのもつ創造的自発性、酩酊させる自由、超人的な力、無敵性などにあずかることができたからである。この神との交流は、暫しのあいだ人間を定められた存在のあり方から解放したが、しかし、それを変えてしまうものでは決してなかった。』(ミルチア・エリアーデ著(荒木美智雄 他訳)『世界宗教史 1 石器時代からエレシウ密儀まで』(筑摩書房,1991年)428頁)

参考記事・文献

・Archaeology: Third-century inscription with names of Dionysus cult found in Bulgaria’s Plovdiv

・Откриха гигантски надпис на мистично Дионисово сдружение от III век на Епископската базилика

・マイケル・グラント,ジョン・ヘイゼル 著(木宮直仁 他訳)『ギリシア・ローマ神話事典』(大修館書店,1988年)

・月本 昭男 編『宗教の誕生: 宗教の起源・古代の宗教 (宗教の世界史)』(山川出版社,2017年)

・長谷川 岳男,樋脇 博敏 著『古代ローマを知る事典』(東京堂出版,2004年)

・ミルチア・エリアーデ著(荒木美智雄 他訳)『世界宗教史 1 石器時代からエレシウ密儀まで』(筑摩書房,1991年)

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